「あらし」 - 番外編

Blue Dress #3




 子どもがよく、着せ替えごっこで、服を取り替えるように、ふたりで始めた、無邪気な冗談だった。
 床に坐って、酔ったようにくすくす笑いながら、ふたりは、この冗談を、一緒に気に入っていた。
 アルベルトは、グレートのシャツを羽織り、ネクタイを襟に通す。肩は狭く、袖は短く、裾も足らない、ボタンをとめる努力は、最初からしなかった。
 ネクタイは、締められていた跡を残して、ねじれて、よれて、胸の前に垂れている。
 グレートはアルベルトの、あの、安っぽい青いドレスを着ていた。
 アルベルトとは違って、お世辞にも似合っているとは言い難く、ただの布切れを体に巻きつけただけの方が、まだしもましな眺めに思える。
 胸元の、丸く開いた襟ぐりは、グレートの薄い胸に余り、女の肩の厚みは、あれはそれなりで、きちんと肩の線には合った。
 ほとんどくびれのない腰は、平たい胸から、何の潤いもなく下へ落ち、厚みのない腰を覆って、かろうじて、床から数センチ、スカートの裾がふわりと浮いている。
 そこからのぞく爪先は、生まれてからずっと、常にきちんと靴を履いていたことを示す、革靴そっくりの形になっていて、押しつぶされたような小指から、親指に向かって、自然にはあり得ない三角形を形作っていた。
 その爪先に、アルベルトが、右手を伸ばした。
 足指の間に、その、鉛色の指を差し入れ、骨の浮いた甲に、掌を重ねる。
 すぐ傍に並んだ、アルベルトの爪先は、滅多と、足を締めつける靴を履いたことがないせいか、爪先からかかとの形が、ほぼ四角に見える。
 そこだけは、信じられないほど伸びやかに、自由に動く、足の小指が、爪先から離れてしまいそうなほど遠くに、大きく開く。
 足の形に、互いの境遇の違いを見て取って、グレートは、少しだけ胸を痛めた。
 爪先に触れていたアルベルトの手が、足指の間から離れ、甲を滑り、ふくらはぎを撫で上げる。
 膝を立て、持ち上がったスカートの裾の下には、何も着けていない。
 アルベルトも、素肌に、グレートのシャツを着ているだけだった。
 ふたりで一緒に、酔っ払ったように、頬と目元を赤く染めて、滑稽な姿に、互いにくすくすと笑いながら、かすかな、きぬずれの音を聞く。
 女の格好をしたこともなければ、したいと思ったこともないし、今だって、アルベルトの頼みでなければ、こんなドレスを身に着けることなど、考えもしなかった。
 ドレスの青は、グレートの、輝きのない、くすんだ膚には、少し地味すぎて、似合う色を選ぶなら、上品な、赤みの入った紫はどうだろうかと、そんなことを考える。
 服を取り替えるという遊びに、ふたりで没頭しているふりをして、アルベルトが欲しいのは、何か別のものだと、グレートは知っている。
 それが何なのか、アルベルト自身も知らないまま、ただ、何かが告げるままに、グレートに青いドレスを着せたに過ぎない。
 互いの身分を取り替えて、アルベルトの手が、グレートの足を撫でる。
 仕立てのいい、高価なスーツは、貧相な体を覆って守る、鎧だ。それは同時に、グレートの立場も守る。こけおどしと知りながら、そんなはったりの必要な世界に身を置いているのだと、ちゃんと自覚している。
 それを剥ぎ取り、薄い、頼りない裸を、今はよりによって、青いドレスで包んでいる。
 アルベルトの手が、胸元に伸びて来て、襟からゆっくりと、ドレスのボタンを外し始めた。
 自分のシャツが、いつの間にか小さくなってしまうほど、成長したアルベルトの、厚くなったあごや喉や肩の線を下目に観察しながら、グレートは、今は小さなボタンを外すことに不自由のない、鉛色の指先の、なめらかに動く様を、じっと見つめる。
 薄い、ぺらぺらとした、濃い青の生地の下から現れる、確実に老いを刻みつつある、自分の膚を眺める。
 流れ去った時間の長さを思って、開いたドレスの胸元から、グレートを見上げながら、両手を差し込むアルベルトの仕草に、薄い肩を震わせた。
 あらわになった胸元に、アルベルトが、グレートがいつもそうするように、一刷け、水色を刷いたような、色の薄い唇を当てる。ひんやりと柔らかな唇が、ゆるりと滑って、胸の輪郭をなぞる。
 床の上に、ドレスの生地と一緒に、ふわりと体を伸ばす。
 体の重みをかけないように、きちんと気を使いながら、上にのしかかってくるアルベルトの肩に、グレートは、まだ少し戸惑いながら、掌を乗せた。
 自分が、こんな風に、誰かを抱いているのかと思いながら、誰かの下に組み敷かれるのは、まるで、冗談のような光景だった。
 それでも、これが何か、アルベルトに必要なことなのだとわかるから、ひどく切羽詰まった表情で、自分の体を撫でるアルベルトの手を、止めることはしない。
