I'm Above #4



 夜になり、また悪魔がやってくる。
 悪魔だと名乗ったあの男は、ハインリヒがどこへいても、気配を残す。
 窓の外に、柱の影に、天井から、どこからも、常に、あの、刺すような、嘲るような視線を感じる。
 ふと、赤い人影をとらえると、よくは見えない顔が、にやっと笑う。瞳が、淡い緑に燃え上がる。
 邪悪を、確かにふりまいているのに、どうしてか、それを、完全な恐れではなく、何かまた、別の感情で、眺めている。
 ロザリオを握りしめ、つい、そちらへ向かいそうになる足を、必死で止める。
 他の誰にも、見えないらしいその人影は、また、ハインリヒを嘲るように、嗤う。
 神父さまと、唇が、呼んだ。
 打たれたように、肩と頬を硬張らせ、その場に立ち尽くした。
 それから人影は、まるで空気に溶け込むように、すうっと消えた。
 夜の気配の中から、闇を集めて煮つめたように、一際濃い漆黒が、人の形に浮かび上がる。まるで、体にまとった、黒い皮膚を剥くように、足元から徐々に、その姿が現れる。
 厚い靴底の、重たそうなブーツ。神など信じているとも思えない、殺し合いしか頭にない若者たちと、似たような姿で、ひょろりとした長身が、ゆっくりと闇の中に現れる。白い顔と、真っ赤な、逆立った髪が、闇の中に鮮やかだった。
 口元は、相変わらず邪悪に歪んだまま、昼間、うっすらと見かけた姿と寸分変わらずに、悪魔が、現れた。
 ドアには、内側から鍵がかかっている。ここは、ハインリヒの私室だ。ドアが開いた気配もなく、空気さえ揺らさずに、悪魔は突然現れる。
 現れると知っていたから、驚きはしなかった。
 いや、違う。
 待っていたのだと、そう思って、ハインリヒは唇を噛んだ。
 「ご機嫌、うるわしく、神父さま。」
 冷やかすような口調で、彼は言った。
 ハインリヒは、いつも無意識にそうするように、胸の前のロザリオを握った。
 「悪魔につきまとわれて、気分の良いわけが、ないだろう。」
 精一杯、苦々しげにそう言ってやると、悪魔の口元が、嘲りにつり上がる。
 「つきまとう?」
 一瞬のうちに、悪魔の姿が、目の前に立っていた。白い手袋に包まれた右手を取られ、肩の高さにひねり上げられて、避けようとねじった体の痛みに軽くうめくと、下目に、恐ろしいほど悪意に満ちた瞳が、ハインリヒを見下ろしていた。
 触れられたくない右手に触れられ、それを振り払おうと、肩を動かすけれど、悪魔は、びくともせずに、ハインリヒを、片手だけで押さえ込んでいた。
 「教えてやろうか。」
 まだ、見苦しく抗っているハインリヒに向かって、低く、悪魔が言った。
 ささやくようなその声は、誘うように、甘く響いた。聞いてはいけないことだと、とっさに悟りながら、まるで促すように、先を乞うように、あごを引いて、彼を見上げていた。
 「悪魔は、外に存在するんじゃない。オレたちは、アンタたちの内側にいるんだ。」
 長い指先が、まるで突き刺すように、ハインリヒの胸元を突いた。
 ロザリオを握った掌が、汗ばんで、突かれた胸の痛み---それほど強く突かれたわけではないのに---に、全身が揺れる。
 がたがたと、膝が、恐怖---なのだろうか---に震えていた。
 「オレを呼んだのは、アンタだ、神父さま。」
 とどめを刺すように、唇を、どうしてか優しげにゆるめて、悪魔が言った。
 「オレに姿を与えたのは、アンタだ。」
 何か、恐ろしいことを告げられているのだと、それだけはわかる。
 聞いてはいけないこと、知ってはいけないこと、自覚することは、許されないこと。そのすべてが、今、人の形をして、目の前に在る。
 ロザリオを、痛いほど握りしめていた左手を、男がなだめるように撫でて、指を解いた。
 そのまま左手を取られ、まるで磔にされたような形に、持ち上げられた腕を、強く握り込まれた。
 ハインリヒを見下ろして、邪悪さに満ちたその瞳に、一瞬、切なさが走る。
 その色を、見間違いかとまた見直そうとして、計らずに、見つめ合うことになる。
 悪魔の唇が、まるで、念を押すように、ゆっくりと言葉を紡いだ。
 「オレが、欲しいか?」
 瞳を、左右に泳がせて、ハインリヒは絶句した。首筋から、ざあっと血が上がる。怒りに似た何かが、喉元からせり上がって来て、侮辱されたのだと、やっと頭が理解する。
 けれどそれは、侮辱のための怒りではなく、図星を指されたゆえの、羞恥なのだと、脳の片隅は理解していた。
 答えられずに、ハインリヒは、半開きの唇のまま、悪魔を見上げていた。答えないことは、つまり肯定していることだと、気づかないまま、その緑の瞳から、視線を外せない。
 引き上げていたハインリヒの両腕を、男は、そのまま、拘束するように、背中に回した。
 腕ごと抱き寄せて、抗うハインリヒを、胸の中にしっかり取り込んだまま、すりつけるように、腰を押しつけてくる。
 「オレが、欲しいか?」
 そこから、熱が伝わってくる。
 男の肩にあごを乗せて、ハインリヒは、体を硬張らせた。
