「あらし」 -
番外編
Chaotic Scent
いつも、予感がする。
首の後ろが、急にぴりぴりとして、髪の毛が、逆立つような、そんな感じがする。
背後に、うっすらと気配を感じて、そっと振り向いても、もちろん誰もそこにいるはずもなく、けれど、やって来るのだと、わかる。
まるで、飼い主の足音や気配に、敏感に反応する、猫や犬のように、アルベルトは、いつも、その訪れを察知して、それから、全身を目と耳にして、待つ。
読んでいた本に、また目を落とし、アルベルトは、どこからかやって来る足音に、耳をすませた。
一体、どれほど経ったのか、ざわめきなど、ほとんどない表の通りから、待ちかねた足音がこちらへ来て、それから、からんと店のドアが開いた。
振り返る必要はなかった。
足音の主は、真っ直ぐにアルベルトの傍へやって来ると、まるで甘えるように、右肩にあごを乗せ、そこから、アルベルトの抱えている本をのぞき込んだ。
「よォ。」
低くめた、甘い声。
あごと喉が、硬い右肩の上で動く。
そこからは伝わらない体温が、頬と首筋に当たる。
顔を動かして、ジェットが、頬の辺りに唇を寄せた。
「・・・アンタ、いい匂いだな。」
そう言われて、初めて、本から視線を反らした。
首をねじり、背後から自分に触れている、赤毛の長身に、そっと上目の視線を当てる。
腰に、長く細い腕が回った。
一度抱きしめてから、片腕を伸ばして、アルベルトが抱えている本を取り上げる。
読んでなどいなかったのに、気づいただろうかと、手から去る重みを、視線で追いながら、思った。
長い腕は、腰を抱き寄せるなら、片方だけで充分で、目の前の本棚の、並んだ本の前に、取り上げた本をそっと置いて---本屋で本を粗末に扱うのは、犯罪にも等しいと、言われる前に学んだらしい---、ジェットは、そのままアルベルトの体を引っ張った。
水曜の午後など、ここに客など、来るはずもない。
店の表から見えなくなると、ジェットが、正面に引き寄せて、唇を重ねに来た。
奥の、事務室にしている、小さな部屋のドアを開けながら、なだれ込むように中に入り、けれど、軽く押しただけのドアは、閉じないまま、途中で止まった。
床に倒れそうな勢いを、かろうじて支えて、もう少し奥まで進むと、ようやく、机にたどり着いた。
両腕を首に回し、赤い髪に指を差し入れて、貪るように舌を絡める。
服を脱ぐわけにはいかないけれど、せめてと思って、キスの間に、ジェットの、グレーのパーカーを脱がせた。
現れた、ほんの少しの素肌に触れる。それだけなのに、いきなり上がる体温に、アルベルトは頬を上気させた。
ジェットが右手を取り、そこにはめた手袋を、取ろうとする。
そうしてから、ふっと不思議そうな表情を浮かべた。
「・・・ここも、匂いがする。」
持ち上げた掌を、顔に近づけ、どこかうっとりしたように言う。
体温が上がって、もしかすると、コロンの香りが、いつもより強く立っているのかもしれないと思う。
「左の手首につけて、こすり合わせたからな。」
剥き出しにした、金属の右手首に、舐めるように唇をすりつけるジェットに、そうおかしそうに言った。
上目に、潤んだ視線を投げて、ジェットが、今度は左手を取る。
手首の、薄い皮膚に吸いついて、そこに細く浮く骨を、ジェットが軽く噛んだ。
まるで、骨つきの肉を、食み、しゃぶるように、ジェットはいつまでも、そこに唇を当てていた。
どくどくと、血の流れが速くなるのを、その手首に感じているのだろうかと、アルベルトは、うっすらと羞恥に、肩をすくめる。
「ほかに、どこにつけたんだ・・・?」
訊かれて、
「耳の、後ろと・・・」
言った途端に、ジェットの腕が首に回り、耳に噛みつかれた。
痛いと、声を上げる前に、舌先が、耳の、細かな流線をなぞり始めた。濡れた感触に、思わず肩を縮め、息を止めた。
もっとと、ねだるように、ジェットの背中に回した腕に、力を込める。
「それから・・・?」
耳元で、息を吹き込むように、またジェットが尋く。
数瞬、答えられずに、ジェットに促すように耳を噛まれ、肩を震わせながら目を閉じた。
「首筋・・・。」
軽く噛んで、舌で舐める。
「ほかには?」
もう、答えられずに、首だけ振った。
足を抱え上げられ、机の上に、押し倒された。
きっちりと、ボタンをとめていたベストの前が開き、ネクタイがゆるめられ、シャツの前が開く。するりと、熱い掌が滑り込んで、赤く染まった皮膚を撫でた。
「もっと、別のとこにも、つけろよ。」
ジェットが、上で、唇を舐めた。
かすれた声で、そう言いながら、先へ進むために、アルベルトの服を、少しだけ剥がしにかかる。
狭く、固い机の上で、ジェットを助けるために、肩や腰を浮かせながら、ジェットの唇から、自分のつけたコロンが匂うのに、ふっと目を細めた。
固く尖った、胸の薄紅い突起に、指の腹を当てて、
「こことか。」
耐え切れず、喉を反らして、はみ出していた頭を、机の端から落とす。
「こことか。」
みぞおちを滑り落ちた手が、下腹の、他よりも柔らかい皮膚を撫でて、いきなりそこから張りつめている、アルベルトの熱を包む。
くすりと、珍しくおとなしく、ジェットが笑った。
「ここにも。」
長い指が、奥へ伸びた。
なぞるように撫でて、焦らすように、もぐり込んでくる。
思わず頭を上げて、ジェットの腕を、強くつかんだ。
「は・・・早くっ。」
予感がした時から、もう、内側にわき始めていた熱が、ジェットに向かってあふれている。
あふれるそれを、受けとめて欲しくて、受けとめたら、こちらに注ぎ返して欲しくて、アルベルトは、浅ましく、先をねだった。
「アンタみたいな淫乱、初めてだ。」
うるさいと、言おうとして、唇をふさがれた。
そのまま、強く抱き寄せて、舌を絡めた。
不自然な姿勢で、無理に繋げた、躯の奥がきしんだ。
強く押し込まれ、息が止まった。
頭をまた、机の端から落として、反った喉から、切れ切れに声をもらす。がくがくと首が揺れ、喉の皮膚が、痛いほど張った。
ジェットが、上で、動きながら、舌を打つ。
焦れたように、少し乱暴に動いて、ジェットが急に、躯を引いた。
「アンタ、ここに、ソファかなんか置けよ。」
机しか、目立つ家具のない小さな部屋の、右の方を見ながら、ジェットが言った。
「そしたら、机の上なんかでやらずにすむぜ。」
言いざま、引き起こしたアルベルトの体を裏返し、また机に押しつける。
背中に胸を落として、また、躯が繋がる。
思わず、声がもれた。
髪をつかんで、横顔を仰向かせて、茶化すように、おかしそうに、ジェットが言った。
「・・・誰か入って来たら、聞かれちまうぜ。」
言われて、唇を噛んだ。
ジェットが、からかうように、声をそそのかすように、もっと強く突き上げてくる。
首の後ろと、耳を、また、ジェットが噛んだ。
「まだ・・・アンタの匂いが、する。」
濡れた舌が、耳の後ろを舐めた。
舐められて、また、躯が震えた。
ふたり分の体温に、あたためられた皮膚から、コロンの香りが立ち上がる。ふたりの皮膚に、それが染み通ってゆく。
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