 自分が、同じ年頃の頃には、こんなふうに、先を急がずに、相手を思いやれはしなかったことを思えば、アルベルトの、つたなくても優しげな動きに、こんなことも、長い人生---少なくとも、グレートが予想していたよりは---には起こり得ると、あっさりと納得もしている。
 普通とは言い難い人生なら、自分が抱いてきた、年若い男に、気まぐれのように抱かれることも、すんなり受け入れられそうな気がしていた。
 スカートの裾が、一気に腰の辺りまで持ち上がり、空気の冷たさに、グレートは思わず目を閉じた。
 アルベルトの、手つきはつたなくても、きちんとやり方を飲み込んでいる、その手際の良さが、つまりは、そうしつけられた結果なのだと思って、心のどこかが痛む。
 他人の欲情と欲望を、読み取って、素早く、求められる反応を返す。生き延びて、生き残るために。
 今も、その白い生身の手と、鉛色の機械の手は、グレートの欲望の先を読み取りながら、一体、誰のためになのか、グレートの躯を、開きにかかる。
 そこに、入り込みたいという、アルベルト自身の欲望のためなのか、こんなやり方も、悪くはないだろうと思っている、グレートのためなのか。
 思うより先に、手と指と、唇と躯が、相手の意向に添うように、反応する。そうするためだけに、生かされた体だったから。
 アルベルトの、今も肩にのしかかる、過去の重さと傷の深さを思い知りながら、グレートは、アルベルトのために、足を開いて、その、厚みを増した体を、自分の上に引き寄せた。
 誰でも---男でも女でも、子どもでも大人でも---、湿りを帯びた、まるで切り裂いた、自分の皮膚の内側のような、血のぬくもりに満ちたところへ、包み込まれたいと思うに違いない。そこはまるで、生まれ落ちる前にいた、手足を丸めて眠る、母親の腹の中のようだったから。
 自分だけが、たとえにせものではあっても、そのぬくもりの中へ浸るのは、たしかにずるいことだと、グレートは思った。
 自分の内側も、アルベルトの中に入るたびに、そう感じるように、暖かく、濡れたように、包み込むのだろうか。
 女の格好を、アルベルトがさせた理由はよくはわからなかったけれど、安っぽいドレス---アルベルトのものだ---を身にまとうことで、鎧を脱ぎ、剥き出しになった自分のまま、アルベルトに抱かれているのだと思った。
 そんなグレートを、抱きしめることが、アルベルトには必要で、そんな無防備さを、アルベルトの前に晒すことが、グレートには必要だった。
 歯を食い縛って、痛みに声を殺しながら、グレートは、心の底から、自分を抱くアルベルトを、いとしいと思った。
 重なった胸の間で、アルベルトが着ているグレートのシャツと、グレートの着ている青いドレスが、こすれて、ボタンが音を立てる。
 重なり合っているのは、ふたりの躯だけではなかった。
 グレートの頬に、右手を添えて、アルベルトの動きが、ゆっくりと止まる。
 ひどく切なげに、上から見下ろされて、グレートはふと、恥ずかしくなって、顔を背けた。
 グレートの傍に、体を横たえて、まだ、はだけだドレスの下に、手を差し入れたまま、アルベルトが、赤く上気した頬で、じっとグレートを見つめている。
 乱れたドレスの裾を、膝下まできちんと下ろして、それきりグレートも動かなかった。
 触れるのが目的ではなく、そこにグレートがいるのを、確かめたいだけのように、アルベルトは、グレートの胸の上に置いた手を、じっと動かさずにいた。
 その手の上に、ドレスの上から、自分の掌を重ね、その手には恐らく、一生消えることのない硝煙の匂いが染みついているだろうことを、グレートは、ほんの少し、残念に思う。
 顔を横に向け、床の上で、シャツとドレスのままの、滑稽な姿で、ふたりは静かに見つめ合っている。
 グレートの手と、ドレスの下から、ゆっくりと、アルベルトの手が、滑り去った。
 抜き取った手を、グレートの手に重ね、ほんの少し肩を浮かせて、アルベルトが、つぶやくように、言った。
 「・・・あんただけで、いい。ほかは、何も、いらない。」
 数瞬、痛いほどの沈黙が降りてきて、ふたりは、無言の視線を重ね合わせた。
 それから、おずおずと互いに腕を伸ばし、抱き合って、足を絡み合わせ、さっき、戯れのように、恐ろしいほどの真剣さで繋げ合った躯を、床の上で、いとおしんだ。
 ドレスの裾を、そっと握って、このドレスを、アルベルトが着ることはもうないだろうと、グレートは思った。


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