「あらし」 - 番外編

Deadly Fate



 階段を、1段飛ばしに駆け上がる。
 上まで上がりきる直前に、心臓が、一度肋骨の中で跳ねた。
 上りきったところで、手すりに手を掛けたままで、腰を折って、大きく息を吐く。はあはあと、胸を絞るように息を吐き出して、額にうっすら浮いた汗を、ぐいっと、手の甲で拭った。
 煙草のせいかなと、やめようと思ったこともないくせに、ちらりと、自分の体のことを、一瞬心配する。
 心配した、その理由が、目の前の、もう少し先にある、素っ気もない鉄のドアの向こうにいる。
 ようやく体を起こし、胸の辺りを撫でて、ネクタイやコートの乱れを直して、グレートは、なるべく静かな面持ちで、ドアの前に足を運んだ。
 ノックをすると、ほとんど間を置かずに、人の気配がやって来て、ドアが、内側から開いた。
 飾り気の微塵もない、鉄のドアの向こうから、不意に、光があふれるように、細切りの、人の姿が現れる。
 グレートの姿を認めた途端に、ドアが開くよりももっと早く、その、色も形も、薄い唇に、こぼれるような笑みが広がる。
 また、どくんと、心臓が跳ねた。
 中に招き入れながら、グレートにくるりと背を向けた、奇妙にはかなさの漂う肩の辺りに、思わず腕を伸ばして、引き寄せて、それから、切羽つまった表情を、もう隠せない。
 驚いている、愛しい青年の、自分よりも高い位置にある頬に両手を添えて、少しばかり不作法に、グレートは接吻を送った。
 朝から、ずっと、彼のことを考えていた。
 夢の中に現れて、どうしてか、体を透き通らせて、自分にすり寄って来た彼に煽られて、その手応えのない体を抱きしめながら、夢の中でそうあることが当然のように、すべてが夢のようだった。
 目覚めて、どこかに刺さった、小さな不安の棘が、ちくちくと痛み、どうしても会わなければと、思い始めたのは、昼を過ぎた頃だった。
 会おうと思えば、いつだって会える。彼はいつだって、グレートのためにここにいる。グレートを待ち、グレートを想い、グレートのために在る、彼だったから。
 それなのに、どうしてなのか、不意に背中を押されるように、まるで、彼が空気の中に消えてしまったような、そんな気がして、ここへ駆けつけて、確かめずにはいられなかった。
 この手の中から、するりと抜け落ちて、そのまま消えてしまうような、そんな気がして、引き寄せて、抱きしめて、その確実な重みとぬくもりを、膚の上に感じずには、いられなかった。
 靴も脱がず、コートも脱がず、彼の、自分よりも大きく育ってしまった体を押し倒して、焦ることをしなくても、いつだって、素直に自分に寄り添ってくる青年の、驚いた表情を見下ろしながら、銀色の髪をつかんで、上向いたあごに、軽く噛みついた。
 声がもれて、喉が動いたのがわかる。
 乱暴な接吻に、痛いほど舌を絡みつかせ、唇を食いちぎりそうに、重ねて、こすり合わせる。
 どちらが先に、相手の呼吸をすべて奪ってしまうか、争うように誘い込み合って、濡れた舌が伸びて、触れる。
 眼下で、彼が、下唇を舐めたのを、見た。
 痕を残すのを承知で、首筋に噛みつき、白い膚を破るように、乱暴に唇でなぞる。
 自分の手の中にあるのが、青年の実体なのだと、どうしても確信したかった。
 何を見ても、彼に繋がる。何をしても、彼を想う。
 大人になってしまった彼には、彼の時間が必要なのだと、理性でわかっていて、気持ちがそれを裏切る。
 切り落とされ、失ってしまった、生身の右腕---彼の過去---の代わりに、グレートが与えた機械の腕---今、という刻---を、常に視界に入れて、彼がそこにいて、自分のものであるのだと、失うことなどありえないと、24時間、切れ目なく、実感していなければならないのだと、叫ぶ自分がいる。
 執着という、醜悪な感情は、自分にもっとも似合わないものだと思いながら、この青年を、失うと想像して、そこに生まれる、架空の痛みにさえ、グレートは耐えられない。