 熱は、伝わってくるだけではなく、ハインリヒからも、男へ、伝わっていた。
 恐怖は、悪魔だと名乗る男の、邪悪さに対するものではなかった。その邪悪さに、嬉々として屈服したがっている、暴かれてしまった、自分の欲望のためだった。
 吹き上げるように、背骨の底から、その欲望があふれ、男と自分の胸の間で、はさまれて、その形を胸に食い込ませているロザリオを、痛みの存在として、感じた。
 屈服したのではない、させられたのだと、この期に及んで言い訳しながら、男の肩の上で、ハインリヒは、こくりとうなずいた。
 男の手が、ハインリヒの両腕を、背中から解放して、戸惑う肩を、床に向かって強く押した。
 床にひざまずけと言われているのだと悟って、おとなしく膝を折る。床に、長い神父服の裾が広がった。
 まるで、祈るような姿勢で、目の前に、大きく立ちはだかる男を、期待に潤んだ瞳で見上げる。
 男の指が頬を撫で、唇を割り、きれいに並んだ歯列に触れた。その指を、求められもしないまま、誘い込み、舌で舐めた。
 上気した頬と目元を、蔑まれているだろうと思いながら、その思いにまた、背骨の底がうずく。
 男の手に、両手を添えて、従順に、指を舐めた。
 「それでいい。」
 静かに言って、手を引き、それから、悪魔は、ハインリヒに向かって、差し出してやった。
 片手を添えて、よく見えるように、ハインリヒの目の前に、晒した。
 瞳を大きく見開いて、驚きながら、けれどそこから目を離せず、男が求めているものを想像して、まさかと、必死に否定する。
 したくないからではなく、できるかどうか、わからなかったので。
 男はそのまま動かずに、ハインリヒを無言で見下ろしていた。
 おずおずと、左手で、男に触れる。触れて、その熱さに驚きながら、目を閉じて、そっと唇を開いた。
 自分が何をしているのか、よくわからなかった。どうしていいのかも、わからなかった。ただ夢中で、舌の上の張りつめた皮膚を、食むように、自分の唾液で濡らし続ける。
 男は、ハインリヒの稚拙さを咎めることもなく、恐ろしいほど静かに、その揺れる銀髪を見下ろしていた。
 ほんのかすかに、形を変え続けるその熱を、唇と舌で測りながら、ハインリヒは、床についた膝の間に、こっそりと右手を滑り込ませた。
 手袋をした右手で、じかに触れる気はなく、ごわごわとした布越しに、男と同じほど張りつめている熱を、飼う。
 こすり上げると、自然に腰が揺れた。
 自分がどれほど、淫らな姿をしているか、もう、知覚する神経すらなく、ただ、身内から吹き上がる欲望のままに、頭を振り、右手を使う。男に、すべてを見下ろされているのだと思って、けれど羞恥は、欲望をあおるだけだった。
 右手の動きを早めて、濡れた舌を動かす音の合間に、小さく声が、こぼれ始めて、それから男の手が、肩を後ろに押した。
 男が離れ、唾液が、糸を引いて、唇の端からこぼれた。
 まだ途中だと、驚いて、けれどぼんやりと見上げると、男の指が、濡れた、もの欲しげに半開きのままの唇を、そっと撫でる。
 「それでいい。」
 また、男が言った。言って、あの邪悪な笑みを、口元に刷いた。
 途端に、今起こったことを、すべて脳裏に思い浮かべて、ハインリヒは恐怖に凍りついた。
 重ねる罪は、少しずつ、確実に、重くなっている。
 誘われて、そそのかされて、けれど、堕ちることを望んでいるのは、他でもない自分なのだという事実が、ハインリヒを打ちのめした。
 まだ、熱にうずいている体と、冷えた胸の内と、けれど背骨の底は、溶けるように沸騰している。
 混乱して、思わず、涙があふれた。
 ロザリオを、握りしめることも忘れて、男を見上げて、ハインリヒは泣いていた。
 悪魔は、その濡れた頬に手を伸ばすことはせず、表情を消して、静かに言った。まるで、諭すように。
 「オレは、アンタのために、存在する。アンタがいるから存在する。オレは、アンタの欲望だ。」
 言葉の終わりと同時に、男の姿が、足元から消え始める。
 呆然とそれを眺めて、体を伸ばした男の姿が、半分になった頃、ハインリヒはようやく叫んだ。
 「行かないでくれ!」
 悪魔は、いつもの笑顔すら浮かべずに、闇の中へまた溶けてゆく。
 それに向かって手を伸ばしながら、指先は、虚空をつかむだけだった。
 「オレが欲しいか?」
 顔だけ、闇に浮かんで、悪魔が言った。
 涙は止まっていたけれど、まだ濡れた頬のままで、ハインリヒは、悲鳴のように、それに答えた。
 「欲しい。」
 悪魔の唇が、優しげに歪んで、慈愛に満ちた視線---そんなばかげたことが、あるはずもないのに---で、ハインリヒを見つめた。
 「それでいい。」
 声とともに、悪魔は消え、取り残されたハインリヒは、打ちつけるように床に体を投げ出した。
 その拍子に、床を打ったロザリオが、かちんと音を立てる。その音を聞いて、ハインリヒはまた泣いた。
 闇の中に、ひとりだった。


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