Brand-New Day - 「あらし」番外編
珍しくギルモアと向かい合って、良く陽の当たるテーブルに坐り、その日淹れてもらったコーヒーの香りが、いつもよりもっと良かったせいかもしれない。ギルモアは窓を背に、逆光に白い髪を縁取られていて、その向こうで庭に繁る草木の緑が、まぶしさよりも深みを増した色で、他の色と一緒にグレートの脳の中になだれ込んで来る。そんな午後だった。
「あの子の誕生日はいつだっけな。」
知っているものと決め込んで、突然閃いた質問を口にしたのに、ギルモアはちょっと驚いた表情であごを引き、軽く唇をとがらせてあごひげを撫でた。
「・・・知らんそうだが、おまえさん聞いてなかったのか。」
「知らない?」
思わず訝しい色に口調が少しとがる。
「珍しいことじゃない。子どもを、学校へ入れるよりも他所へやらなきゃならない親たちだ。カレンダーなんぞ家にあったかどうかも怪しいもんじゃ。」
グレートよりもひと回りは年かさのギルモアは、ひたすら貧しい家族の姿が目の前にあるように、両手の中にコーヒーのカップを包み込み、そこに視線を落とす。
誕生日を祝えないのに、その日を覚えている理由はない。手の届かないところへ送り出すなら余計にだ。アルベルトが戻って来ないことを、家族は承知の上だったのだろうか。
今日は不思議と、憤りながらも彼らに対して怒りは湧かず、グレートはただやるせない思いをした。やりきれない、と胸の中でひとりごちて、まるでギルモアを見習ったように皿に戻したカップに目を凝らし、ああ、今日のコーヒーはいつもよりずっと美味いと、脈絡なくまた思う。
つやつやと写真の美しい大判のカレンダーが、今は皮肉のようにキッチンの壁に掛けられているのを、グレートは視界の隅に引っ掛けた。印刷された黒の字が、くっきりと鮮やかに美しい。
「自分でもうすぐ16と言っておったが、今ではそれも怪しいもんじゃ。」
「なんでだ。」
自分で言ったくせに、グレートの問いには口をつぐんで、ギルモアはカップから視線を上げない。それでも、思うことを誰かに話さずにはいられない──恐ろしいことを胸の中に秘めておくのが、とても苦痛だから──と、もう一度あごひげを撫でてから唇を開いた。
「家族は恐らく、売られる先は工場や農場や、そんなところと聞かされておるよ。じゃから多分必死で、きちんと仕事ができる大きい子だと言い張ったろう。買う連中の目的はともかく、親の方は12の子より15や16の子の方が高く引き取ってもらえると思い込んどったに違いない。ワシの勝手な想像じゃがな。」
自分の正確な生まれ年も年齢も知らない子ども。突然自分を15と言い張る親たちと、13くらいか、いっそもっと子どもっぽく振る舞え──必要はなかったかもしれない──と言う大人たち。それ以上あまり体が大きくならないように、日にも当てず食事も少なくして、適当に弱れば扱いやすくなるし、空腹は子どもたちをより従順にする。
生き延びるために、自分を売った家族のところへ戻るために、足を開いて躯の内側をさらすことなど、呼吸をするよりも意味のなくなる日常。想像するだけで悲惨過ぎて、文字通り現実感がない。人殺しを生業(なりわい)にしてはいても、苦痛を与えるという役にはあまり縁がないからだ。
どんな目に遭っても、自ら死ぬことは何よりも罪深いことなのだと、どの子も信じ続けていたのだろうか。どれだけ踏みにじられようと引き裂かれようと、誰かが殺してくれるまで、あるいは天使──心の中だけで嗤う──がやって来てくれるまで、慈悲深い死を待つ以外ないのだと、どの子も信じ続けていたのだろうか。それもまた、負けず劣らず酷(むご)い話だとグレートは思った。
「おまえさんたちがその気になれば、あの子の身元を突き止めることもできるじゃろうが──。」
ギルモアの語尾が、不自然に消える。
突き止めても、恐らく親は白を切るだろう。そんな子は知らない。受け取った金がもうどこにもないからだ。生活のためかあるいは他の理由か、アルベルトを売った金は、恐らく一銭たりとも残っていない。今さら売った子どものことを訊いても、親たちは恐怖に陥るだけだ。返す金はとっくにない。そんな子は知らない。彼らが生きるために切り捨てなければならなかったもの。あるいは、彼らこそ愛ゆえに、もっとましな暮らしができるはずと信じて、アルベルトを手放したのか。
あるいは。あるいは。彼らは泣きながらアルベルトをまた受け入れるだろうか。変わり果ててしまった自分たちの息子を、後悔と憐憫と深い慈悲を込めて、また愛するようになるのだろうか。
ましな生活か。考えながらグレートは、冗談めかして言った。
「あの子の身元が判るのと、おれがドイツ語を使えるようになるのと、どっちが早いだろうな。」
コーヒーのカップをやっとまた持ち上げて、グレートは口元に微笑みを浮かべる。それは苦笑であり自嘲であり冷笑だったけれど、ギルモアにどんな風に見えたか、グレートにはわからなかった。
