「あらし」 - 番外編

The Moment #2



 血は、もう乾いてしまっていた。
 身なりを整えてから、少しだけ罪悪感のこもった視線をアルベルトに投げて---彼を抱いた時は、いつもこんなふうに感じる---、それからまた、優しく接吻した。
 アルベルトは、けだるげに体を起こし、そう言われる前に、乱れた服を直し始めた。
 シャツのボタンをとめるその手に、自分の手を重ね、無言のまま、ボタンをとめてやる。地味な色合いのネクタイを、きちんと締めてやってから、もう一度、今度は額に口づけた。
 傍に転がる死体を、ふたりで一緒に視界の端に入れ、けれどそれには特に何の感情も、もう示すこともなく、手を引くグレートに従って、アルベルトは床から立ち上がった。
 機械の右手を、握る。
 そのまま一緒に部屋を出ると、廊下を曲がった辺りにいた部下のひとりが、血にまみれたふたりの姿に、少しだけ怪訝な表情を見せた。
 部屋の方へあごをしゃくると、それだけで、次の命令---死体を始末しろ---を察して、部下のその男は、たった今ふたりが出て来たばかりの部屋へゆく。
 それを見送って、グレートは再び、アルベルトの手を引いて、廊下を歩き出した。
 待っていた車に乗り込んでも、手は離さず、かすかに揺れる車の中で、ふたりは無言でいた。掌の感触だけが、今はふたりを繋いでいた。


 忍び込むようにして、アルベルトの部屋へ戻り、血の染みを検分しながら、グレートは重いコートを脱いだ。
 アルベルトの、柔らかな銀髪についてしまった血は、乾いて髪にまといついたままでいる。
 とりあえず、風呂に入って、血を洗い流すべきだなと、思いついた。
 床で重ねた躯の感触も、まだ服の下に残っている。
 また、アルベルトの手を引いて、部屋についている、バスルームへ連れてゆく。
 まるで子どものように、されるまま、服を脱がされるのにも抵抗はない。
 坐らせて、靴と靴下を脱がせ、そこについた血の跡に、少しだけ眉をひそめて、グレートは、次々に衣服をアルベルトから剥ぎ取ってゆく。
 ズボンと下着から足を抜くと、無防備に、白い体が現れる。
 促して、バスタブにたまった湯の中に、入らせた。
 シャワーのコックをひねって、熱すぎない湯を確かめると、後ろから髪にかける。
 たっぷりの湯で濡らしてから、シャンプーを手に取った。
 猫の子か何かを、洗っているようだ。目を閉じて、時々小さく息を吐き出しながら、グレートの手が、動くままに喉を反らす。湯の熱さに、少し赤みを増した膚が、ようやくアルベルトを、生きた人間のように見せていた。
 泡を流し、バスタブの湯を捨て、湯気の中で、体の大きな赤ん坊のような表情で、自分を見上げているアルベルトに、グレートは優しく微笑みかけた。
 「残りは、自分で洗えるだろう。」
 少し悲しそうな瞳で、アルベルトがうなずいた。
 「この服は、もう、着れないな。」
 後ろに軽く振り返って、脱がせたアルベルトの服の山へ、あごをしゃくる。
 「部屋に、いるから。」
 そう言って、グレートは、バスルームを後にした。


 煙草をゆっくりと吸った。
 酒が欲しいと思ったけれど、下のキッチンに降りて、ボトルを探す気にはならなかった。
 窓の傍に立って、昼間でも、繁った木のせいで暗い裏庭の、今は真っ暗な闇の中に沈んだ、さまざまな形を眺める。
 My Dear、と、窓のガラスに映る自分の姿に向かって、口にしてみた。
 親と子ではない。恋人でも、情人でもない。友人では、もちろんなく、兄と弟というには、アルベルトがあまりにも稚ない。
 おれの、と言ってしまっても、いいのだろうか。
 金で買われる物だった彼が、ようやく人間に戻れた瞬間、所有格で表現される呼びかけを与えられる、残酷な矛盾と皮肉。
 そう呼ぶおれは、人でなしの、人殺しときてる。
 それとも、世の中には、所有されることでしか、存在できない人間も、いるのだろうか。
 少なくとも、複数の人間に、物として所有されるよりは、人として、ひとりの人間に所有される方がましかもしれないと、グレートは、勝手な言い草を、正当化しようとしてみる。
 煙草の煙が、白い。
 窓を開けて、煙草を外に投げ捨てた。窓を締め直した時、後ろで、バスルームのドアが開いた。
 振り返ると、大きなバスタオルだけを羽織ったアルベルトが、こちらを見ている。
 そこから動こうとしないアルベルトの方へ、グレートは足を運んだ。
 濡れた髪にも、湿った頬にも、もう血の跡はなく、その、水から上がったばかりの姿を見て、グレートは、生まれたばかりの赤ん坊のようだと思った。
 そうなのかも、しれない。
 今ようやく、人間として、生まれたのかもしれない。
 18年にも及ぶ、長い陣痛。苦しんだのは、存在すらない母体ではなく、そこにとどまることを強制されてしまった、胎児だった、アルベルト自身。
 そうか、と思って、髪を撫でてから、ひどく神聖な気分で、その水色の瞳をのぞき込んだ。
 「先に、ベッドに入っておいで。おれも、シャワーを浴びた方が良さそうだ。」
 身に浴びてきた穢れを、せめて清めようと、グレートは思った。


