「あらし」 - 番外編

Deep Blue



 深く暗い青、というよりは、藍色だった。
 深い暗い色だけれども、鮮やかさのある、甘い青。夕焼けの空が次第に夜に飲み込まれ、注ぎ込まれる青に、濃く深い紫色から、もっと深い青に変わり、漆黒の闇の空色になる、ほんの数瞬前の色。
 アルベルトの、柔らかな銀の髪に、よく映えると思った。
 いい色だなと、店の人間につぶやくように言って、ひどく優しげに微笑み返された。なごやかな、グレートの瞳の表情のせいだったのだろうか。
 どこか、落ち着いた、品のいいレストランにでも連れて行こうかと、ふと思った。
 藍色の、そのスーツに似合う場所に、ふたりで出かけようかと、グレートは考えた。
 アルベルトの瞳よりも、いくぶん青の濃い、水色のシャツを合わせて選び、スーツの色よりももっと深い、少し紫がかった青の、紺色のネクタイを選び出した。
 光沢のあるそのネクタイは、地味な色合いの組み合わせを、少しだけ明るくするように思えた。
 その中におさまる、色素の薄い、機械の腕を持つ少年---いや、もう青年と呼んだ方がいいのだろう---を思い浮かべて、グレートは、早く会いたい、と思った。


 服を贈るような間柄に、誰かとなったことなどない。
 どんな色や形が似合うかなどと、考えて誰かを眺めたことすらない。
 右腕を失くして以来、外に出たことのないアルベルトは、衣服も靴も、外出用のものなど何もなく、そろそろ外へ連れ出そうと、グレートは考えていた。
 装着された機械の腕にすっかり慣れ、それでも、まだ細かく指先を使うのに、ひどく時間がかかる。
 食事をすることは出来ても、ナプキンをきれいにたたむことは難しい。歯ブラシは使えても、歯ミガキ粉のチューブのキャップを閉められない。
 そんな些細なことに、人の助けがまだいる。
 それでも彼は、笑うようになった。
 大きく平たい箱を差し出すと、ほんとうに、崩れるように、破顔した。
 「For me?」
 まだ、強いドイツ語の響きの残る英語で、グレートを見上げる。
 ああ、と笑ってうなずいてやると、クリスマスの朝の子どものように、弾んだ仕草で箱を開けた。
 中身をじっと見つめて、それから、グレートをまた見る。
 瞳に浮かんだのは、明らかな困惑と、大きな驚きだった。
 「それを着て、どこかに食事に行くのもいいだろう?」
 外出しようと言っているのだと、ようやく伝わったのか、まるで華奢なガラス細工に触れる手つきで、その、藍色の厚い布地を持ち上げる。
 「着てごらん。」
 箱を取り上げ、ひとつひとつ、ベッドの上に並べてやった。
 上着とズボンと、シャツとネクタイ。
 ああ、靴下とベルトと、それから靴もいるな。
 そんなものすら持っていないのだということが、ちくりと胸のどこかを刺す。
 めかし込んで出掛ける前に、残りのものを揃えるための買い物に、連れ出した方がよさそうだった。
 アルベルトは、立ち上がって、今着ている、パジャマの延長のような、ゆったりしたコットンのシャツとショーツをすっかり脱いでしまうと、またグレートとベッドの上の服を、交互に見た。
 「シャツが先だ。」
 そう言って、シャツを取り上げ渡してやると、難しい課題を与えられた生徒のように、少し唇を突き出して、ふわりとそのシャツを肩に羽織る。
 袖のボタンを外さずに腕を通そうとして、掌の、いちばん大きなところがつかえてしまった。
 しまった、という表情が浮かび、また、グレートをこっそりと上目に見る。
 その腕を取って、ボタンを外してやる。忘れずに、もう片方も。
 笑ってやると、安心したように、今度は機械の方の右腕を袖に通した。
 腕を通した後、袖のボタンを、自分ではとめられず、またグレートに向かって、おずおずと両手を差し出す。
 まるで5歳の子どもに、初めてのスーツを着せるようだと思いながら、グレートは、頬に浮かぶ笑みを消すことができなかった。
