I'm Above #1



 暗い、湿った匂いのする廊下を通って、ひとりきりだった。
 夜遅く、こうして、会堂へ行って時間を過ごすことは、咎められることもなく、そういうものだと、いつの間にか、暗黙の了解になっていた。
 教会の中は、どこも、湿って冷え冷えとしていて、時折、ひどく寒々しいと感じることがある。
 神父服の長いすそを、静かにさばきながら、そうと意識もせずに、足音を忍ばせて、歩く。
 会堂に、祈りへゆくのが目的のはずなのに、その手に聖書はなく、ハインリヒはどこか思いつめたような表情で、薄い、色のない唇を引き結んで、前方を、かすかな上目使いでにらんでいる。
 暗い廊下の終わりに、重々しい、厚い木の扉があり、ハインリヒは、それを、静かに、けれど力を込めて押した。
 ドアの向こうは、祭壇のすぐ傍で、入ってきた側とは反対の橋に、パイプオルガンが置いてある。
 古い、年代物の石造りの教会は、建物内部の冷えと老朽化のせいで、あまり好かれているとは言い難かったけれど、その厚い壁のせいで、防音だけは保証されていた。
 薄暗いけれど、ものの形は見える。
 どうせ、周囲には、住む人もいるわけではなく、ハインリヒは、また足音を忍ばせて、パイプオルガンの方へ歩いて行った。
 艶光りする、赤みがかった茶色の木のベンチが、会堂の一番後ろの入り口まで、ずらりと並んでいる。見上げれば、首の痛くなるほど高い天井と、両脇の壁にはめ込まれた、ステンドグラス。どこから見ても教会だと、当たり前のことを、ハインリヒは思った。
 高い、首を締めつけそうな襟の内側に、差し入れた人差し指は、白い手袋に包まれている。もう片方の手は、剥き出しのままだ。
 慣れた仕草で、パイプオルガンの前に坐り、指を、鍵盤の上に、揃えて置いた。
 右手の手袋は、外さないまま、こっそりと、指を置くように、オルガンを弾き始める。
 素朴な音は、いつも心を慰めてくれた。耳に柔らかな、そのくせ平坦な、羊皮紙に、遠い遠い昔に手書きされた、かすれた文字を思い起こさせる、音。
 もう、手元を見る必要すらない、生まれてから数え切れないほど弾いてきた短い曲を、ハインリヒは、水色の瞳を閉じたまま、何度も弾いた。
 思い切り弾くことは、許されない。
 それは、自分のための演奏ではなく、神と、その神を信じて、ここに集まってくる者たちの、ためのものだったから。
 陶酔するための音楽ではなく、導くための音楽。けれど、時折、その音の中に、すっぽりと、独り占めできる心地よさの中に、ひたりきりたくて、こうして夜遅く、こっそりとひとりでここにやってくる。
 どこか、ぎこちない演奏ではあったけれど、時々、右手が、左手に追いつかずに、戸惑うように、鍵盤の上をさまようことがあったけれど、ハインリヒは、そんなことにはかまわない様子で、ゆるく体を揺らしながら、何度も同じ曲を弾いた。
 同じ曲の、同じ部分で、同じ間違いを続けて3度繰り返した後、ハインリヒは、唐突に、パイプオルガンを弾く手を止め、手袋の右手を、じっと見下ろした。
 ゆっくりと拳を作り、また広げ、その掌を、左手の指で撫でて、重くため息をこぼす。
 音に包まれて、高揚していた気分が、少しばかり、冷えてゆく。
 固い椅子から立ち上がり、ハインリヒは、パイプオルガンに背を向けて、ここへ入って来た厚い木の扉に向かって、重い足を前に出した。
 祭壇の真ん中にある、神父がそこから、集まった人に向けて説教をする説教壇で、ハインリヒは、足を止めた。
 ハインリヒが、そこから人たちを見下ろすのは、子ども相手の説教の時と、他の神父の代理の時だけだった。
 説教をする時のように、目の前に並んだ、今は空の木のベンチを、ゆっくりと端から見渡して、ハインリヒは、会堂の中の冷えた重い空気を、胸いっぱいに吸い込んだ。
 背後にある、キリストの像に、どうしてか振り向けず、瞳を動かして、その、人のものではない視線を痛いほど感じながら、説教壇の上に、じっと目を凝らす。
 瞳を閉じて、まるで、祈るように頭を垂れ、ハインリヒは、胸の前にかかったロザリオを、右手でそっと握りしめた。
 まるで、ハインリヒの瞳の色に合わせたような、華奢な鎖に通った淡い水色のガラスが、しゃらっと音を立てる。掌の中におさまる、けれど大きなクロスは、黒ずんだ銀色で、それは、ハインリヒの銀の髪の色とは、今はあまり似ていない。
