I'm Above #3
嗤う声が聞こえた。
周りを見回しても、声の主は見つからず、そうして、その声が、頭の中に聞こえるのだと気づいた。
その、ぞっとするような悪意に満ちた---自分に対しての悪意ではないのだと、なぜだかわかる---嗤い声が、何度も何度も、頭の中に聞こえて、ハインリヒは、そのたび、耳を塞いだ。
耳に触れる両手の感触に、男の息と、掌の暖かさを思い出す。
背骨の奥が、しびれるような欲情がわき上がって、ハインリヒは、こっそりとため息をこぼしていた。
触れたい、触れられたいのだと、そう自覚して、また自分の罪深さに、ひとりでおののく。
あの男は、一体誰なのだろう。見たこともない顔だったと思いながら、同時に、あの男が、自分が行った不埒な行為を、誰かに告げ口するのではないかと、疑心暗鬼に陥っていた。
他人の視線に、針を感じて、もしや、もうばれているのだろうかと、怯える。それでも、誰も何も言わないのを、今度は、ひどく楽観的に考えようとする自分がいる。
気が狂いそうだと、ハインリヒは思った。
右手で、じゃらっとロザリオをつかむ。すがるように、体を軽く前に倒して、肩を震わせた。
信仰は、ハインリヒの頭につまった、穢らわしい思いを、救ってはくれないように思えた。
「神よ・・・」
心にもなく、けれど単なる反射で、唇を動かす。
そうして、ロザリオを握ったまま、左手で、胸の前で十字を切った。
また、声がした。
来いよと、声は言った。
どこへと、問い返す必要はなく、ハインリヒは、それを知っていた。
ひざまづいた、目の前の床に、じっと目を凝らして、それから、心の底から祈るように、固く目を閉じた。
祈りが必要だ。
救われるために、祈らなければならない。
そのために。
会堂へゆかなければ。
自分を、ひどい偽善者だと、生まれて初めて自覚しながら、ハインリヒはゆっくりと立ち上がった。
言い訳を、虚しく胸の中で繰り返しながら、音も立てずに、ドアの方へ歩いて行った。
木の扉を押す手が、震えていた。
数瞬ためらって、それから、ぎいっと扉を押した。
会堂は、もちろん薄暗い。目指す人影を見つけるために、ハインリヒは、開いた扉の中に身を滑り込ませ、そっと扉を閉めた。
気配があった。
そちらに、首を振るように顔を振り向けると、空の木のベンチの、最前列から3番目の辺りの、ベンチの間の通路---結婚式があれば、バージンロードと呼ばれる---に、そこだけ闇がひときわ濃くなった後、影が、すうっと人の形をつくった。
ハインリヒは、無意識に、また左手でロザリオを握りしめていた。
闇色の濃い人影に、目を凝らすうちに、それがはっきりと人の姿になり、白い膚が、ぼうっとかすんで闇に浮くと、顔をこちらに振り向けて、またにいっと唇を歪ませた男が、立っていた。
邪悪なものなのだと、直感して、足が前に出た。
ロザリオを、痛いほど手の中に握りしめたまま、男の方へ歩いて行った。
吸い寄せられるように、気がつくと、そのひょろ高い体の前に、唇を震わせながら立っている。
男は、邪悪な笑みを消さないまま、下卑た仕草で、肩を揺すってみせる。
また、体が硬直した。
「おまえは、誰だ。」
強い、鋭い声で、問うた。
精一杯の気力で、ややあごを上げて、男をにらみつける。
男は、そんなものにひるむこともなく、馬鹿にしたように、また唇の端を吊り上げ、傲慢さを剥き出しに、ハインリヒの耳元に、唇を寄せた。
暖かな息が、かかる。
「悪魔だ。」
思わず引いた肩の後ろで、ぞわりと、膚に粟が立った。
「悪魔?」
思わず、怯えの混じった声で、問い返す。
「ああ、そうだ、悪魔だ。」
嘲笑の混じった声音で、男が繰り返した。
不意に、長い腕が伸びて、ハインリヒを胸の中にとらえる。もがいて逃げようとしても、体がすくんで動かなかった。
より近くなった、男の顔に視線を当て、淡い緑の瞳の色を、薄闇の中でようやく見分けると、その中に映る、小さな自分の、頼りない姿を見つけた。
悪魔だと名乗った男は、また唇をひずませて、その唇を、そっとハインリヒの頬に近づけた。
触れはしない。腕は背中に回っていたけれど、紙一重で、胸の触れ合わない距離を保ったまま、男は、唇を、同じ距離に近づけて、生暖かな呼吸で、ハインリヒの、緊張で固く張った皮膚を、ゆっくりと撫ぜてゆく。
男が、そうして呼吸で、ハインリヒをなぶる端から、凍りついた体が解け、身内の、どこか深いところから、あふれるように、欲情がわき起こる。
ハインリヒは、悪魔と名乗ったこの男を、自分が求めているのを悟った。
薄く染まった目元と、上気した頬が熱く、熱のせいで潤んだ水色の瞳で、そうとは知らずに、媚を含めて、男を見つめる。
男の腕が、背中から外れた。
