Baby Pink - 「あらし」番外編

 そこは、グレートの馴染みの店だった。
 一体どんなきっかけでそこへ足を運ぶようになったのか、イギリス人と言われると少し戸惑う店主は、やや浅黒い肌の、道具立ての彫りの深さが明らかにアジアのどこかの血を表して、ユダヤ系も混じってるそうだと、何の感情も混ぜずにグレートが言ったことがある。
 言葉の訛りと外見で、ドイツ人だろうと見分けのつくアルベルトを、店主はどう思ったのか、或いは同国人のお得意さまの連れだからと、思い浮かべたことすべてするりと飲み込んで、ただの店主と客と言う間柄に、歴史のどす黒さは無関係と目を伏せることにしたのか。
 グレートはそこで、目の飛び出るような値段でスーツを仕立て、そして時折、明らかに安物と分かる既製品のスーツを持ち込んで、手直しを頼んだりもしていた。
 「毎度毎度、気にしながら袖を通すわけにも行かないんでね。買った後の洗濯代で破産しちまう。」
 グレートが笑うと、店主もごもっともと笑う。場所と相手が違えば、冗談にならない物言いだ。
 店主との間に、何やら説明らしい会話が以前あったものと見えて、店主は何もかも承知していると言う表情で、その生地の薄い手触りの悪い上着やズボンを受け取って、スーツそのものの値段とさして変わらない手直し代を優雅な手つきで要求し、グレートは微笑みながらそれを支払う。
 店主は、グレートの振る舞いを、自分の腕の確かさと口の固さに対する敬意の表れだと正しく理解していたし、グレートは彼がそれをきちんと理解していることを理解して、互いに軽く世間話はあっても、基本的に口数の少ないふたりだった。
 着ているものによって、対峙している人間が受け取るだろう印象と感情をコントロールする、そのために、この店主の腕と理解、そして何より口の固さが、グレートにはとても重要だったのだ。
 グレートが、アルベルトの服もここで揃えているのを、ジェロニモは知らないでもなかった。この店から連絡を受けたこともあったし、使いに顔を出したこともある。けれどその頃、グレートのために働き始めたばかりで、グレートが経営するストリップ・クラブの用心棒兼雑用係だったジェロニモに、こんな店の品など必要ではなく手も届くはずもなく、店に入ったところで自分に関係あるとも思わないから、最初からキョロキョロと中を見回すこともせずに、ただ店主の顔だけを見ていた。
 店主は、自分がこの店で不審げな視線を浴びることに慣れているせいか、ジェロニモをじろりと見上げることもせず、何の感想も現れない様子で、ジェロニモの用向きを済ませてくれた。
 自分に対してどういう態度に出るか、それを見れば大抵の人間のひととなりはわかる。この店主は良い人間だと、ジェロニモは思った。グレートが信用しているなら悪い人のわけもなかったけれど、それを自分で直に確かめて、ジェロニモは丁寧に礼を言って店を後にした。
 あれはもしかすると、グレートなりのテストだったのかもしれない。自分が信用する人間たちを引き合わせ、互いにどんな態度を見せるか、それを見て、さらに判断の材料を増やす。もっと信用できるか、もう少し信頼しても大丈夫か、もうちょっと親しげにしてみるか、そんな風にだ。
 店主にひとりきりで会って、それから数ヵ月後に、グレートに連れられ、客としてジェロニモはこの店を訪れた。
 値踏みされるのはおれだけじゃないんでな。申し訳ないが、おまえさんも一緒に窮屈な思いをしてくれ。グレート専属の運転手と用心棒を兼ねることになった最初に、グレートがまずそう言った。
 あれは、何とも奇妙な体験だった。今日はおれじゃないんだ、とグレートがおかしそうに後ろにいたジェロニモを指差し、店主はさすがにちょっと驚いた顔を見せて、けれど、それはそれはと少しばかり愉快そうに言って、両手を広げてジェロニモを、試着室のさらに奥の、採寸のための小部屋へ迎え入れてくれた。
 小部屋からは、特に仕切りがないまま、ミシンや糸やボタンや生地や、そんなものが大量に置いてある作業場が続きに見え、若い男がふたりそこにいた。