 ハインリヒは、クロスを握りしめて、痛みに耐えるように、瞬きを繰り返した。
 ロザリオから手を離し、説教壇の下に、うずくまるように、膝を折る。
 ふわりと床に広がって、足元を隠した神父服の長い裾の、割れて開いた前から、膝の間に、そっと左手を滑り込ませる。
 説教壇の影に、体を隠して、背中を丸め、ハインリヒは、広げた左手を、そっと自分に触れさせた。
 もう、とっくに張りつめている。こんなことは、自分の部屋で、ドアを閉めて、こっそりと、自分の罪深さを恥じながらすべきなのだと知っていて、けれどどうしても、止められない。
 今は、人ではないキリストの視線を上から浴びながら、ハインリヒは、湿った息を吐き出した。
 柔らかみのない、あまり上等ではない布に包まれた、普段は、存在さえ忘れられている器官に、必死で掌をすりつける。
 半開きにした唇から、舌の先がこぼれ、舌を動かすたび、唾液が濡れた音を立てる。
 左手を、最初はゆっくりと、次第に動きを速めて、ハインリヒは、開いた膝に向かって腰を突き出すようにしながら、背中を反らし、あごを、高い天井に向かって突き上げた。
 はあはあと、殺した息が、けれど空っぽの会堂の中に、かすかに響く。
 ここにあるまじき、卑猥な物音だと思って、それに、さらに欲情してゆく。
 胸をあえがせて、肩を揺らしながら、左手の動きは、もう、隠しようもなく大胆になる。
 激しくこすり上げながら、布越しの焦れったさには、それでもかまわず、もっとと、自分の中にささやきながら、淫らな行為を、止める気はなかった。
 反らして、あえぐ胸の上を、ロザリオが、右へ左へ、動いてゆく。下目の視線に引っかかるそれを、あまり見たくはなくて、ハインリヒはまた、強く目を閉じた。
 押さえられずに、高くなる声を殺すために、ハインリヒは、手袋の右手の指を、唇の間に差し込んだ。
 ぎりぎりと噛みつきながら、顔を左右に振って、もっと激しく左手を動かす。
 知らずに揺れる腰で、体の重みを支えているかかとと爪先が、ひどく痛んだ。
 白い手袋は、たちまちあふれる唾液を吸って濡れ、今は指先だけでなく、指の第二関節まで、口の中に消えていた。
 握りしめるように、指先に力を込めて、いっそう強く、下からこすり上げて、動く手に押しつけるように、腰を振った。
 ぎりっと、歯列が、指に食い込む。
 唇と指のすき間から、弾けるような声が、こぼれた。
 弾けたのは、声だけではなく、ハインリヒは、まだ、左手を添えたままで、がっくりと肩を落とした。
 前のめりになった体を、説教壇で支え、その冷たい木に、うっすらと汗の浮いた額や頬をすりつける。
 唇から指を引き抜き、両手を、だらりと、体の脇に放り出す。
 説教壇の影に坐り込んだまま、生暖かさが気持ち悪く冷えてゆく下肢に、ぞわりと膚を粟立てながら、まだ動けずにいた、
 汚れた服のまま、自分の部屋に歩いて戻るのは、いやな気分なのだろうと思って、どうしてか、笑いがもれる。
 唾液に濡れて、汚れてしまった右手の手袋を、ハインリヒは、ふと見下ろした。
 濡れて張りついた指先は、その下の色を透けさせて、自分の吐き出した唾液を見て、ハインリヒは、耐えきれなくなったように、その指を握り込んで拳をつくる。
 濡れた指先は、肌色ではなく、暗い灰色だった。
 右手を握ったまま、左手を説教壇にかけて、ハインリヒは、ようやくのろのろと立ち上がった。
 神父服の裾を直し、埃を払い、高い襟と肩を正して、精いっぱい、胸を張るように背筋を伸ばす。
 これから出てゆく扉を凝視して、それから、視線をそらさないまま、手探りで、胸元のロザリオを、また握った。
 しゃらっと、鎖が立てた音を聞きながら、おそるおそる、左側を、斜めに見上げる。
 磔にされたキリストが、開いているのかどうかよくわからない目元で、ハインリヒを見下ろしていた。
 ロザリオを握ったまま、恥じるように、キリストから目を反らし、また見上げて、ハインリヒは震える唇でつぶやいた。
 「・・・主よ、お許し下さい。」
 粗末な革靴の爪先を、滑るように、前に出した。
 自分の罪深さに、押し潰されそうになりながら、かろうじて背筋は伸ばしたまま、ハインリヒは、視線を動かさずに、木の扉に向かって、歩いて行った。


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