「あらし」 - 番外編

Dangerous Game



 たとえば、優しい言葉をかけてくれるとか、穏やかな仕草があるとか、そんなことがあるはずもなく、何もかもが荒々しいだけか、あるいは投げやりなふうだった。
 ジェットに抱かれていると---と形容するには、あまりにも一方的すぎるけれど---、アルベルトはいつも、自分が人形であるような気がしていた。
 ただそのためだけにつくられた、とても精巧な人形。ほんものそっくりに見える、自分を抱く誰かが、愉しむそれだけのための、人形。
 昔読んだ本の中に、人形は自分で動かしてやらなければならないけれど、女なら自分で動いてくれるじゃないかと、そんなことを笑って話し合う男たちの話があった。読みながら、ページに添えた指---左手の---が震え、ひどい吐き気を催し、そして同時に、とても素直に、その文章に納得していたことを憶い出す。
 笑う、泣く、叫ぶ、悦ぶ、転がる、殴られる、さまざまな形で、犯される。どれをも、自分を抱く---思わず、苦笑いがこみ上げる---相手の、望むように反応できるように。自分などいない。そこにいるのは、暖かな人の体温を持つ、自らが動けるだけの機能を持つ、人形であることを強いられた、ただ人の形をしているというだけの、肉の塊だ。
 強いられたことに従うには、心を殺すしかない。それ以外に、肉体が生き延びる術はない。
 果たして生き延びる意味と価値があったのかと、すり切れた肉体が、うすぼんやりと考え始める時がいずれ来るにせよ、心を殺しきる前に、踏みつけにされる肉体が救われるかもしれないと、それこそ意味のない希望に、すがらずにはいられない。
 伸ばす腕の半分は、生身ではなく、けれどそれと引き換えに得た、少なくとも人形であることだけではない、与えられた生だった。
 かろうじて生き残った、肉体と同じほどぼろぼろになっていた心は、グレートが、その両手にすくい上げてくれた。血と硝煙の匂いと、そして煙草の匂いの染みついた、けして大きくはない---生身の---両手が、アルベルトの心をそっと包み込んで、吹き出していた血が止まり、乾き、傷口を覆い、柔らかな肉が盛り上がって、新しい皮膚が現れ、わずかな痛みを残して傷跡になるまで、慰撫し続けていた。傷跡になった後も、その手が離されることはなく、片手で握りつぶしてしまえるだろう、やっと生き残った小さな心のかけらを、アルベルト自身がそうするよりももっと真摯に、グレートは守り続けていてくれている。
 そうしてアルベルトは、どうしてと、また自分に問いかける。
 ようやく、人に戻れたのに、なぜ、自分を人としてなど扱ってはくれない誰かと、こんなふうに一緒にいるのだろう。
 ジェットが、躯を繋げて、そうして、アルベルトの、歪めて押し潰した体を揺さぶりながら、首に両手を伸ばしてくる。骨張った、長い指が薄い掌とともに、喉の皮膚に押しつけられる。じわじわと、呼吸の器官が締めつけられて、そこだけではなく、ありとあらゆる内臓が、不自然にうごめいて、それがじかに、ジェットの張りつめた膚に伝わってゆく。
 その、熱っぽく湿りを帯びた形ではなくて、もっと細くて薄い、自在に動く指が、アルベルトの喉を、外側から侵しにかかる。
 粘膜同士が触れ合うやり方ではなくて、もっとわかりやすく暴力的に、アルベルトを壊そうと---それが目的なのかどうかは、知らない---、ジェットの指と掌に力がこもる。
 こんなやり方は、初めてではない。ジェットとでも、グレートとでもなく、もう顔も覚えていない男たちのうちの、数人とのことだ。
 あの頃は、肩も首ももっと細くて薄くて、両腕もちゃんと揃っていて、大きな男の躯に揺さぶられながら、苦しさに涙を流していた。
 半開きの唇が、閉じることもせずに呼吸を求めて、あふれるのは唾液ばかりで、それが、男たちの手を汚した。ぐきんと、首のどこかで音がしたような気もする。くっきりと残った、男の手指の跡、そして痛む躯と、そのつもりはなかっただろうにせよ、殺されかけたのだと、ぼんやりと思った。
 呼吸を求める内臓が、いつもとは違う動き方をする。男たちは、それを求めて、アルベルトを仮死の淵に引きずり込もうとする。