 「表に出てくれ。」
 店主が声を掛けると、男のひとりが慌てたように店の前へ出て行き、
 「踏み台がいる。手を貸してくれ。」
 もうひとりに言うと、店主とよく似た顔立ちの、もっと背の高いその青年は、言われた通りに踏み台を抱えてやって来て、採寸のためのメジャーテープやらノートやら鉛筆やらも一緒に持って来る。
 ジェロニモは、店主に言われて鏡の前──全身は映り切らない──に立ち、グレートはその隅で、小さな椅子に腰掛けて、そのすべてを微笑ましく眺めていた。
 店主が踏み台に上がり、青年がノートの準備をする。店主の手にぶら下がったメジャーテープが、ジェロニモの首や肩に掛かる。
 胸回りを測る段で、
 「・・・母さんを呼んでおいで。」
 店主が、ノートに目を落していた青年に言った。
 「裏にいる。早く。」
 少し慌しく、客の耳を憚るように低いけれど断固とした声で、彼は、どうやらジェロニモがそう思った通り息子らしい青年に、重ねて言った。
 青年は足早に、足音をあまり立てずにどこか奥へ姿を消し、ジェロニモが採寸のために両腕を左右に上げたまま待っていると、黒髪の、目鼻立ちのきれいな女性を連れて戻って来る。
 ジェロニモを見た瞬間、彼女は一瞬足を止め、小部屋のほとんどを埋めているジェロニモを見上げ、奇妙な髪型と顔の刺青を一瞬のうちに両方の目に映して、けれど驚きはひと息分の間に拭い去り、彼女は店主の傍へ立った。
 店主と青年が、メジャーテープを真っ直ぐジェロニモの背に添わせる。彼女がノートを持ち、数字を書き取る。肩幅に移ると、彼女の手も、ジェロニモの背に触れた。
 「家族総出だな。」
 まぜっかえすようにグレートが部屋の隅から言う。くすくすと、軽い笑い声が全員から上がる。
 彼らは、ためらいのない職人の手つきで、ジェロニモの体の隅々を測った。
 店主は何度も踏み台を上がったり降りたりし、そうすると、彼の身長は、実は妻らしい彼女よりも少し低く、鏡の端に時々並んで映る家族の顔を見て、ジェロニモは、青年がふたりの子どもであるという血の証明を、彼の肌の色合いや眉の形に見て取った。
 店主には強いイギリス訛り──グレートのそれとは、微妙に違う──があり、青年にはない。女性の訛りは、店主のものより強く、ジェロニモにはもっと分かりにくかった。
 この家族の夕食はなかなか見物すると面白そうだと、表情には出さずに考えていると、床近くにほとんど坐り込んでいた店主がやっと立ち上がり、女性はノートをそこに残して奥へ姿を消した。
 「どのように?」
 ジェロニモに向かって訊いているようで、声は明らかにグレートに向けられていた。
 「地味過ぎるくらいでいい。分かる人間にだけ分かるように。ぱっと見は、そうだな、いかにも身に着かない風に。」
 店主はノートに何やら書き込みながら、青年はグレートの方をちらちら見て、少しばかり眉を持ち上げた表情をこっそりのつもりか作っている。すべてを背中で聞きながら、ジェロニモは鏡越しにやり取りの断片を見取っていた。
 ふたりが具体的に何を言っているのか、分からないのはジェロニモだけではなく、青年もまったく合点が行かない様子でメジャーテープと踏み台を片付けて、けれどもちろん黙ったまま作業場へ戻って行った。
 その後、思ったより時間が掛かって、そして予想していたよりも多い回数店へ呼び出されて、その最初の1着は美事に仕上がってジェロニモの許へやって来た。シャツもネクタイも、ベルトや靴下まできちんと一緒に揃えられて。
 うだつの上がらない、いかにもチンピラ上がりが無理をしていると言った風の自分の姿を鏡の中に見て、その後ろでグレートが満足そうにジェロニモの大きな肩を叩き、
 「2着目はおまえさんの思い通りに作ってもらうといい。とりあえず、しばらくはこれでおれの傍にいてくれ。いかにも能なしみたいな振りで。」
 うれしそうに言うグレートの、いちばん大事なのは、最後の部分だった。
