ここからふたりではじめよう - 番外編その5

煙草




 ナニこれ、と部屋に入って来るなり、ジェットが言った。
 目ざとく、見慣れないものを、キッチンのテーブルの上に見つけ、それを取り上げて、アルベルトの方を振り返る。
 ああ、と照れの混じった苦笑を見せて、アルベルトは軽く肩をすくめて見せた。
 「ちょっと、口がさみしかったんだ。」
 煙草。カタカナの名前の、ごく軽い種類のものだった。
 テーブルにそれを戻しながら、ジェットは不審な顔をする。
 「事故の後、吸ってたことがあって、また最近、少しだけ・・・」
 言い訳するように言うと、ジェットは唇をとがらせて見せてから、抱えて来たカバンを、床に下ろした。
 こんなもの吸って、とその唇が言っている。少しだけ決まりの悪い思いをして、アルベルトは眉を寄せた。
 事故の後、それまで触れたことさえなかった、酒と煙草に、まるで自分を殺すためのように、手を出した時があった。慣れないことは長くは続かなかったけれど、ギルモア博士の元へ行った後も、煙草は時々吸うことがあった。
 鉛色の指にはさまれた、白や茶色のフィルター、その色の対比が、右腕のないことを思い知らせ、自虐的に、煙草を吸い続けたこともあった。もっとも、煙草を持つこと、ライターで火をつけること、そんなこともリハビリのひとつにはなったので、あながち無駄だったとも言えない。
 大学へ入り直してからは、煙草を吸っていると、火を貸してくれ、1本もらえるかと、声を掛けられることがしばしばあり、それがうっとうしくて、すっぱりとやめてしまった。
 今度また、煙草がふと恋しくなったのは、強いて言うなら、ジェットのせいだった。
 少しずつ、ふたりの時間が増えると、今度はひとりの時間が、少しばかり苦痛になる。どうやって、時間を過ごせばいいのか、迷うことが増える。
 本を読んでいても、街を歩いていても、ジェットが傍にいないことが、背中をうそ寒くさせる。
 煙草は、そんなアルベルトの、ひどく手軽な時間つぶしになった。
 煙草をくゆらせて、その紫煙に包まれていれば、自分はこの、たったひとりきりのゆったりとした時間を、楽しんでいるのだと、思い込むことができる。好きでひとりの時間を楽しんでいるのだと、自分に信じ込ませることができる。
 もっとも、今さらヘビースモーカーになるつもりもなく、せいぜい1日に2、3本しか、吸いはしないのだけれど。
 珍しそうに煙草の箱を眺めているジェットが、ぼそりと言った。
 「オレの回り、誰も煙草なんか吸わないもんな・・・ねーちゃんに見つかったら、オレ殺されるし。」
 いつものように、キッチンのテーブルに向かい合って坐り、ふたりの間にある煙草の箱に、ジェットがまた手を伸ばした。
 「吸う?」
 ああ、と思わずうなずいていた。
 ジェットが、箱から、普段にない丁寧な手つきで煙草を取り出すと、きちんとフィルターの方をアルベルトに向けて差し出す。
 アルベルトより一瞬早く、ライターも取り上げた。
 ライターを扱う手つきは、さすがにぎこちない。それでもまた、丁寧な手つき---愛情のこもった手つき、というのはうぬぼれすぎだろうか---で両手を添えて、火を差し出し、アルベルトは微かに照れながら、首を伸ばした。
 右手の指に煙草をはさみ、もう、ジェットの前で手を隠すのは、とっくにやめていることを思い出す。さすがに明るい場所で服を脱ぐ気にはまだなれないけれど。
 煙草を吸う自分を、じっと見つめるジェットから、アルベルトはすいと視線をずらした。
 「似合わないか、煙草吸うの?」
 らしくもない質問だ。自分でそう思ってから、慌てる。
 ジェットはそんな狼狽にはもちろん気づかず、返事をした。
 「ううん、そうじゃなくて、せんせェ、いろっぽいなあ、って思ってるだけ。」
 思わず、自分で吸った煙にむせた。
 真っ赤になってジェットを見ると、ジェットは表情も変えず、
 「やっぱ、せんせェ、大人だなあって・・・」
 未成年に大人だと言われて喜ぶほど、子どもでもない。
 背後の、シンクの傍にあった灰皿に、半分も吸っていない煙草をもみ消すと、アルベルトはゆっくりと立ち上がった。
 ジェットの前で、煙草なんか吸ったせいだ、と思う。
 煙草のことを、隠すつもりはもちろんなかったけれど、それでも、ジェットのいない時間に、気を紛らわすために吸い始めたのだと、知られているようで、それが照れくさかった。
 椅子に坐ったままのジェットの肩に手をかけ、それから、ゆっくりと上体を、傾けた。
 自分から、こんなふうに接吻するのは初めてかもしれない。いつも、誘うのはジェットの方だったから。
 頬に手を添え、少しだけ、自分の方へ上向かせる。おずおずと、ジェットの手が、アルベルトの手首に触れた。
 ゆっくりと唇を離すと、ジェットの上気した顔が見えた。
 あごに指---左手の---をすべらせ、それから、親指でそっと唇をなぞった。
 親指の先を唇の間に差し込み、歯列に触れる。ジェットが、その指先を、甘えるように軽く噛んだ。
 誘うように、うっすらと開いた唇に、アルベルトは舌先を滑り込ませた。
 ジェットのあごの筋肉が、ふと硬張ったのを掌に感じて、それでも構わず、アルベルトはジェットの舌を探る。
 濡れた音が、耳の下に響く。
 絡まった息が、次第に熱を帯びてくる。
 ジェットは、耐えきれなくなったように、唇を重ねたまま椅子から立ち上がると、アルベルトの背中に両腕を回した。
 舌が逃げ、唇が離れると、ジェットがそれを追って来る。
 湿った唇の間で、舌先を軽く噛んでやると、ジェットの胸の辺りが、微かに震えた。
 「せんせェ、オレ、これ以上続いたら、責任持てないよ。」
 熱い息のままで、切なそうにジェットが言う。唇と同じだけ、瞳も濡れていた。
 「オレ、せんせェのこと、押し倒しちゃうよ・・・」
 「こっちが押し倒したいくらいだ。」
 あっさりそう言うと、アルベルトは、ジェットの手を引いた。
 「時間、あるんだろう?」
 うん、とジェットが、熱に浮かされたようにうなずいた。





