I'm Above #6
告解室は、会堂の、祭壇に向かって左側にある。
簡単に仕切られた壁際は、それぞれに重い布が吊るされ、人が中にいれば、その布が引かれて、外からは誰にも見られないようになっている。
防音効果があるとは、とても言えない。けれど、そこから漏れる声と言葉は、聞かなかったことにされ、そこから先ヘは、どこへも行かないと、信じられている。
不思議と、告白のために、誰かがそこにいる時には、申し合わせたように周囲は無人になり、会堂は、しんと静まり返る。
その日は、若い女が、ひどく沈痛な面持ちで中に入ってきて、入り口に当たる部分を覆った、その重い布を、静かに引いた。
顔の辺りが、細かい格子になっている仕切りを挟んで、互いに正面から見つめ合うことはせずに、横顔を向けたままで、告解は始まった。
女は、胸の前に掌を当てて、稚なくも聞こえる声で、語り始める。
好きな男がいて、男も自分を好いていてくれていて、けれど、他にもうひとり、自分に思いを寄せていると言う男がいる。
ひとりの男は物静かで、女を真正面から見つめることさえ出来ず、接吻はおろか、手に触れたことさえ、まだない。
もうひとりは、ずけずけと物を言い、会うたびに、自分がどんなに女に惚れているのかを、しつこいほど繰り返し、女が嫌がるのにもかまわず、無理に唇を奪おうとする。
他の男が好きなのだと、言ってしまえば、去ってくれるだろうかと思いながら、その男の強引さが、思いの深さの証しであるとも思えて、きっぱりと拒むことも、何となくできない。
物静かな男といれば、他のものは見えず、強引な男といて、その物静かな男のことを考えながら、けれど同時に、男の強引さに、ふと足元をすくわれそうになる。
女は、そんな繰り言を、これ以上ないほど退屈なトーンで、ぼつりぼつりと滑り落としていた。
この男しかいないのだと、思いながら、それはほんとうだろかと、同じ胸の内で考える。あちらの男の強引さの方が、時折好ましく思えることがある。
女に触れることを、一向にためらわないその男に、抱き寄せられるたびに、このまま拒まなければ、一体何が起こるのだろうかと、そんなことを考えてしまう自分がいる。
肌が、男を求めている気がすると、女は、ようやく思い切ったように、言った。
そこだけ、奇妙に艶を帯びた口調になって、ハインリヒは思わず、眠るように閉じていた目を、大きく見開いた。
女の告白が、まるで、自分の唇から発したもののように、思えた。
何か、女に言ってやらなければと、唇を開きかけた時に、ぞわりと、膚が粟立った。
垂れこめた布の内側に、まるで、空からにじみ出るように、人影が現れた。
思わず、背中を壁に当てるほど、内心で驚きながら、女に見えるかもしれない横顔は、元の表情を保ったまま、その人影を凝視する。
「神父さま・・・?」
女が、反応のないハインリヒに焦れたのか、小さく声を掛けてきた。
慌てて、そちらへ視線を移して、必死で、女の言っていたことを、思い出そうとする。告白の内容を、頭の中で継ぎ合わせながら、急いでその場しのぎの言葉を探した。
「結婚する気は、ないのですか?」
どちらの男とだろうかと、自分で思いながら問うと、女が、少し考え込むように、顔を伏せる。
その間に、また、人影に向かって、正面を向いた。
さすがに、声は出さず、今ははっきりと実体を持った悪魔が、にやりと笑う。
昼間、こんなにはっきりした姿で、こんな間近に、悪魔が現れたのは初めてだった。
ハインリヒは、いつも無意識にそうするように、胸の前のロザリオを握り、怯えの隠せない表情で、悪魔を見上げる。
「・・・そこまで、思い切れません。わたしから言い出すことは、できませんし・・・」
女が、ぼそりと言った。
悪魔から視線を逸らさないまま、まだうつむいたままの女の視界に、悪魔の姿が絶対に入らないことを祈りながら、ハインリヒは、まるで懇願するように、唇を開いた。
その唇からこぼれる言葉を、防ぐように、悪魔の指が、声を出すなという仕草で、唇に触れた。
同じ指で、自分の唇にも同じ仕草をして、また、にやりと笑う。
前に立てた指の影に、軽く突き出して見せた唇が、妙に煽情的で、その唇の柔らかさを想像して、ひとりで頬を赤らめる。
格子の向こうにいる女と同じように、ハインリヒも、思わず顔を伏せた。
女は、ひとり物思いに沈んだのか、ハインリヒへは、まだ何も言わない。
悪魔とふたり、狭い空間で、無言で見つめ合っている。
ゆらりと、長身が、前に揺れた。
窮屈そうに、体を折り曲げ、ハインリヒの前に、這い寄ってくる。両手で割り開いた膝の間に、するりと肩を入れ、神父服の上から、みぞおちの辺りに、顔を伏せた。
怯えに勝てず、小さく悲鳴を上げそうになった唇に、また、悪魔の指が触れる。
突き出した唇で、静かに、という小さな音を立てて、それから、頭の中で声がした。
------聞こえちまうぜ。
悪魔が、自分の左側に、軽くあごを振る。
ハインリヒは、思わず自分の口元を、手袋の掌で覆った。
「・・・ほんとうはわたし、どちらとも、結婚なんて、考えられないんです。」
女が言った。悪魔の唇が、もっと下へずれた。
「どちらのことも、愛してはいないのですか?」
かすれかける声を、しっかりと、腹筋で深めた。
