I'm Above #2



 また、夜がやって来る。
 ロザリオを握りしめて、自分の胸元を見下ろして、よそうと思う端から、喉の奥に、熱い塊りがせり上がってくる。
 心が騒いでいる。
 ざわざわと、自分の中で、音がする。
 その、波打つ音は、次第に大きくなって、ゆっくりと体を、内側から、揺さぶり始める。
 静めなければと、思った。
 そのためには、会堂へ行って、パイプオルガンを弾くのが、いちばんいい。
 ハインリヒは、ロザリオをもう一度握りしめて、それから、左手で、右の二の腕に触れた。
 パイプオルガンは、単なる口実なのだと、心の中で聞こえる声に耳をふさいで、ハインリヒは、静かに部屋を出た。


 会堂は、しんと静まり返っていて、沈黙は重く冷たく、ハインリヒを、咎めているように思えた。
 罪悪感が、喉元にこみ上げる。それでも、足を止めずに、ゆっくりと、パイルオルガンの前へ歩いて行った。
 何も変わってはいない。まだ、天罰は下っていない。
 あんな、恐ろしい、罪深いことをしてしまったというのに、日常はいつも通りに流れ、向けられるにこやかな笑顔も、それに応える穏やかな言葉も、まるで、ハインリヒの行いなど、起こらなかったかのように、何もかもが、変わらなさすぎるほど変わらずに、ハインリヒの傍を通りすぎてゆく。
 あれは、夢だったのだろうかと、ハインリヒは思った。
 パイプオルガンに触れ、固い椅子に腰を下ろして、右手を、鍵盤に乗せた。
 ただの音が、たん、と響き、ハインリヒは、ぞくっと背中を震わせる。
 ぱらりと、音を流した。けれど、どうしても、曲へ入る気にはならず、いつもなら、一瞬にして、隔絶した世界へ連れて行ってくれるはずの、素朴な音が、今日は、よけいに、躯の内側の熱をあおるだけだった。
 指が、動かない。鍵盤に指を押しつけたまま、ハインリヒは、左手をまた、膝で割れた、神父服の長い裾の奥に、滑り込ませた。
 どくりと、心臓が鳴る。
 体が、左に揺れた。ロザリオが、神父服にすれて、じゃっと小さな音を立てる。
 椅子から転げ落ちるように、床にうずくまると、体を支えようとして、右手が、パイプオルガンの鍵盤を強く押さえる。
 醜い音が、響いた。
 その音の響きが、まるで今の自分の姿そのもののような気がして、ハインリヒは、声を上げて、あえいだ。
 もう、隠す羞じらいも、罪深さへのおののきも忘れて、左手を、激しく使った。
 パイプオルガンにもたれ、額が鍵盤に当たり、また、音を立てる。
 音の響きが、皮膚の表面を騒めかせた。
 背中を波打たせ、腰を揺らして、左手の動きだけに、神経を集中させる。
 張りつめている熱に、掌を当てて、淫らに、体の重みを移動させる。
 足りないと、口を開けて、天井に向かって、大きくあえいだ。
 もっと、欲しい。こんなやり方ではなく、もっと、直に、触れたい。
 布越しの自慰は、焦れったさを通り越して、苦痛になり始めていた。
 昂ぶることは許されても、それを解放することは許されない。それこそが罰なのだろうかと思って、そう思った自分を、胸の奥で嗤った。
 それでも、必死に左手を動かして、自分を追いつめるために、こすり上げる。
 声がもれて、また、もがいた右手が、鍵盤を押した。
 その時。
 気配が、背中に触れた。
 薄い空気の膜が、揺れる背中を包んだ。
 ぎょっとなって、思わず左手の動きを止めて、薄闇の中、背後に振り返る。
 青白い、かすかな光にふち取られた、背高い姿があった。
 不敵に笑う口元は、ねじくれていて、高い鼻筋は、闇よりも濃い影を頬に落とし、長い、色の濃い赤い髪の奥で、瞳が、きらりと光った。
 蛇ににらまれた蛙のように、身動きできず、その瞳の光に射抜かれて、ハインリヒは、不様なまま、その輪郭を見やっていた。
 ねじくれた口元が、さらにつり上がって、くっと、笑い声をもらした。
 見られていたのだと、悟って、恥ずかしさに頬を染めるよりも先に、これから受けるだろう罰に、ハインリヒは震え上がる。
 教会を追い出される。恥知らずにも、神聖な会堂で、淫猥な行為に耽っていたのだと、一生後ろ指を差される。
 神父服を剥ぎ取られた、惨めで平凡な自分の姿を想像して、ハインリヒは、許しを乞うように、絶望の視線を、目の前の男に注いだ。
 薄闇に浮かんだ男の顔は、存外若く、その、凍りつくような、冷たい笑みに、ハインリヒは、ぞっと背筋を震わせる。
 男は、ゆっくりと、ハインリヒの方へ近づいてきた。