 それ以上、触れる必要もなかった。
 服を脱ぐ間ももどかしそうに、ジェットはアルベルトにのしかかってきた。
 技巧もない接吻ひとつで、簡単に昂ぶってしまう躯。
 けれど、昂ぶっていたのは、自分なのだとアルベルトは思う。
 欲情、と心の中で呟いた。
 アルベルトに触れたいと、素直に言うのはいつもジェットの方で、こんなふうに自分から誘いをかけることなど、想像すらしたことがない。
 それでも今は何故か、ジェットを欲しいと思う。
 まるで自分から煽るように、そうとわかっていて、ジェットの唇に触れた。
 ジェットが、欲しかったから。
 こうしてジェットと抱き合うのに、完全に馴れたわけではない。
 体を晒すのには、まだ抵抗があるし、何よりも、あまり胸を張って言えないことをしているのだと、知っている。
 それでも、少しずつ自分に近くなるジェットに対する愛しさを、止められない。口には出さなくても、ジェットが自分を好きだというのと同じほど、自分もジェットに魅かれている。
 ろくに恋も知らない、あるのは真摯な想いだけの子どもを、アルベルトは愛しいと思う。
 子どもゆえの素直さで、自分のすべてを受け止めようとするジェットに、アルベルトはいつも驚きを隠せない。愛されることを拒否し続けて、その壁を破ったのは、無邪気に笑う、10も年下の、子どもだった。
 自分の現金さと滑稽さを、心の底から笑ってしまいたくなることもあるけれど、それでも、ジェットを失うことは今は想像すらできない。
 ひとりになるのが、怖かった。またひとりに戻るのが、恐かった。
 相変わらずぎこちないジェットの動きを、膚の上に感じながら、それでも躯は、ゆっくりと昂ぶってゆく。
 ろくに他の場所には触れもせず、アルベルトはするりと手を伸ばした。ジェットが躯を引こうとするのに構わず、導こうとする。
 まだ、躯は開かないままだったけれど、今はジェットと繋がりたかった。ジェットが欲しかった。一刻も、早く。
 ジェットがそうしやすいように、自分から体を持ち上げる。ジェットの背中にしがみついて、アルベルトは歯を食いしばった。
 躯の奥が、きしんだ音を立てる。
 「せんせェ、痛い?」
 心配そうに、ジェットが訊く。
 首を振って、大丈夫だと言うと、ジェットが息を吐いて、それから、遠慮がちにまた躯を進めてきた。
 これ以上しがみつくと、ジェットの背中に傷を残しそうで、アルベルトは右手を外し、代わりに、ジェットの赤い髪の中に差し込んだ。
 自分の奥深くに、ジェットが少しずつ入り込んでくる。ゆっくりと。
 ふたりが、すきまもなく、重なる瞬間。
 ジェットを全身で感じながら、アルベルトは固く目を閉じた。
 アルベルトを満たしてゆく、ジェットの形。
 ジェットが、不器用に動き出す。下手なことをすれば、アルベルトを傷つけるのを知っているから、決して無理なことはしないけれど、それでも、時々、躯がそれを裏切る。
 息を止めて、ジェットの動きを受け止めながら、アルベルトは喉を反らした。
 時折、殺しきれない声が上がる。
 ふと今、ジェットの膚に、自分の痕を残してやりたい衝動に駆られた。目の前にある首筋に、思い切り噛みついてやれたらいいのに。
 そうできないとわかっていて、代わりに、ジェットの耳に、甘く歯を立てる。そんな余裕も、10秒と続かなかったけれど。
 強く押し潰されて、そして、ジェットの躯が落ちてきた。
 自分の上で、背中を喘がせるジェットを抱きしめて、アルベルトはようやく体の力を抜いた。
 胸を浮かせ、躯を外そうとするジェットを、アルベルトは止めた。
 「もう少し、このままでいてくれ。」
 いいの、とジェットの視線が尋く。
 返事の代わりに、またジェットを抱き寄せ、ゆっくりと唇をついばんだ。
 「オレ、せんせェが、好きだよ。」
 アルベルトを見下ろして、ジェットがそう言った。
 熱の残ったジェットが、まだ自分の中にいる。
 ひとりじゃない、とアルベルトは思った。 


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