 店主が、踏み台に上がってとても丁寧に締めてくれたネクタイは、ふっくらとした生地に触れれば相当な値段と分かる──そもそもこの店には、安物など置いていない──けれど、とにかく地味に揃えたせいで、これも店主が用意してくれた革靴の艶さえ、やや抑え気味に見える。
 何となく影が薄い、それに尽きた。グレートがそうしろと言うなら、ジェロニモは手足を切り落として、体を小さくすることも厭わない。


 グレートに作ってもらったスーツは、全部で何着になったろうか。さすがに自分の立場が落ち着いてからは、自分の金で──懐ろ具合は、素直に言えば店主が相談に乗ってくれた──仕立てるようになったけれど、それでもグレートがどんなものを好むか、考えなかったことはない。
 クローゼットに丁寧に並べたそれが、こんなに早く形見になってしまうと、思ったことなどなかった。
 店主は、今では先に予約を入れなければ店で会うことはない。息子であるあの青年が表に立って店を切り盛りして、彼の妻であるらしい、可愛らしい金髪の女性が、店主がいない時は店で客の相手をしている。
 今日はアルベルトに連れられて、挨拶もそこそこ、例の採寸のための小部屋へすぐ通された。
 グレートがそうしたように、あの椅子に坐り、アルベルトは採寸されるジェロニモを見ている。青年と店主が、馴れた手つきでメジャーテープを扱い、踏み台の位置もそこへ立つタイミングも、今ではもうまったく迷いがない。
 ミッドナイトブルーよりも、もうひと色暗いのをと、アルベルトが言う。光が当たると織りの浮き出る生地にすると最初に決めているから、承知、と店主が短く答えるだけだ。
 アルベルトの使うネクタイは、いくつかはグレートのものだ。無雑作に、何本か、手渡されてジェロニモも持っている。けれどジェロニモは、それをきちんとまとめてしまって、自分では使わない。時折取り出して、手に取って眺める。シャツの襟の下へ巻くことなどとてもできずに、グレートが特別に選んでくれたネクタイも、今では巻けないまま、別にしてしまったままにしてあった。
 新しく仕立てられるこのスーツには、どのネクタイを当てようかと、ジェロニモは胸元に視線を落して考えている。
 「シャツは、ベビーピンクがいい。」
 珍しく茶化すような声で、アルベルトが言った。店主は眉ひとつ動かさないけれど、ジェロニモは思わず肩越しに振り返って、冗談であることを確かめようとする。
 「ネクタイは、後で決めればいい。」
 椅子の肘掛けに肘を置き、指先に軽く頬を乗せて、悪戯っぽく言うのが、やけに少年めいて見えた。そういう今日の彼は全身を黒尽くめにして、しかも濃淡も艶も、きっちり全身揃えている。タートルネックのセーターも、店主が選んだものだ。
 そのアルベルトの口から、ベビーピンクと可愛らしく言われても、冗談にしか聞こえないだろうと思うのに、店主はこれも承知と短く言ってノートにメモを取る。
 「いやか?」
 さらに悪戯っぽく、アルベルトがジェロニモに訊いた。
 落ち着いたサーモンピンクのシャツを何枚か、グレートと店主が、一緒になって選んでくれたことがある。自分では絶対に選ばない色だったけれど、ジェロニモの膚の色に、それは確かに良く映えた。それよりさらに淡い、しかも可愛らしい色──ほとんど白だと、言い張れる可能性はある──を自分に着せたがるアルベルトの気持ちは、あまり理解できなかった。それでも、いやだと逆らう気はない。似合わない色を無理に着せる趣味はないと知っているから、似合うと、冗談交じりにせよ確信があるのだろう。
 本意ではないがいやではないと、肩をすくめて首を振って見せて、別に、妙な仮装をさせられるわけではなし、とジェロニモはとりあえず自分を納得させた。
 連れが、グレートからアルベルトに代わり、グレートからジェロニモに代わり、店主は、このふた組のふたり連れを、一体どういう関係だと見ているのだろうか。グレートが逝った後で、ごく当然のように、アルベルトとジェロニモがこの店へ、服を仕立てにやって来る。少しばかり好みが変わり、口の出し方が違い、グレートの選んだものを着ていたアルベルトが、今ではジェロニモの着るものをここで選ぶ。ジェロニモは、グレートとの時以上に無口に、アルベルトが選んだ生地と色を身に着けて、そうして、アルベルトがそう望む時に剥ぎ取られる。店主は、そんなふたりを想像したことがあるだろうか。
