I'm Above #5
昼間は、必死で、以前のままの自分を取りつくろう。
敬虔なクリスチャン、心優しい、常に微笑みを絶やすことのない、神父、清らかな心で、聖人を目指す---ただの理想だとはしても---、男である前に、神に仕える者である、人間。
うそつきめと、自分を、腹の底で罵りながら、夜の訪れを待つ。
夜になれば、ほんとうの自分を、ほんの少し、解放することができるから。
引き裂かれている自分がいる。清浄な自分と、堕落した自分と、どちらがどれだけ大きいのか、もうわからなくなっていた。
悪魔は、毎晩やって来る。闇の中から現れ、闇の中へ消える。
触れて、晒させて、醜悪な姿を、もっと引き出して、去ってゆく。
それを、心待ちにしている自分がいた。
もっと堕としてくれと、もっと、貶めてくれと、その手で、その指で、その視線で、辱めて、嬲ってくれと、どこかで、小さな小さな声が聞こえる。
それは、神には届かない声だ。
悪魔へ捧げられる、祈りだった。
また夜がやってくる。
闇を求めて、会堂へ足を向けた。
悪魔は、祭壇へ上がる、いくつかの段差に、腰を下ろしていた。
長い足を持て余すように、膝下を伸ばしてはまた引き寄せ、まるで、そうして退屈を殺しているのだというように見えた。
会堂へ、音を消して滑り込んで来たハインリヒに、にやりと笑いかけ、そして、その長い腕を伸ばす。
いつものくせで、ハインリヒは、意味もなくロザリオを握りしめた。
悪魔の方へ、引き寄せられるように、足を前へ出す。神父服の長い裾が、かすかに音を立てる。
悪魔は、傍へやって来たハインリヒを見上げて、自分の左側を、軽く叩いた。
坐れと言われているのだと悟って、まだロザリオを握りしめたまま、おそるおそる腰を下ろす。
悪魔の顔が、呼吸の音が聞こえそうな近くにあった。
横目で、薄闇の中、その白い貌を、こっそり盗み見る。
高い鼻、色鮮やかな、厚い唇、淡い緑の瞳は、油断すれば、すうっと吸い込まれそうな光を放っている。
そう言えば、こんなことを繰り返しながら、まだ接吻さえ交わしたことはないのだと、不意に気づく。
だから何なのだと、自分で思って、ハインリヒは思わず頬を染めた。
顔を伏せた横顔を、悪魔が、凝視している。横顔の線をたどり、高い襟の中に消えた喉の線をなぞり、胸元へ、熱のこもった視線が落ちてゆく。
皮膚が、ちりちりと焦げるような気がした。
悪魔が、腕を伸ばしてくる。
少しだけ唇を、不機嫌そうに歪めて、ロザリオを握りしめているハインリヒの左手を、両手で解いた。
やはり、悪魔には目障りなのだろうかと思って、もう少しで、今度は外してくるからと、口が滑りそうになる。
慌てて唇を引きしめると、悪魔が、こちらの心を読んだように、にやりと笑った。
ハインリヒを正面から見つめて、視線を逸らさないまま、悪魔は、ハインリヒの右手に触れた。
はっと、肩が硬くなる。
何度も触れられている。今さらと思って、耐えた。
右手が持ち上げられ、悪魔は、白い手袋の上から、掌にそっと唇を寄せた。
刹那、躯の奥底がしびれて、ハインリヒは、思わず深く息を吐いた。
悪魔が、右手をハインリヒに返しながら、低く言った。
「取れ。」
右手の手袋のことを言っているのだと、悟るのに、一瞬かかる。
なぜ、この手を晒さなければならないのか、わからなかった。悪魔が、何をさせようとしているのか、わからないまま、ハインリヒは驚くほど素直に、手袋に指をかけた。
闇の中では、あまりよくは見えないだろうと、自分に言い聞かせながら、剥ぎ取った手袋は、考える間もなく、悪魔に取り上げられる。
