「あらし」 - 番外編
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いつの間に、こんなふうになってしまったのだろう。
夢中になっている頭の片隅で、ほんの一瞬、ちらりと思った。
ぶ厚い、広い背中に、精一杯両腕を回して、そして、軽くこちらへ寄せてくる腰には、足首を重ねるように、開いた脚を絡めて。
何もかも、少しのすき間もないくらいに、ぴったりと寄り添うために。
短く吐く息の間に、深呼吸をするふりをして、胸を軽く反らせる。それにつられたふりをして、腰を少し持ち上げる。
もっと近く、躯を寄せるために。
そうして、重なっている躯は、これ以上は密着できないほど、よくきしむベッドの上で、もうずっと、一緒に揺れ動いている。
決して小柄ではないアルベルトの体は、けれどジェロニモの下で、その絡みついた手足しか、おそらく見えてはいない。ジェロニモの体の陰に、こんなふうに折り曲げてたたんだ躯を隠して、アルベルトは、闇よりもふた刷け薄いジェロニモの膚の色を、とても優しい色だと、安心している。
自分を飲み込もうとする闇の中で、浅黒いその膚に全身を包まれて、守られているのだと、そんなふうに思う。
その膚に刻まれている、わずかに盛り上がった、指先につるつるとなめらかな、原因のひとつも尋ねたことのない傷跡のひとつびとつを、アルベルトは、掌の下に探る。
いくつかは、あるいはほとんどが、グレートのためのものだったのかもしれない。グレートのかたわらにいたために、あるいは、グレートを護ろうとして、そうして増えて行ってしまった、無数の傷跡なのかもしれない。
そうして、こんなふうに、脳が骨の内側でぐずぐずと溶けてしまっている時特有の、唐突な根拠のなさで、この傷ひとつひとつがグレートなのだと、アルベルトは突然思いつく。
どれがどれとも知りもしないくせに、それは全部グレートのためだったのだとたやすく思い込んで、アルベルトは、いっそう愛しげに、ジェロニモの傷の浮いた膚を撫でた。
呼吸につれて盛り上がる体は、そこを覆う皮膚を盛り上げて、そうして、よりいっそう、アルベルトの皮膚に近づいてくる。傷跡が、まるでこちらに跡を残そうとしているかのように、その形をこちらに押しつけてきて、アルベルトはそうして、それをまた熱心に撫で続ける。
最初はただ、開いた脚の間に、引き込んだだけだった。満たすためだけに、その役目のためだけに、必要なだけ抱き寄せて、粘膜だけをこすり合わせるだめだけに、その肩に手を伸ばした。
正しい意味で、それは欲情ですらなく、スイッチを押した機械のような、生々しさのない発情だった。
スイッチが切れてしまえば、拭ったように何もなくなり、飢えが満たされたという感覚だけが残る。
食欲のない空腹を、それでも満たさないわけにはいかずに、しぶしぶ何かを胃に流し込む、ただそれだけの行為だった。
それなのに、いつの間にか、アルベルトは、はっきりとジェロニモに欲情している自分がいることを、自覚し始めていた。
重ねる躯が、近くなればなるほど、その経緯の不自然さを埋め合わせるように、心が少しずつ、相手に向かって流れ込んでゆく。それは、ゆっくりと滴る水のように、わずかな湿りから次第に、舗道の水たまりへ、そして、いつか波すらない湖へ、形を変えてゆく。
いつそんなことになってしまったのだろうと、自分の中を覗き込むには、熱が高すぎた。
首を伸ばして、ジェロニモの硬く盛り上がった肩に、あごを乗せる。揺れるその肩の動きにつれて、まるで首を吊るように、喉が伸びる。
ベッドを潰しかねない重みを、平たく開いた体に受けて、その重みの下に全身を溶かして、アルベルトは、いっそう近くジェロニモに添おうと、開いていた脚を、もっと大きく開いてみようとする。
そこだけではなくて、全身で繋がりたかった。押し潰されて、息もできないほど苦しくて、死にそうになりながら、そうやって殺されてしまったらどんなにいいかと、短く切れる呼吸に喉をあえがせる。
けれど、本音はそれだけではない証拠に、揺するたびに上で吐く息に合わせて、アルベルトも、自分の呼吸を調節していた。
心臓の位置を重ねて、呼吸を合わせて、奥深い湿った熱が混じる。乱れる互いを眺めて、もっと欲情するためではなく、欲情をじかに体温に感じて、相手の快楽に自分が貢献しているのだと、そのことに欲情をまた煽られてゆく。
躯を重ねて、乱れてゆく。淫らなのに、それはどこか真摯で、時折外れる胸と腹の重なりのすき間に、ぬるく入り込む空気は、それがいとしさなのだとふたりに伝えようとして、けれどまだ伝え損ねている。
べったりと、胸と腹を合わせて、手足を絡めて、流れる汗が溶け交じる合間に、太い指が、アルベルトの柔らかな髪をまさぐった。
視界に入るのは、互いの一部だけだった。動く肩と、乱れた髪とこめかみの辺り、あるいは、赤く染まった耳朶。ジェロニモの唇が、短い息を止めて、アルベルトの額に唇を落とした。
アルベルトは、まるでジェロニモの全身の傷跡を、自分の皮膚に移すように、また忙しなく背中をたわめて、互いの皮膚をこすり合わせる仕草をする。
グレートの傷だと、わけのわからないことを思いながら、回りきらない両腕で、ジェロニモの背中を抱きしめる。硬い鎖骨の辺りで、グレートと、はっきりとつぶやいた後で、ジェロニモに唇をふさがれた。
ジェロニモの大きな両手が、そこで音を閉ざすように、耳の上に覆いかぶさる。その仕草に、アルベルトは頭を固定されて、うっかり、ジェロニモと見つめ合う羽目になる。
太い首、鎖骨のくぼみ、そこに血をためてすすりたいと、不意に物騒なことを思って、目を細めた。
音が遠去かる。骨や皮膚から直接伝わる音だけが、耳の奥へじかに響く。ジェロニモの下で、きしんでいるのは、今にも壊れそうなベッドだけではなく、自分の背骨や肋骨が、ジェロニモの重みに立てている音に、アルベルトは初めて気づいた。
喉をふさぐために、また口づけが降りてきて、音のない世界で、聞こえるのは、血の流れる音と骨のきしむ音だけだった。
体が、ひとつになってゆく。折れてばらばらになった骨が、ひとつに繋がれて、接なぎ目を残したまま、いびつな形に再生してゆく。骨の鳴る音を聞きながら、躯のいちばん奥の辺りで、注がれる熱を期待して、うねりを繰り返している内臓の内側が、舌先よりももっと雄弁に、もっともっとと、つぶやき続けている。
追っているのはグレートの面影だ。けれど、求めているのはこの躯と熱さだと、また傷跡だらけのジェロニモの体を、アルベルトはしっかりと抱き直す。
誰よりも何よりも、おそらく自分をたやすく圧倒する大きさと重さ、あっさりと自分を殺してしまえるだろう力強さ、そして、それがゆえのジェロニモの底のない優しさに、アルベルトは心の底から安堵を覚えた。
唇をふさがれたまま、遮られた音のまま、アルベルトは、必死で舌先を動かしていた。グレートを思いながら、ジェロニモの名前を呼び続ける。ジェロニモが果ててしまうまでそうして、自分の声が、羽音のように響く頭蓋骨の中に、アルベルトはずっと閉じ込められたままでいた。
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