「じゃあ、今年で15ってことにしときゃいいさ。ころころ変わって戸惑うだろうが、この国じゃあ、あの子は今年15なんだって言い聞かせりゃいい。あの子は今年15になって来年16になって再来年には17になる、それでいいだろうギルモア博士。」
言うなりコーヒーに口をつけて、上目にすら視線を動かさない。自分がそう決めたから、これからはそういうことだと、一方的に伝えて、これもまた養い親の役目だと、グレートは自分に言い聞かせている。自分の歳が決まったのだと、これから言い聞かされるアルベルトと同じに。
ギルモアは反論せず、カップの取っ手に指を掛けたまま、まだじっとコーヒーに視線を落としている。
キッチンの中は、相変わらず明るいままだ。
頼めば、きっと小さなケーキも作ってくれるのだろう。色ももう少し健康的な、ふたりか3人で食べる分だけの小さな誕生日用のケーキを、作ってもらえるのだろうと思ったけれど、なぜかグレートは、ある日久しぶりにコーヒーショップに立ち寄り、ドーナッツをひとつ買った。
黄金色の、穴の開いていないドーナッツだ。上にチョコレートが掛かり、中にはカスタードクリームが詰まっている。店では、他にパイもケーキも売っていたのだけれど、グレートはそのドーナッツを選んで店を出た。
それから、見かけた雑貨屋でいちばん小さな包みのロウソクを買い、ちょっとしわの寄ったままのコートのポケットにそれを突っ込んで、それからようやくギルモアのところへ向かう。
虫歯は困るから甘いものは与えるなと、ギルモアに重々言われているのだけれど、今日はひとまず特別だ。
グレートは自分のコートの襟をちょっと持ち上げて鼻を近づけ、煙草と酒の匂いがそれほどしないことを確かめた。
今日と言う日に意味はない。午後一番で会いたいと言って連絡を取って来た酒の関係の公務員が、約束の場に現れなかったと言うだけの話だ。気まぐれで1時間近く待ったけれど、行けなくなったとも別の日にともなかったことにしてくれとも、まったく連絡がなかった。店はマネージャーがうまくやっているし、今日はそもそも暇なはずの日だから、ぽっかりと空いてしまった午後、グレートが真っ先に考えついたのは、アルベルトに会うことだった。
会えなかった公務員のことは、もうきれいさっぱり頭から消えて、今はドーナッツとアルベルトのことだけを考えている。
来年、もっと落ち着いていれば、どこかのレストランできちんと祝おう。それまでに、そんな店で食事をするマナーをきちんと勉強させて、人前に出れるようにして、その頃にはきっと、普通に話せる程度には言葉も何とかなっているに違いない。
すでに1年先のことを考えながら、けれど実際のアルベルトの姿を見た時、グレートは自分の考えがちょっと先走りし過ぎていたかもしれないと反省した。
相変わらず手術着を着て、その下は最低限の下着を着けただけの裸だし、足も素足のままだ。ここから出ない──裏庭に出るだけだ──のだから、服や靴はまだ必要がない。生まれ立ての赤ん坊ですら山ほど着替えを持っていると言うのに、右腕を失ったこの少年は、自分のものと言えば今のところ、失くした代わりに着けられた、鉛色の義手だけだ。その腕もまだ、自由に使えるわけではなく、直に見れば、それが彼の体の一部だとは到底信じられない見かけだ。
かわいそうに。もう何千回と思った同じことを、グレートはまた思う。
キッチンで、もうドーナッツは皿に載せられ、真ん中に小さなロウソクが立っている。青い縞が斜めに入ったそれは、安っぽさのせいでそれ自体がキャンディーのように見え、それを差し出した時、アルベルトはドーナッツには素直に目を輝かせて、けれどロウソクが何か分からないと、グレートを見上げた。
ひとり用のベッドの端に一緒に並んで腰掛けると、グレートはコートの胸ポケットからライターを取り出した。
アルベルトはドーナッツの皿を両手に捧げ持ち、何か特別なのだと理解はしているようだけれど、これから何が起こるのか、予想もできないようだった。
ライターの火をロウソクの先端に近づけ、アルベルトがうっかり触れたりしないように、炎は掌で覆って、グレートは小さな火をそこに点した。照明もなしに充分明るい部屋で、けれどそこだけオレンジ色の小さな輪が広がり、アルベルトの色の薄い眉が、驚きに持ち上がる。それから、どうするのかとグレートを斜めに見上げて来る。
ライターをしまいながら、グレートは精一杯優しく微笑んだ。
「今日が、おまえさんの誕生日だよ。ほんとうの歳もほんとうの誕生日も知らないが、これからは、今日がおまえさんの誕生日だ。」
自分に話し掛けられているのだとわかっても、アルベルトには、グレートの話している意味はよくわからない。構わないとグレートは思う。
そのうち、わかるようになるさ。
グレートはアルベルトの頭を撫でた。撫でながら、小さな小さな声で、ハッピーバースデーを歌った。最後にこの歌を歌ったのは一体いつだったろう。姉の、いちばん下の子どものパーティーでだったろうか。あそこには誰がいただろう。自分はあの時、確かに幸せだと思っていたのだろうか。