失望を示そうと、男を見上げた途端、乱暴に、肩を突き飛ばされた。
真後ろにあったベンチに、よろけながら腰を下ろすと、慌てて体を支えるために、右手をベンチの背にかける。
男が、そんなハインリヒに、1歩近づいた。
「見せろ。」
下目に見下ろす、緑色の瞳は、ぞっとするほど冷たく、今は笑みを消して、威圧だけが表情だった。
ハインリヒは、怯えていた。
言われた通りにしなければ、何が起こるかわからないと思った。
そしてそれが、単なる口実なのだと、知っていた。
右手で体を支えたまま、脚を開いて、左手を、腿の奥に添えた。
腰を突き出すようにしながら、ごわごわとした布越しに、こすり上げた。
闇の中でも、男には、この淫らな姿がはっきりと見えるのだろうかと思いながら、もっと足を開いて、上目に男を見た。
「じかにさわれ。」
それは、逆らうことの出来ない命令のように聞こえ、その動く唇を、ハインリヒはうっとりと眺めた。
形だけ、抵抗を示すために、そんなことはさせないでくれと、哀願の表情をつくる。
男は繰り返さずに、ただ、冷たくハインリヒを見つめて、瞳の光で、ハインリヒを圧倒した。
あきらめたように---振りだけだったけれど---、左手で、神父服の長い裾を割り開き、前を開けて、男の反応をうかがいながら、掌に取り出した。
自分の一部だと、信じられない、形を変えたその器官を、ハインリヒは見下ろして、また哀願の表情を男に向けると、男が、一向に気持ちを変えないのを確かめてから、ゆっくりとこすり上げ始めた。
不器用に、不様に、行き着こうとする。
左手ではうまくやれず、自分にじかにさわるのも好きではない。けれど今は、触れているのは掌だけではなく、男の視線も、ハインリヒの体中を這い回っていた。
手の動きは、いつものように焦れったく、うまく強弱をつけられずに、もどかしさが募るばかりなはずなのに、今日は、そんなもどかしさを乗り越えて、経験したことのない昂ぶりを、手の中に感じていた。
男の視線が、その熱い敏感な、張りつめた皮膚を這う。指先や掌よりも、もっと熱く、もっとしなやかに、もっと鋭く、ハインリヒを侵している。
知らないうちに、軽く開いた唇の間で、舌先が、ぬめぬめと動いていた。
荒くなる息が、少しずつ大きくなる。あえぎ声は、まったくこの場にふさわしくなく、いつもなら、説教と讃美歌の響き渡る、気の遠くなるほど高い天井に、ハインリヒの、猥褻な行いで乱れる呼吸が、浮き上がっては反響して、会堂の、冷たく重い空気を、生暖かく、いっそう重くする。
祭壇から、自分の痴態を見守るキリストの像の視線をも感じながら、目の前の男の、突き刺すような視線に晒されて、励まされるように、必死で手を動かした。
熱さと硬さと大きさが増し、掌の中で、まるで別のいきもののようにうごめく器官を、逃げ出さないように扱いながら、ハインリヒは、乾いた唇を、濡れた舌で舐めた。
爆発の音が、どこかで聞こえた。
背骨が割れるような、そんな衝撃が、一瞬のうちに訪れ、頭の中が白くなった瞬間に、手の中が熱く弾けた。
終わったのだと思って、自分の淫らな姿は、男を満足させたのだろうかと、不安になる。
汚れた左手と神父服と、自分の罪の証を見下ろして、ハインリヒは、また荒く息をついた。
男が、ハインリヒの前に、膝を折った。
開いた脚の間から顔を覗かせ、神父服の膝を撫でながら、ハインリヒの汚れた左手を取る。
どうするのだろうかと思っていると、中指を軽く噛んで、唇で挟みながら、舌が、濡れた指を舐めた。
卑猥な口元に、視線を釘付けにして、また、躯の奥が熱くなるのを感じる。
ハインリヒの左手の指を、まるできれいにするように、1本1本舐めながら、左腕を伸ばして、ハインリヒの右腕に触れた。
びくりと、肩が硬張る。
男は、そんなことには気づかない様子で、指を舐め続けていた。
左手が、ハインリヒの右腕を上下する。神父服のその下の、尋常でない感触に、男が気づいただろうかと、ハインリヒは不安になる。
そんなハインリヒの心配をよそに、男はハインリヒの左手を唇から外すと、その濡れた唇を、今度は、まだ昂ぶりを失っていないハインリヒの、剥き出しの器官に触れさせた。
思わず、声が高くもれた。
暖かな粘膜に包まれて、それだけで、全身が溶けてしまいそうになる。
男が、あっさりと唇を外して、ハインリヒを見上げた。
「神父さま?」
揶揄するように、唇が、今は聞きたくもない言葉を形づくる。
唇がまた、触れた。
男の頭を、自分の方へ引き寄せるように、ハインリヒは、その耳元に、両手を添えて、喉を反らした。
胸元で、ロザリオが動いて、しゃらりと音を立てた。
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