そこに現れたのは、鉛色に鈍く光る、手の形をした、金属だった。
悪魔は、それを見ても、眉ひとつ動かさず、手と、ハインリヒを交互に見てから、いきなり、取り上げた手袋を、空のベンチの並んだ通路へ、手を振り上げて、放り投げた。
薄い布でできたそれは、ふわりと白く舞いながら、思ったよりも遠くへ飛び、ひらひらと床に落ちる。
それを目で追って、ハインリヒは、驚きと怯えに、肩を硬張らせた。
悪魔は、すくい上げるようにハインリヒを見つめ、恐ろしい形相で、低く言った。
「あれが、必要か?」
何を言われているのかわからず、ハインリヒは頬を引きつらせて---悪魔を、恐ろしいと感じていた---、思わず後ろに体を引く。
「欲しいなら、取って来い。」
何かを、試そうとしている。あれは、ただの手袋ではないのだ。悪魔にとっても、ハインリヒにとっても。
床に落ちた、白い影を見やって、ハインリヒは、背中に冷たい汗が伝うのを感じた。
自分を見つめる悪魔から、顔を伏せて視線を外し、ようやく、言葉を舌に乗せた。
「・・・いや、今はいらない。」
正しい答えだったのか、悪魔が、にやっと笑う。
それから、背高い体が、ひょろりと立ち上がった。
自分を見上げたハインリヒに向かって、また長い腕を伸ばす。その手に向かって、左手を伸ばそうとした時、ぱちんと、胸の前で、何かが弾けた。
神父服の右側が、いきなり裂けて、胸と肩が剥き出しになる。左手を伸ばして、体を隠そうとしても、腕が動かない。
悪魔の仕業だ。
祭壇の前で、またさらに、神父服が裂けた。
晒すように、右腕の布が弾け、今、ハインリヒは半裸でいた。
右肩と右腕は、その掌と同じ色で、同じ金属のように見える。
普通ではない、体。醜い、完全ではない体。だからこそ、神の救いが必要だった。
悪魔の前に、その姿を晒して、ハインリヒはまだ動けずにいる。
悪魔が、指先を軽く振った。
ぎりっと音がして、鉛色の右肩が、勝手に揺れ始める。右腕がねじ上がり、宙に伸びて、けれどそれは、明らかにハインリヒの意志ではなかった。
金属の腕は、引き上げられ、引き伸ばされ、苦痛の声を上げるハインリヒにかまわず、ごきりと音とさせて、いきなり肩から外れた。
宿主から離れた腕は、そのまま宙に浮いて、部品の見える断片を、薄闇に晒している。
とっさに、肩を失った右側を見ると、血が流れることもなく、確かに感じた苦痛もなく、そこはただ、すっぱりと切り落とされた肩の断面が、白く紅く、空気に触れているだけだった。
その腕を接けた自分と、腕のない今の自分と、どちらがどれほど醜いのだろうかと、体を隠すべきかどうか、迷いながらハインリヒは考えた。
宙に浮いていた、金属の腕は、そのまま、悪魔の方へふわりと飛んでゆく。決して、軽くはないはずなのに、まるで、風にでも、吹かれているように。
手首の辺りをつかんで受け止めると、悪魔は、検分するように、そのつくりものの腕を眺めた。
この世で、最も醜悪な眺めかも知れないと、外された腕と、腕を失った自分の体を、こっそりと交互に見ながら、ハインリヒは、恥ずかしさに唇を噛む。
嬲りもの---人なのか、物なのか---だと、自分のことを思って、惨めさもわいた。
悪魔は、ハインリヒを横目に見ながら、腕を持ち変えて、さっきしたと同じように、その掌に唇を寄せる。唇の柔らかさが、いきなり、肩の断面から流れ込んできた。
そんなばかなと、思った瞬間に、動かない冷たい指先を、悪魔が、唇の間に差し込んだ。