アルバートと、つい言いそうになるのをきちんとアルベルトと発音して、短い歌が終わる。さすがにメロディを聞いたことはあるのか、グレートの歌を聞きながら、アルベルトがずっと戸惑った表情を浮かべていた。
歌が終わると、グレートの方へ皿を差し出して、首を振り始める。違う、と言う意味らしいけれど、それは自分の誕生日ではないと、そう言っているつもりなのだろうか。
「いいんだ、今日がおまえさんの誕生日だ。おれがそう決めたんだ。これからは毎年おまえさんの誕生日を祝おう。来年はちゃんとケーキに16本ロウソクを立ててきちんと祝うんだ。」
また頭を撫でて、そうしながら、グレートはアルベルトをそっと自分の方へ引き寄せる。皿を落とさないように空いた手を添えてやって、
「次の時は、おまえさんが自分で吹き消すんだ。」
アルベルトにそうさせる代わりに、ふっと強く息を吹いて、グレートはロウソクの火を消した。息を吐く間際に、この子がどうか無事に回復しますようにと、きちんと願い事も胸の中で唱えた。
細く立つ煙と、焦げ臭さにアルベルトが顔をしかめる。
「後は全部おまえさんのだ。」
ドーナッツから半分溶けかけたロウソクを引き抜いてやり、食べるように促した。
ロウソクの足の部分には、かすかにカスタードクリームがついている。グレートは行儀悪くそれをちょっと唇でしごくように舐め、甘いなとつぶやく。
いいのかと、確かめるようにこちらを見るアルベルトに、大きくうなずいて見せて、グレートはまだアルベルトの右肩に乗せたままの右手を、どうしようかと一瞬迷ってから、ドーナッツにそっとかぶりつくアルベルトを眺めて、結局そのままにしておいた。
触れても触れても、硬いままの体温のない義手。今にも落としそうにドーナッツを持って、それでも見た目だけは、両腕が揃っている。ドーナッツに夢中になり過ぎて、今は膝に置いてある皿が落ちたりしないように、さり気なく気にして、グレートはうれしそうにドーナッツを食べるアルベルトを眺めている。
唇の端にクリームとチョコレートをつけて、こうして見れば15と決めた歳もどうかと思うほど幼いけれど、それでも手足の長さや、近頃しっかりと肉のついて来た胸の辺りの厚さは、確実に思春期を終えつつある少年のそれだ。
たとえアルベルトがほんとうは17で、それをグレートが15と言い張る羽目になるのだとしても、人生の大半をすでに他人の思惑のせいですり切れさせてしまったアルベルトが、そのうちのたかが数年を取り戻したところで、誰が傷つくでも迷惑するでもない。普通の世界に戻るために、余計な時間が掛かるのだとすれば、むしろそれは正しいやり方だと思えた。
残りが半分を過ぎたところで、突然アルベルトが食べるのをやめ、まだ自分が噛みついていない方の端を、グレートに差し出して来た。食べろと言われているのだとわかって、グレートは思わず体を引く。
「それはおまえさんのだ。おまえさんの誕生日用だ。」
断る言葉を並べて手を振っても、アルベルトは諦めない。グレートがもう一度同じことを繰り返した後で、ひどく子どもっぽい発音で、
「Please。」
と言う。魔法の言葉を言われたら、もう断れなくなる。
アルベルトの義手の右手に乗せられ、左の指先につままれているそれに、グレートは観念して苦笑いの口元を近づけた。砂糖の匂いに目を細めて、それから、そっとアルベルトの両方の指先の形を間近に窺って、そっとひと口噛みちぎる。こちらへ寄っていたらしいクリームが、生地と一緒に舌の上にひやりと乗った。
「ありがとう。」
言ってから、ゆっくりとゆっくりと咀嚼する。脳までしびれそうな甘味に襲われて、ああ確かにギルモアの言う通り、これはとても歯と体に悪いと、内心でもう一度苦笑いした。
空になっている皿を膝から取り上げ、そこに使いかけのロウソクを載せ、床に落ちないようにベッドの真ん中辺りへ置く。アルベルトはその間にドーナッツを食べ終わり、今はチョコレートに汚れた指先を舐めている。右の指も左の指も、どちらも構わずに口の中へ入れているのを見て、グレートはなぜだかひどく安堵した。
皿をキッチンへ戻すついでに、壁にあるあのカレンダーの今日の日付に、しるしをつけておこうと思う。アルベルトの名前を書いて、それが誕生日だと誰にでもわかるようにしておけばいい。来年のカレンダーに替わったら、忘れずにこの日にまたしるしをつけるのだ。
「アルベルト。」
呼ぶと、指から唇を外して、グレートを見上げる。にっこりと無邪気に微笑んで、唇の端にはまだチョコレートが少しだけ残っている。
「誕生日おめでとう。」
生き延びてくれてありがとうと、心の中で続けて言った。言いながら、そっと頭を右手で引き寄せて、銀色の髪に口づけた。
くすぐったそうに笑うアルベルトの右肩が、まるでほんもののように揺れていた。