 あってもなくても、彼がそれを表情に出すことは一瞬もないだろう。グレートが選んだ人物だからだと、ジェロニモは思う。
 アルベルトが、立ち上がって店主の傍へ来て、注文についてあれこれ言っている。店主が、それとひとつびとつ丁寧にノートに書き取る。青年が、ジェロニモに上着を着せ掛けてくれた。
 店主にまだ声を掛けながら、アルベルトが、自分の方を向けと言う風にジェロニモへ軽く手を振る。素直にジェロニモが鏡から肩を回すと、アルベルトは店主に話し掛けるのを止めずに、ごく当然だと言う動きで、まだ置いたままの踏み台へ上がった。1段上がると、ジェロニモのあごを少し越えて、アルベルトの視線が届く。
 ジェロニモの上着の襟を整える途中で、先にネクタイを真っ直ぐにする。シャツの襟もきちんと折り目を正して、仕上げに肩の埃──そんなものがあったなら──を払い、そのすべてが、ジェロニモとの関りをつぶさに表しているのを知っていて、アルベルトは店主の目の前で、わざわざそんなことをして見せる。
 この男は、今は俺のだ。だから、着るものは俺が選ぶし、脱がせるのも俺の自由だ。
 主張する必要もないそんなことを、けれどアルベルトはそうせずにはいられない。グレートの形見のひとつのように、自分に残されたものだったから、誰にも奪われないように、誰かが手を伸ばしたりしないように、常に所有権を主張していなければ気の済まない彼の、それは心の弱さの現われだけれど、そうと本人は気づいてもいないようだった。
 人形のようにただ突っ立って、腕を上げたり体を回したり、ジェロニモが採寸されるところを眺めるのが好きなくせに、ジェロニモが、自分以外の人間の言いなりになっているのは我慢がならない。だからこうやって、ジェロニモが誰のものか、見せつけずにはいられない。
 店主と青年が、とても上手くそんなアルベルトから視線を外しているのに気づいていて、ジェロニモは無表情のままでいた。アルベルトに対してと、店主たちに対して、様々な感想はあるけれど、そのどれも顔には出さず、自分はただ常に空気のように在ればいいのだという分だけ弁えて、踏み台を降りたアルベルトが店主に別れの挨拶をするのを聞いてから、半歩先へ爪先を出す。
 アルベルトより先に店のドアへ着き、まず自分が先に出てからドアを押さえ、外へ出て来るアルベルトの周囲へ、隠した仕草で視線を流す。いつでも懐ろへ手を差し入れられるようにしてから、今日は銃を置いて出て来たことを思い出した。
 ドアを閉めようとして、店の中から微笑んでくれた店主と目が合い、ジェロニモは小さく会釈を返してからドアを静かに閉める。
 車へ向かうために顔を上げると、アルベルトがこちらを見ていた。淋しそうとも哀しそうとも、どちらともつかない色が、目元をかすめた。
 自分が手足を切って不具にでもなれば、もうどこにも行かないと、この男は安心するのだろうかと、その瞳の色を見てジェロニモは思う。けれどそうしたらきっと、服の仕立て甲斐がないと、文句を言うのだろう。
 仕立て上がったスーツと一緒にやって来るのだろう、ベビーピンクのシャツを着て、どの程度喜んだ振りをすればいいかと思ってから、自分が身にまとうその色が、血の色の上がったアルベルトの肌の色と同じだとふと思い当たって、ジェロニモは知らずに目を細めていた。
 なるほど、と思って、あの色の可愛らしさは、つまりアルベルトが時折見せる──ジェロニモにだけわかる──可愛らしさと同じだと気づく。
 行くぞ、と言う声の冷たさには、可愛らしさのかけらなどあるわけもなくて、ジェロニモは我に返ったように背を伸ばすと、車のドアを開けるために、こちらに向いたアルベルトの背へ向かって、足を前に出した。

* スーツ採寸萌えで暴走、shさまにこっそり捧ぐ。失礼しました。
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