「あらし」 -
番外編
Break Down
体の右側が寒くて眠れないと、裸の体をすり寄せてくる。肩を縮めてこちらの胸に入り込んでくるのに、ぴったりと両腕を沿わせて、寒いという右側を、掌で撫でてやる。
生身の肌の感触と、暗い灰色をした金属の感触。その境い目辺りの体温の違いが、寒いと震える原因なのだろうかと思いながら、ジェロニモは、その奇妙な体の主を、黙って撫で続ける。
逆らわない。逆らえない。どれほど親(ちか)しくなろうと、越えてはいけない一線を、律儀に守り通しているジェロニモだった。
その一線を越えさせようと、どれほどアルベルトが必死になろうと、そこに踏み込んではいけないのだと、ジェロニモは自分に言い聞かせ続けている。
最初は、生身ではない腕が痛くて眠れないと、それが酒量の増えた言い訳だった。それが、今度は、体の右側ばかりが凍えるように寒いと言い始め、酒の酔いが醒めたせいの寒気ではないのかと、思いながらも、求められるままに胸を開いた。
昼間は、どこか正気さの欠けた、あやうい冷静さで、能面のような無表情を保っているけれど、夜になってふたりきりになれば、毎晩のように、酒を飲んで暴れる。
飲みすぎて暴れ、飲み足りないと暴れ、酒を取り上げようとすると、銃を持ち出しさえする。早晩、体を壊して倒れる羽目になると、こけて鋭くなった頬の線が、痛々しさを通り越して、今では奇妙な凄みを帯びていた。
床にうずくまったジェロニモの背中を、右手を振り上げて叩き続ける。生身の拳ならともかく、義肢の硬さと重さは、さすがのジェロニモにもひどくこたえる。それでも、うめく声ももらさずに、黙ってアルベルトの鉛色の拳に耐え続ける。
振り上げられる拳を振り払って、押さえ込んでしまうこともできた。力でかなわないはずもなく、軽い平手のひとつかふたつで、呆けたようになってしまうだろうと、予想もできた。けれどどうしても、アルベルトに手を上げる気にはならず---他の、誰にも---、自分がアルベルトのために働いている立場だからとか、アルベルトがグレートの情人だったからとか、今ではそんな理由ですらなく、アルベルトの暴力に、暴力で応えることだけはすまいと、固く心に誓っていた。
喧嘩慣れなど、しているはずもないアルベルトを、押さえつけて下手に抵抗されれば、ジェロニモ相手ではよけいに傷つけることになるかもしれないという、至極現実的な懸念も、もちろんあった。
ジェロニモを殴りながら、アルベルトはいつもグレートの名前を呼んでいた。戻って来いと、なぜ自分だけを置き去りにしたのかと、どうして連れて行ってくれなかったのかと、そして、どうしてもっと早く、自分を殺しておいてくれなかったのかと、繰り言のように、嗚咽交じりに叫び続ける。
あんたはずるい、あんたはいつも、俺をひとりぼっちにする、あんたなしでは、俺はただの空っぽだ、早く戻って来てくれ、俺を連れに来てくれ、頼むから。
いつも最後は、哀願の口調になって、ジェロニモにすがりつく。まるで、ジェロニモが、グレートだとでも言うように。
その腕に抱きしめているのは、間違いなく大人のアルベルトなのに、グレートの名を呼んで泣くアルベルトは、まるで少年のように、細く薄く、頼りなく感じられた。
ジェロニモは、そんなアルベルトを、子どものようにあやして、なだめて、酒のことを思い出させないために、抱いてやる。アルベルトの心が、そんなことを求めているのだとはとても思えなかったけれど、素直に添ってくる躯は、酒では満たしきれない---だから、浴びるように飲み続ける---アルベルトの内側の空虚の深さを示していて、憐れさに、目の奥に痛みさえ感じることがある。
ジェロニモのぶ厚い胸と、薄いシーツの間で、銀色の髪を散らしながら、アルベルトは、いつもはグレートの名を、合間にジェットの名を、そして、まれに、まっすぐにジェロニモを見返して、彼の名を呼んだ。
アルベルトのすべての振る舞いを、侮辱と感じることはなく、それはただ、そうだというだけのことだと、諦めではなく受け入れて、ジェロニモは、アルベルトを抱き続けている。
躯を繋げて、揺すり上げながら、アルベルトと名前を呼ぶと、まるで正気に返ったように、水色の瞳に光が宿る。
誰にも容赦のない昼間の貌のせいで、今では死神と呼ばれるアルベルトは、彼自身が死そのものであるかのようなその空気を、けれどその一瞬だけは、綻ばせて、剥き出しのアルベルトを覗かせる。