 バスルームに、アルベルトの服と、自分の服を、わけて山をつくり、床にそのまま放っておいた。
 血のついた服は、他の誰かに見られる前に処分しようと、頭の隅に、メモをする。
 アルベルトが、ほとんど使わないバスローブを羽織って、それから、まだ少し湿っている頭を、つるりと撫でた。
 これから起こることを思って、少し照れくさく、そして少しばかり、気が重い。
 けれど、起こるべきこと、すべきことなのだと、思った。
 今まで、つとめて避け続けてきた、こと。
 ようやく、今人として生まれたアルベルトを、人として、受け入れるために。
 物ではない。所有格の呼びかけは、形と見た目はどうであれ、愛しさの証しなのだと、胸を張れると、思った。
 思ってから、人でなしの人殺しが、何の張る胸だ、と自嘲する。
 それでも、少なくとも、アルベルトを抱きしめる腕のある自分を、ありがたいと思った。
 さて、と小さくつぶやいて、まるで、舞台に出る役者のように、呼吸を整え、肩を上げ、それから、天に向かって静かに祈った。


 ベッドの中のアルベルトは、そうなることを悟っていたのか、身に何も着けず、グレートを待っていた。
 その体に、自分の素肌を添わせながら、グレートは、初めて生身に、アルベルトを抱きしめた。
 光の中でよく見れば、痛めつけられてきた証拠の、傷跡もあるに違いない、からだ。
 隠しようもなく、大人の男になり始めているその体を、グレートは、自分の下に抱き込んだ。
 かすかな、血の匂いと、硝煙の匂い。
 目を閉じて、今まで起こったことを、頭のすみに押しやろうとする。
 アルベルトを守ると思い決めても、償えない罪はある。これは、贖罪ではない。
 自分自身をさえ、守るつもりのなかったグレートが、犯してきた罪の、購いの生け贄では、ない。
 両方の掌を重ね、肩を合わせた。すき間もなく胸を重ね、唇を合わせる。
 押し開く力は必要なく、狭く拒む抗いもない。
 皮膚と皮膚を合わせ、体の輪郭を、重ね合わせる。まるで、ひとつになろうと、するかのように。
 何の隔たりもなく、ふたりは、ふたつの体を近く寄せた。
 互いの傷つきやすさを、無防備に晒して、皮膚の裏側を剥き出しにして、そこにあふれる体液を、粘膜の上に絡め合う。
 皮膚を剥ぎ取り、ひとつに縫い合わせ、その中に、ふたり分の骨と内臓と肉と血を、ただ無造作に投げ込む。
 裸で、生まれたままの姿で、ふたりは交じり合っていた。
 アルベルトは、人として、ようやく生まれ、グレートは、そのアルベルトを通して、生まれ変わろうとしていた。
 背中に回る、アルベルトの機械の腕が、今は、ふたりの体温を移してあたたかい。
 体をずらし、柔らかな腿の内側に、グレートはそっと唇を滑らせた。
 求めて、脚を開くその間に、優しく口づけて、うねる少年の腹に、そっと手を乗せる。
 欲情ではなかった。肉の熱さではなかった。傷つきやすさを触れ合わせて得られる、羊水のような安堵が欲しかった。
 ふたりなのだと、ひとりではないのだと、ひとりで耐える必要はないのだと、守り、守られる存在が、傍らにいるのだと、それを、皮膚で感じるために、ふたりは膚をこすり合わせていた。
 踏みにじられてきたために、擦り切れてしまった心と、踏みにじってきたからこそ、傷ついてきた心と、決して繋ぎ合わせることはできない皮膚の内側の、それぞれの、心が、互いの痛みを慰め合うために、両手を伸ばし合っている。
 躯を重ねて、奥底を絡め合う。痛みを繋ぎ、分かち合う。
 やわらかく、自分に向かって開いてゆく、アルベルトの躯の奥に埋没しながら、グレートは、自分の形に添う、少年の中の熱さに、息を止めた。
 愛しているのだと、思った。
 過去も今も未来も、ひとつに絡まって、繋がってゆく。
 知らずに、泣いていた。
 落ちてくる、グレートの涙に、アルベルトの頬が濡れる。
 機械の指がそれを拭った。
 アルベルトが、体を起こして、グレートを抱き寄せた。舌を伸ばして、流れる涙を舐めた。
 My Dear。
 つぶやいて、ひとのからだを抱きしめる。


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