 愛しているのだろうと、思って、そして、愛とは何だと、問う声も聞こえる。
 繋ぎ合っていると、思う心は、実体がなく、信じることには、時に疑いが混じる。
 疑ったことなどない。ほんとうに、親に捨てられることを恐怖する子どものように、彼は、グレートだけを見つめている。それが真実だと、グレートは知っている。
 けれど。
 だからこそ。
 青年を失うことに、耐えられない。
 ひとりの人間として、自分の足で歩き始めた彼を、祝福を込めて見送りながら、けれど、その首に回った鎖の端を、手放す気はさらさらない。
 人を殺す自分を、人でなしと、罵りながら、それでも生き永らえてきたグレートの、その生き続ける理由が、今、自分の下で、これ以上には表現すらできない、生の証しを示している。
 不様にはだけた膚を合わせて、いかにも、それだけのためのように、互いに脱がせ合おうとした服を、手足や肩に絡めたまま、青年の脚を、大きく開かせた。
 まだ明るい部屋の中で、硬い床の上に、手足を縫いつけて、繋がるところを、しっかりと見下ろしながら、青年を押し開き、入り込んで、所有のしるしのように、今は自分だけが知っている、その、拒む狭さの熱の中に、浸り込んでゆく。
 肉と肉の、絡み合う様を、自虐と加虐を込めて眺めながら、青年を侵す己れの、滑稽なほどの醜さを、心の中で嘲笑う。
 それでも、これは真実だった。
 青年は今、グレートの腕の中に在る。ここから、どこにも行かない。
 グレートを待ち、グレートを恋い、グレートのために、隠し持ったぬくもりを、恥知らずな形にさらけ出す。
 グレートのもの。グレートだけのもの。
 青年の体を、いびつな形にねじ曲げて、繋がりを深くして、もっともっと、自分のものにする。青年のすみずみまで、躯のその、彼自身さえ知らない、奥深くまで、入り込んで、侵して、すべてを自分のものにする。
 刻みつけるように、力を込めながら、繋がった肉とその内側と、こすり合わせて、教える。これが愛だと、これが、青年に許された、たったひとつの愛の形なのだと、教え込む。
 入り込めば、狭さは拒みながら、けれど熱で応えてくる。
 もっとと、躯が叫んでいる。
 侵されることに従順で、そして貪欲な躯が、いつの間にか、グレートを侵しにかかる。
 飲み込まれそうにながら、必死で自分を引き止めて、また、青年を見下ろす。
 大きく開いた、白い腿の間で、動く自分の躯を見下ろして、このまま、こうして繋がったままでいられたらいいのにと、ひどく幼稚なことを思った。
 グレートが、抱きしめてくれないことに焦れたのか、青年が、ゆるんで、垂れて揺れているネクタイを、つかんで、引いた。
 その、鉛色の手に視線を移して、その瞬間、青年が、決して自分以外の、誰のものにもならないのだと、確信する。
 引き寄せられるまま、体を倒して、胸をこすり合わせながらまた、青年の内側で、強く動く。
 ネクタイから手を外して、そのまま、その鉛色の、今は暖かい機械の手に、自分の手を重ねた。
 指を絡め、色も感触も違う手を、繋いで、そして、躯だけでなく、繋がり合う。
 「My Dear・・・」
 一度も、ものを言うためには開いていなかった唇を、接吻のためではなく、動かす。
 「おれが死んだら、おまえさん、どうする・・・?」
 開いていた脚を持ち上げ、グレートの腰の後ろで、足首を重ね合わせながら、青年が、ひどくきれいに微笑んだ。
 生身のままの左腕を、グレートの首に回し、微笑んでいる自分の唇に引き寄せながら、青年が答えた。
 「あんたが死んだら、俺も死ぬ。」
 10本の、色違いの指に力がこもり、また強く、手を握り合う。
 人を殺す、銃弾も、この手と同じ色をしている。
 人殺しの、自分の分身のような青年を、抱きながら、グレートはつられて微笑んだ。
 微笑んだ目の前で、愛していると、青年の、薄い唇が、形をつくった。


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