 シャツのボタンを、まるで爆弾のスイッチにでも触る要領で、ようやく上から下までとめ終わり、また、グレートを見る。今度は、どう?と言うような、少し得意な表情で。
 白い、爪の光る指先と、鉛色の、指の形をした金属の、絡まるような動きを、グレートは、息を詰めて眺めていた。
 ひとつボタンをとめるたび、次の動きは、少し速くなり、少しなめらかになる。
 よくやったと、頭でも撫でてやろうかと思って、自分とほとんど背丈の変わらなくなった彼の、肩の厚みに気づいて、腕が動きかけたのを、グレートは途中で止めた。
 次はズボンを手渡し、これはシャツよりもずっと手早く、身に着けた。
 そして、すべすべとして、うっかりすると、手から滑り落ちてしまいそうなネクタイを、手渡す。
 アルベルトは少し首をかしげ、受け取ったネクタイをしばらく眺めてから、裏と表を確かめて、首に回した。
 前に回した、ネクタイの両端を握り、交差させてから、また首をかしげる。
 「どうして結ぶか、知ってるのか?」
 少し悲しい顔を見せて、アルベルトが首を振る。
 途方に暮れたような頬の線に、一瞬視線を奪われてから、グレートは慌ててそこから目を反らした。
 あごを上げさせ、首の、一番上の一番小さなボタンを止めてやる。あごから喉の線に、すっかり大人びた硬さが見えた。それに思わず目を細め、まだ、見下ろす位置の、彼の胸元で、しゅる、とネクタイを滑らせる。
 交差させ、輪を作り、端をくぐらせ、引っ張る。前に垂れた部分の分量を確かめて、形を整える。襟をきちんと揃え、すべての線を真っ直ぐにして、ネクタイの部分は終わった。
 何も言わずに、最後の上着を羽織らせてやり、袖を通した後の肩を、ぽんぽんと叩いてやる。
 足元が裸足なのが愛嬌だったけれど、見立て通り、色はアルベルトによく映えた。
 「今度、靴を、買いに行こう。」
 しっかりと、床を踏みしめているアルベルトの爪先を見下ろして、グレートは、靴を履かないために、歪んだところのないその素直な線を、ふと自分の胸に引き寄せてやりたいと、一瞬、思った。
 大きさと色を確かめて、またグレートは微笑んだ。
 脱いでもいいと、そう腕の動きで伝えると、アルベルトは素直に上着を脱いだ。
 ネクタイをといて、ボタンを外してやるために、胸元に手を伸ばす。
 ネクタイを握って、その自分の手元を見て、ふと、胸が騒いだ。
 繋がっている、と思ったのは何故だったのだろう。
 外見の共通点のなさはともかく、息子と言っても通じるだろう、この少年---青年と言うには、まだ少し幼い---に、もう少し親 (ちか)しく触れたいと、そうまれに思うのは、何故だったのだろう。
 一瞬よりも短い間に、そんなことを思いながら、グレートは、そのネクタイを自分の方へ引き寄せていた。
 背も伸び、肩も厚くなったけれど、まだ、グレートの腕の中にすっぽりとおさまってしまう。
 触れた唇は、予想にたがわず、冷たかった。
 戸惑うようにゆっくりと、アルベルトの両腕が腰に回った。
 胸の間でネクタイをとき、シャツのボタンを外した。
 接吻は、時折途切れながら、また、すぐに元に戻る。柔らかく開いた唇に、誘い込まれるように、舌を差し込んだ。
 脱がせるつもりで、服を贈ったのではなかったけれど、それでも、おそらく服を贈ろうと決めた時には、無意識に、こんなことを想像していたのかもしれない。
 男と寝たことはないし、少年愛好の趣味---下衆どもの悪趣味---もない。
 それでも、自分が守ってきたこの少年には、抗えない何かがある。
 鉛色の右肩に、そっと口づけた。
 腕を失くして以来、誰とも躯を重ねたことのないはずのアルベルトの体は、少しばかりの激しさを込めて、グレートの胸に添い、無意識に欲情を誘う。