物静かな男を、好いてはいる。愛しているとも思う。けれど、激しく愛し合いたいとは、まるで思わない。一方の、強引な男とは、長続きしないとわかっていながら、ただ、気持ちが流れるままに、後先を考えずに、抱き合ってみたいと思う。
女の、正直な告白は、若さゆえなのか、それともこの女の業が、人一倍深いからなのか。あるいは、人は誰も、こんなふうに、人前では決して口になどできない欲望に、まみれながら生きているのか。
「・・・どうしたら、いいのでしょうか。」
悪魔が、掌を重ねて、厚い布越しに唇を使いながら、こすり上げた。
喉を反らせて、女がこちらを見ていないことを確かめながら、思わず叫びそうになった唇をまた、しっかりと手で覆った。
どんなことを、女に言ったのか、覚えていない。
真っ赤な髪に、指を差し入れ、自分の方へ引き寄せながら、腰を揺らしていた。
必死で、喘ぎを殺しながら、女の繰り言に相槌を打って、けれどそれさえ、悪魔の舌と唇に翻弄されて、まともにできていたとは、言い難かった。
腰かけている、小さなベンチ状の、木の板の上に片足を上げ、大きく足を開いて、自ら悪魔の舌と手を誘い、心の中で何度も、もっと、と叫んでいた。
「こんなことを考えて、わたしは、汚らわしい女です。」
悪魔の肩に、足を乗せて、殺した声の代わりに、靴のかかとが背中を蹴る。
今ここで、思う存分声を上げ、手足を曲げ伸ばして、悪魔の誘いに応えられたらと、心の底から思う。
神父服は、唾液で湿り、悪魔にこすり上げられて、熱くなっていた。厚い布地は、唾液の湿りを通すことはなく、けれど内側も、別の湿りに濡れていた。
「どちらとも、もう会わない方が、良いのでしょうか。」
女が、相槌ではなく、答えを求めた口調で、訊いた。
言葉を聞き取る理性だけは残して、唇を噛んでから、考えている振りをして、呼吸を整える。
いっそうそそるように動く指先に、必死で耐えた。
「・・・会わな、ければ・・・そんなことは・・・感じないで、すむのですか・・・?」
乱れそうになる息を、平坦にして、途切れながら、返した。
どこか苦しげなハインリヒに、女が、怪訝そうな顔を、こちらに向ける。
心配そうに、ハインリヒを見て、おずおずと訊いた。
「神父さま・・・? どこか具合でも、お悪いのですか?」
余計なことをと、小さく舌を打った。
赤く染まった頬を、見られたかもしれないと、思って急いで顔を伏せる。狙ったように、意地悪く、悪魔の手が動く。また声を殺して、横顔を見せながら、顔を上げた。
「いえ・・・大丈夫です。続け・・・て下さい。」
女は、まだ心配そうに、それでも一呼吸置いて、
「わかりません、でも、人の道を踏み外した行いは、せずにすむかもしれません。」
と、続けた。
悪魔が、そこで、嗤い声を、小さく立てた。
女を嗤ったのか、ハインリヒのことを嗤ったのか、よくはわからなかった。
好きにすればいいのだと、そう言い放ったら、この若い女はどんな顔をするだろう。男と寝たいなら、好きに寝ればいい、そうして、その口を拭って、別の男と結婚したいなら、そうすればいい。
人の道を踏み外しても、罰があるとは限らない。
こんなことをしながら、まだ、神父面をしている自分の、恥知らずさ加減を思った。
「・・・先の方と、結婚をお考えになるのが、いちばん良いことではないかと、思います。」
悪魔が、手と舌の動きを止め、足の間で、顔を上げた。
女が、ようやく立ち去った後、ハインリヒは、中途半端に放り出されて、その苦しさに、大きく喘いだ。
悪魔はそれ以上は触れようとはせず、またゆらりと立ち上がって、だらしなく足を開いたままのハインリヒを、おかしそうに見下ろしていた。
「今度は、アンタの番だ、神父さま。」
短い呼吸を整えながら、上向いて、眉を寄せる。
「アンタが、懺悔する番だ。」
開いた脚の間で、固い布越しに、くっきりとあらわな形に、悪魔が視線を注いでいる。
大きく割れた、神父服の裾で、それを覆って隠すことさえせずに、ハインリヒは、悪あがきのように、またロザリオを握りしめた。
「・・・悪魔に、懺悔か・・・?」
にやっと、唇が歪んで、つり上がる。その唇が欲しかった。その唇が与えてくれるぬくもりと、湿りが、たまらなく欲しかった。
剥き出しに、あらわにした、膚の上に。
悪魔と膚を交わしたら、一体どうなるのだろう。そう思いながら、ロザリオから、指を外して、両腕を、真っ直ぐに悪魔の方へ伸ばした。
震える声が、言った。
「・・・ほ・・・欲しい。」
これ以上は、言わせないでくれと、哀願の視線を送りながら、腕の中に、悪魔の背高い体が、落ち込んでくるのを待った。
にやりとまた、悪魔が笑う。白く覗いた歯列が、まるで鋭い牙のように見えた。
その牙に、切り裂かれる、自分の皮膚と肉を思った。流れる血をすすり飲んで、ぬらりと紅く濡れた唇でまた、悪魔が笑う。
すすり取られるのは、血ではないけれど。
似ている、けれど、違う。
悪魔の肩がまた、こちらに向かって傾いてくる。
布と板に覆われた、小さな空間の中で、躯が懺悔する。
肩の上に抱え上げられた足を動かして、また、声を殺しながら、革靴のかかとで、背中を蹴った。
悪魔の嗤う息が、熱くかかった。
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