それは、グレートの情人でもなく、ジェットの想い人でもなく、ジェロニモのボスでもない、ただのアルベルトだった。
剥き出しのアルベルトは、ひどく頼りない表情をしていて、必死に無邪気に笑おうとして、唇だけを歪めているように見える。鈍磨した感情の浮かぶ目元には、怯えの色がわずかに浮かんで、そこから見える内側は、深く昏く、入り込めば永遠に逃れられない、底なし沼の底の闇のようだった。
その瞳の闇に、見覚えがあって、ジェロニモは虚を突かれた。
水色の瞳に、自分の顔が映る。自分の、茶色の瞳には、アルベルトの皓い姿が映っているのだろう。互いを映す瞳に宿るのは、同じ色の深い闇だ。踏みつけにされて、痛めつけられ続けた、その苦しみの闇だ。
人としての尊厳を剥ぎ取られ、それ以下の存在でしかないのだと、体に叩き込まれた、記憶。
ジェロニモは、その膚の色ゆえに。
アルベルトは、貧しさと幼さのゆえに。
侵されたからこそ、侵すことに怯え、人殺しさえ日常に含まれる世界に身を置きながら、ジェロニモは実のところ、虫さえ踏み潰すことができずにいる。
アルベルトは、自分が受けた暴力を通してしか、世界と関われないでいる。そして、グレートのいない今、アルベルトは、侵す側の人間に成り果てていた。
ジェロニモを踏みつけにすることで、自分自身を癒そうとしているのだと、アルベルトに自覚があるのかどうか、ジェロニモにはわからない。表情も変えずに人を殺す、あるいは、そうしろと命令を下すアルベルトを、けれどジェロニモは軽蔑することはしない。自分を、確との理由もなく殴り続けるアルベルトを、力で止めることだけはすまいと、そう決めたと同じ理由で、ジェロニモはただ、アルベルトを憐れと思うだけだった。
違う形で、けれど同じように踏みにじられ、人ではないものと扱われて、そしてグレートに、同じように拾われて救われながら、こうまで違ってしまった自分たちふたりのことを、それでも、まだどこか似ているのだと、ジェロニモは思う。
同じ闇を抱えて、闇からは逃れられずに、けれど飲み込まれまいと必死に足を踏みしめるジェロニモと、飲み込まれてしまった闇を、いつの間にか逆に飲み込んで、闇そのものとなってしまったアルベルトと。
そしてその闇は、今確実に、アルベルトの外側にさえ、あふれ出そうとしている。
アルベルトは、壊れかけていた。
グレートの元へゆくために、壊してくれと、ジェロニモに、言葉にならない叫びを浴びせ続けている。
アルベルトを壊さなかったグレートは、だからこそ、アルベルトを壊すことを許された、ただひとりの人間だったのだと、グレートのいない今、壊れることのできないアルベルトの苦しみは、増すばかりだった。
そして、グレートが壊さなかったアルベルトだからこそ、すべてのことに耐えて、護ることだけを貫こうとするジェロニモだった。
グレートは逝ってしまった。ここに、アルベルトをひとり残して。そして、ジェロニモも置き去りにして。
それはまるで、グレートなしでは、壊れたがりながら壊れきれないアルベルトを、壊さずに護ることをできるのはジェロニモだけだと、グレートが最初からそう知っていたかのように。
闇を垂れ流して、憎しみを買いながら、そうして、アルベルトは、自分を壊せと、全身で叫んでいる。ジェロニモはその傍らで、その壊れもののようなアルベルトの全身を、自分の体で包み込んでいる。アルベルトが、決して壊れてしまわないように。
世界が、アルベルトを壊そうとしても、アルベルトが、どれほど必死に壊れようとしても、グレートがそれを許さなかった---理由は、どうあれ---と同じように、それだけは起きてはならないと、ジェロニモは、また慄えたアルベルトの背中を、力を込めて抱いた。
掌のこすれる熱で、ぬくまったはずのアルベルトの体は、まだ寒気に震えを止めず、けれど疲れに浸った神経が、眠気には勝てずに、力の脱けた右腕が、ジェロニモの腰の辺りを滑り落ちた。
アルベルトに殴られた、背中や肩の辺りが痛む。それは、アルベルトが背負った、壊れかけてしまっている心の痛みなのだと思いながら、あるいは、いっそ壊してしまう優しさもあるのだと、闇の底から、ささやくような声が聞こえた。
アルベルトによく似たその声に、軽く頭を振って、ジェロニモは、アルベルトと胸を合わせて目を閉じた。
また朝がやってくる。嵐のような夜がやってくるまでの、静かな、今だけは穏やかな、わずかなひとときだった。
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