 そうするように仕込まれたのだろう、そんな仕草が、ふと、グレートの激情を煽った。
 そんなに、欲しかったのか。
 欲しいと思ったのは、自分だったはずなのに、いつの間にかグレートは、少年の、架空の多情さに、怒りにも似た感情を抱く。
 彼のせいではない。彼は、踏みつけにされただけだ。痛めつけられ、生き延びるために、にせものの媚びを、身につけざるを得なかっただけだ。
 彼のせいではない。
 それでも。
 許せない、とグレートは思った。
 誰に抱かれた? 誰に足を開いた? 誰を悦ばせた? 誰に何をした? どんなことを、どんなふうに。
 ネクタイを、首から抜き取り、アルベルトの体を、床の上で裏返した。
 真新しいネクタイは、結ばれていた跡をかすかに残していて、ねじれた線で、手の中からだらりと下がった。
 グレートは、唇を引き結んで、無表情だった。
 背中に、まとめて重ねた手首を、そのネクタイで縛り、そうなって初めて、アルベルトは何が起こるのか悟ったらしかった。
 横顔で、グレートを見上げ、驚きと、少しだけの怯えを見せて、肩を縮める。
 抱え上げ、剥き出しにした腰に、グレートは、理不尽な怒りをぶつけようとした。
 息を詰める音が聞こえ、苦痛を訴えて、床の上で体が揺れる。
 ろくに入り込みもしないうちに、縛られた手を、白くなるほど握りしめているのが見えた。
 「......Please, no......please......」
 かすれた声が、床から聞こえる。
 「逃げたりしない、だから、手を・・・・・・」
 切れ切れに、アルベルトが言った。
 躯を外して、ネクタイをといてやる。
 ようやく自由になった両腕を、胸の下に敷き込んで体を起こすと、アルベルトは、グレートの下に滑り込んで、床の上に仰向けになった。
 アルベルトの両腕が、グレートに向かって、伸びた。
 その腕の中に体を落とし、グレートは、抱き合いながら唇を重ねた。
 ろくに服も脱がないまま、床の上で、初めての交わりをする。
 同じ穴のムジナか。下衆野郎。
 自分のことを罵りながら、グレートは、アルベルトの手に導かれて、その中に入り込んだ。
 熱く狭く、皮膚の冷たさとは裏腹に、躯の内側は多弁に、グレートに囁きかけてくる。
 交わしたくても交わせない言葉の数々が、そこから聞こえた。
 包み込まれて、その熱に、グレートは負けた。
 少年の内側を征服しながら、征服されたのは自分の方だと、わかっている。
 怒りを込めて、少年を、いとしいと、思った。
 もう、自分以外の誰にも、指一本触れさせたくないと、心の底から思った。
 自分の掌に、またひと刷け、血の色が重なる幻想を見る。
 ひとり殺せば、あとは何人殺そうと同じことさ。
 まだ躯を繋げたまま、自分の怒りを消すために、グレートは、精一杯優しく、口づけた。
 アルベルトが喉を反らし、口づけを、もっと深くしようとする。
 それをなだめてから、ようやく躯を外し、グレートは、ふと思いついて、アルベルトの足首を取った。
 靴を履かない、足。爪先の素直な線が、アルベルトの過去とは逆に、ひどく無垢に見える。
 足裏に、そっと唇を寄せた。それから、甲に接吻して、小さな爪を、柔らかく噛んだ。
 床から、そんなグレートを、アルベルトはかすかに笑みを浮かべて、見ている。
 この無垢な爪先に似合うのは、かっちりとした黒の革靴だろうかと思いながら、からかうように動く爪先を、また噛んだ。
 まだ、半端に身にまとったままの藍色が、切り取られた闇のように見える。
 くたりと床に放り出されたネクタイは、まるで、切り取られて腐ってしまった、アルベルトの右腕のようだった。
 機械の指先が、ゆるゆるとグレートの方へ伸びてくる。それに向かって、唇を寄せる。


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