 アルベルトは、上で動くジェットをまっすぐに見つめたまま、あえいだつもりで、首を反らした。力のこもるジェットの掌に向かって、自ら喉を持ち上げて、もっとと、誘うように、瞳を動かす。
 ジェットが入り込んできて、引いて、そしてまた乱暴に、奥まで入り込んでくる。届いてくるその形に、そのためではない柔らかな粘膜が圧迫されて、けれど逃がさないように、アルベルトは、ジェットの細い腰に両足を絡ませた。
 こめかみの辺りがしびれてくる。舌はもう、腐った肉のように、だらしなく濡れて光るだけだ。ジェットに抗おうとしない両手は、投げ出されて、それでもシーツをつかんで、与えられる苦痛から逃げようとせずに、耐えている。
 一体何が主に原因なのか、ジェットと同じほど張りつめる全身の中心で、アルベルトは、まるでジェットに触れてほしがっているように、そこでしっかりと勃ち上がっていた。死にかけているのに、奇妙なことだと、白くぼやけてくる視界の片隅で、ちらりと思った。
 果てないまま、不意に、ジェットがアルベルトの首から指を外した。まるで引き剥がすように、硬張った手指をひどくのろい仕草で、押さえ込んでいたアルベルトの皮膚から持ち上げる。
 圧迫されていた皮膚は、指や手の形にわずかにへこんで、そして、さあっと音を立てそうに元の形に戻ると、アルベルトの喉は、吸い込んだ空気に一気にふくれ上がる。
 涙のにじんだ目を細めて、それから、アルベルトは、少し体を丸めて咳き込み始めた。
 今まで感じていないと思っていた苦しさが、胸の奥からこみ上げてくる。縮こまっていた肺を全部使って、ぜいぜいと息をして、それからアルベルトは、いつの間にか解いてしまっていた足を、また片足だけジェットの腰に絡めた。
 躯はまだ繋がったままだ。正面から見下ろして、見下ろされて、アルベルトはやっと呼吸をおさめて、喉に添えていた左手を、またシーツの上に戻す。
 また絞めるつもりか、ジェットが、ひどく静かな仕草で、アルベルトの首にまた掌を当ててきた。
 撫でるように、開いた掌を滑らせて、あごの先とあごの下と、首の前の部分から、鎖骨の間を掌が通る。まっすぐにみぞおちまで落ちた掌は、大きく指を開いた形で、そこにとどまった。
 「アンタの体、切り開いて、突っ込みてえ・・・。」
 むごいことを言っているくせに、声音は弱々しく、そして、優しかった。うつろに光る瞳を、アルベルトの腹の辺りに向けて、それから、うかがうようにアルベルトの方を見る。
 体のちょうど真ん中辺りに、今度は両手が乗った。
 「アンタの、血と肉と、そん中にひたれたらな・・・」
 ジェットの熱が、ゆっくりと引いてゆく。躯はそのまま、ジェットが、果てないまま、熱を失ってゆくのが、アルベルトの中に伝わってくる。
 切り裂いた腹に、ジェットが、その身を沈めてくる、幻想。
 まだ温かな血と内臓と、筋肉や血管や骨や、その中に、ジェットが、彼自身を埋め込んでくる、妄想。
 完全に生身ではなくなってしまったアルベルトの、その欠けた部分の代わりのように、ジェットが、その生身の体を埋めてくる。ジェットを受け入れたまま、切り裂いた皮膚を縫い合わせ、そのままジェットを取り込んでしまう、夢想。
 失った腕の代わりに、ジェットとひとつに繋がってしまう、そんな想像。
 喉が痛む。ジェットが、自分を殺してみたいと、そう思っているのだと、アルベルトは唐突に悟った。
 他の誰でもない、ジェットが殺す、アルベルト。それは、苦しみのない、素晴らしい死のように思えた。
 虫けらのようにではなく、歪んではいても愛情と呼べる何かに突き動かされて、殺してしまわなければ表現しきれない想いを注がれて、それなら、どれほど残酷に殺されてもいいと、アルベルトは、うっすらと笑みを浮かべる。
 自分の首を締め上げていたジェットの手を取って、アルベルトは、深い感謝の色を刷いて、その掌に、まるでとても身分の高い相手にそうするように、乾いた唇で口づけた。


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