鉛色の指を、わざと音と立てて、大きく舌を動かしながら、しゃぶる。
生暖かい舌が、皮膚をなぞる感触が、背筋を震わせた。
悪魔の、淫靡に動く口元から目が離せず、以前、悪魔に、唇と舌で触れた時に、自分の、あんな様だったのかと、その淫らさに、全身が赤く染まった。
悪魔は、腕に両手を添え、指を甘く噛み、指の間に、丹念に舌を這わせ、まるで、唾液でびしょ濡れにしてしまおうとするかのように、唇の間に出し入れしては、ぴちゃぴちゃと音を立てる。
舐められているのは、体から取り外された腕の指先なのに、全身で、その舌と唾液の湿りを感じていた。
知らずに、胸を反らし、祭壇の前で、足を大きく開いていた。
触れられているのは、指だけれど、触れられたいのは、指ではなかった。
触れているのは指なのに、そう感じているのは、別の場所だった。
ハインリヒは、肩を前に突き出して、腕のない体のバランスを取りながら、確かめるように、開いた足の間に掌を差し込む。
触れた途端、弾ける感覚があった。
悪魔が、飽きもせずに、鉄の味のする指を、舐め続けている。
掌の下に、確かに、その舌の動きがあった。
肩の切り口が、燃えるほど熱い。そこから流れ込む熱が、まっすぐに背骨を落ちて、腰を揺らす。
ぎりっと、時折、音を立てて指を噛む。痛みと、快感が、交互にやって来る。
両方の区別は、もうつかず、ハインリヒは、焦れながらも、布越しの自分の熱を、淫らにこすり上げていた。
ぴちゃりぴちゃりと音がするたび、熱が、うずく。生暖かい唾液が、確かにそこを包んでいて、誘うように動く舌が、ぬめぬめと絡む。
いつの間にか、説教壇の前に、背中をもたせかけ、神父服の裾を大きく割り広げて、冒涜に耽り始めていた。
悪魔の口元から、目が離せない。
醜い、つくりものの腕の指先を、舌と唇で嬲るそこから、目が離せない。
その舌と唇を、左の掌の下に、感じている。
悪魔が、金属の指を、口の中から引き抜いた。
すっかり唾液に濡れそぼった、つくりものの腕は、ぬらぬらと光って、何か別のもののように見えた。
「神父さま。」
からかうような声で、悪魔が、わざとそう呼んだ。
額に汗が浮き、厚い神父服の下にも、汗が流れていた。
悪魔の唇は去り、うまく動かない左手だけで、昇りつめることはできなかった。
ハインリヒは、あきらめて、手を動かすのをやめ、はあはあと、胸を喘がせながら、悪魔を方を見ていた。
悪魔は、ハインリヒを数瞬見つめた後で、また腕を持ち変えると、今度は、装着のための部品ののぞいた、肩の方の断面のふちを、舌でぐるりと舐めた。
また、流れ込んできた感覚に、ハインリヒは思わず肩を押さえて、喘ぐ声をもらした。
つくりものの腕を、愛しげに眺め、悪魔は、軽く放り投げるように、そこから手を離した。
腕は、宙にふわりと浮いて、その影に、悪魔の姿を隠す。
流れるように動いた腕は、今度は音も立てずに、ハインリヒの肩に戻ってきた。
その様を眺めていて、気づかない間に、悪魔の姿は消えていた。
元に戻った腕を、確かめるように動かして、悪魔の消えた闇に、まだそこにいるような気がして、じっと目を凝らす。
右腕を、思いつめたように見つめて、ハインリヒは、その指先を、震える唇に、含んだ。
悪魔が、そうしていたように、必死に動きを真似ながら、自分の稚拙さを、心の底で罵りながら、かすかに生暖かさの残る指を、舐める。
あるはずのない感覚が、そこからじわりと、全身に広がる。
置き去りにされた、会堂の薄闇の中で、またハインリヒは、冒涜に手を伸ばす。
祭壇の前で、あふれた唾液が、熱く絡んだ。
戻る