 足音がしない。底の厚そうな、がっしりとした靴を履いているのが見えたけれど、足音は、ことりともしない。
 しなやかに動く手足が、猫を思わせた。
 男は、ハインリヒに向かって、膝を折りながら、その長い腕を伸ばしてきた。
 ごわごわとした、神父服の厚い布越しに、男の腕が、胸や背中に絡みつく。抱きすくめられて、耳元に、男の息がかかった。
 「・・・手伝ってやるよ。」
 その、ささやく声に、ハインリヒは、背骨が溶けてしまうような、そんな気がした。
 開いたままの膝に、男の手が触れる。抗う間もなく、さっき、ハインリヒが触れていた場所を、男の大きな手が覆った。
 喉を反らして、殺す前に、声がもれた。
 胸の前に回った男の腕に、思わず、しがみつくように、手を触れる。けれど、右手は、ロザリオを握りしめて、それが、精いっぱいの抵抗だった。
 男の手は、何のためらいもなく、神父服のもっと奥へ侵入し、開いて、指が、滑り込んだ。
 自分を抱く、長い腕の中で、肩を揺らす。抗うように、体をねじり、けれど脚は、もっと開いてゆく。
 知らずに、男の手の動きを誘うように、脚を開いて、腰を揺すっていた。
 生まれて初めて、他人の掌の暖かさに、己れの、脆弱な部分を、ゆだねていた。
 男の手と指が、ハインリヒの知らない動き方をする。
 不器用に動く、ハインリヒの左手とは、似ても似つかない動きと速さで、男は、焦れる間さえ与えずに、ハインリヒを追いつめてゆく。
 頭上の、空と同じほど高い天井に、ハインリヒは、喉を伸ばして、視線を投げた。
 目は潤み、視界は、ゆらゆらと揺れていた。
 声を上げると、男が、耳朶を噛んだ。舌先を差し込まれ、また、声が高くなる。
 「気持ちいいか?」
 男が、意地悪い声音で訊いた。
 それに、正直に答えることはできず、けれど男が触れている躯は、言葉よりも素直に、男の問いに応えている。
 ロザリオを握りしめていた右手は、いつの間にか、男の腕に添えられ、まるで、男を抱き返すように、両腕で、男にしがみついていた。
 躯の内側に押し寄せる、波にさらわれそうになりながら、ハインリヒは、半開きの唇から、声と唾液を垂れ流し、男の手に包まれて、もっとと、ねだるように、知らずに舌先をうごめかす。
 ハインリヒの濡れた唇を、男の生暖かい舌が、ぺろりと舐めた。
 男の指先が、卑猥に動いて、ハインリヒを追いつめた。
 讃美歌を歌う時のように、大きく開いた喉の奥で、熱が弾けた。
 胸をあえがせて、男の腕の中に、くたりと溶けた体を預け、ハインリヒは、自分に触れている男の掌を、もっと欲しいと思った。
 思って、それが、どんなに罪深い考えかと思い当たって、必死の思いで、男の腕から逃れ出る。
 床を這うようにして、男から離れると、前を開いたままの、神父服の乱れを、慌てて右腕の影に隠した。
 まだ、火照ったままの躯を、それでも、現実に引き戻しながら、床にしゃがみ込んだ男を、激しい怒りでにらみつけた。
 怒りではなく、自分自身に対する羞恥だと気づくのは、もう少し後だったけれど。
 男が、また、ふてぶてしくにやりと唇を歪めると、ゆっくりと立ち上がりながら、ハインリヒのために汚れた手を、見せつけるように、ぺろりと舐めた。
 罪深さなど、毛ほども感じていないらしい男の態度に、ハインリヒは、もっと羞恥を誘われ、それゆえに、怒りに頬を歪めて、身内からこみ上げるその感情の激しさに、泣き出しそうになっていた。
 男から、身を守るために、また、右手でロザリオを握りしめる。
 男の唇がねじれ、馬鹿にしたような小さな嗤いが、喉の奥から聞こえた。
 「・・・おまえは、誰だ。」
 信者に、語りかけるために鍛えたはずの声が、かすれた。
 「アンタが、呼んだんだぜ。」
 おかしそうに、男が言った。
 男は、くつくつと笑いながら、足元からぼやけてゆく輪郭を、薄闇の中に、ゆっくりと溶け込ませて行った。
 「・・・また、楽しませてやるよ。」
 闇の中に消えてゆく男を、呆然と見送りながら、ハインリヒは、すっかり乾いた舌を上あごに張りつかせ、まるで、男を引き止めるように、右手を、宙に泳がせた。
 裾を乱した神父服のままで、床に坐り込み、ハインリヒは、いつまでも、暗い会堂の中に、消え失せてしまった男の気配を、追い駆けていた。


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