I'm Above #7
祭壇の、説教壇を背にして、キリストの像を見上げていた。
もう、明かりのない聖堂の中でひとり、目を閉じても、細部まで思い浮かべることのできるその像を見上げて、ハインリヒは、そっと、震える唇を噛んだ。
気配がする。
闇の中に、ひときわ濃い闇が浮かび、そちらへ視線を移すと、それは、影になり、人の形になり、そうして、人間の姿らしき赤い輪郭が、ぼうっと闇の中に浮く。
ねじ曲げた唇が、神父様と呼んで、野卑な挨拶の言葉をつぶやく。
もう一度、首を伸ばし、キリストの像を見上げ、祈りの姿勢を取った。人影は、ゆっくりと左側から近づいてきた。
人影が---人間の、男の姿をした悪魔が、肩に手を伸ばしてくるよりも一瞬早く、祈りの形を解くと、ハインリヒは、自ら両腕を開いて、男の胸にしがみついた。
軽く体を押され、男は後ろへ1歩足を引き、それから、ふんと鼻で笑う。
男の気配を感じただけで、もう、全身の血が噴き出しそうに熱いのだと、絡めた腕の力に言わせて、ハインリヒは、自分を、蔑んだように見下ろす男を、そうとは知らずに、欲情に潤み切った、水色の瞳で見上げる。
男の指が、唇に触れた。
ひやりと冷たい指は、誘うように、唇の合わせ目を撫で、そこに指先を差し込んで、歯列に触れた。求められていることを、瞬時に悟り、ハインリヒは、おずおずと口を開く。
入り込んできた、揃えた指先が、舌の上に乗った。
舌をつまみ、口の中に入り込んだ指先は、唾液に濡れるのにも構わず、喉の奥や舌のつけ根を嬲る。
従順に舌を差し出し、その指を舐め、ハインリヒは、キリスト像に見下ろされながら、悪魔に、恭順の意を示す。
それが、どれほど己れの立場と、仕える神を貶めるか、承知の上で、悪魔の指に、甘く歯を立てた。
唾液に糸を引きながら、差し抜かれた指が、闇の中で、ぬらぬらと光る。
うっすらと、朱を散らした目元を眺めて、また、悪魔が唇をひずませた。
肩をこづかれ、よろけた体が、祭壇の床に倒れる。
いつもよりは乱暴な仕草で、髪をつかまれ、引き寄せられる。
唇に当てられた、今度は指ではなく、もっとあからさまな熱さと形を、待っていたように、ハインリヒは、喉の奥に飲み込もうとした。
唇を大きく開き、まるで、食むように、舌を使う。
指よりも、もっと奥まで、喉を侵すその熱さに、ハインリヒは、額に汗を浮かべて、必死で奉仕した。
両手を添え、少しでも、男の気に入るように、思いつくままに、顔を動かして、次第に育つそれを、精一杯開いた喉の奥で、なだめて、促して、そうとは知らずにそそのかす。
男の声が、頭上で聞こえた。
不意に、男の手が、こめかみに触れ、両手で、頭を押さえると、自分で動き始めた。
喉を伸ばして、男の動きに従いながら、突然突き立てられる喉の奥にこみ上げる吐き気よりも、さらに増すのは、いとしさだった。
苦しさに、涙を浮かべ、それでも、自分を使う男の動きが、自分を踏みつけにするものだとは、どうしても思えず、うっすらと目を開けて見上げれば、いつもの冷ややかさの薄れた、男の淡い緑の視線とぶつかる。
乱暴に突き入れる仕草に、舌を使うことすらできず、ただ、開いた喉の奥に、育ち切った熱と形を受け止めて、ふと、アダムとイブに、知恵の実を授けた、蛇のことを思い浮かべた。
蛇とは、もしかして、これのことだったのだろうかと、そんな馬鹿げたことを考えて、服従の証しのように、また目を閉じる。
それならば、知恵の実とは、何だったのだろうかと、そこに思い当たった時、悪魔は、するりと唇から抜け出して行った。
あふれた唾液が、唇を濡らし、ひどく淫蕩な形に、開いたままの唇で、ハインリヒは、今度は何が起こるのだろうかと、男を見上げた。
生々しく、目の前に差し出されたそれは、またたどり着いてはおらず、威圧するようにこちらを睨めつけている。
それに向かって、また、欲情の視線を投げかけ、ハインリヒは、再び唇を差し出そうとした。
「欲しいか?」
男の声が、低く、頭上から降り落ちてきた。
思わず、開いたままの唇で男を見上げると、奇妙に真剣に、自分を見つめる瞳がある。
深く考える前に、こくりとうなずくと、また、男が訊いた。
「全部、欲しいか?」
一体、何を問われているのかわからず、ハインリヒは、戸惑ったままで、男を見つめ返した。
男は、長い腕を伸ばし、ハインリヒの神父服の、胸の前に触れた。それから、ロザリオを指でつまみ、きゃしゃな鎖を持ち上げると、まるで、吊るし首のように、ハインリヒの耳の傍に、強く引き上げた。
高い襟を滑り、細い鎖が、きりきりと、首とあごの下に食い込む。
痛みに、思わず喉を伸ばし、小さく悲鳴が漏れた。
「オレが、全部、欲しいか?」
自分は今、裁かれているのだと思った。
神の像の前で、悪魔によって、下される裁きを待っているのだと思った。
食い込む鎖の痛みが、意識を、どこか別の次元へ運んで行ってくれるような、そんな気がした。
さらにきつく、細い鎖が、皮膚を切り裂きそうに食い込むのにも構わず、ハインリヒは、伸ばしていた喉を、こっくりと折った。
「全部、欲しい。」
悪魔が、にやりと笑った。
途端に、ぱんと、光が弾け、音とともに、首にかかっていた鎖が弾け、ちぎれた。粉々になった鎖と同じに、そこに通っていた淡い水色のガラス玉も、ぱりんと割れる。そこにだけは、悪魔の力も及ばないのか、黒ずんだ銀のクロスは、形を残したまま弾け飛び、かたんと、大きな音を立てて、説教壇の傍へ落ちた。
悪魔が一度手を振ると、白い炎が上がり、ハインリヒの、神父服だけを焼き消した。
全身を取り巻く、白い炎に包まれたままのハインリヒを、熱くはないのか、悪魔が抱き寄せる。
祭壇の、冷たい床に押し倒され、胸が重なった。
首筋についた、鎖の後を、悪魔が舐める。それから、押し開いたハインリヒの躯の奥へ、さっきそうして、唇を侵したように、ぬるりと入り込んでくる。
引き裂かれる痛みに、ハインリヒは、遠慮のない声を上げた。
突き上げられるたびに、喉を伸ばし、男の肩に、生身と、つくりものの指先を食い込ませ、全身を、引き裂きながら満たしてくる、熱と形を、舌の上に思い浮かべる。
侵されている姿勢を思って、恥ずかしさに、全身に、汗が吹き出す。
まるで、もっとと、ねだるように、男の腰に両足を絡め、揺さぶられながら声を上げる。
これが、蛇の与えた、知恵の実なのだと、そう思った。
かぶりつき、果実をかじり取り、果汁をすする。甘いのか苦いのか、今はわからない。
押し入ってくる痛みの底に、躯の奥を、うずかせるものがあった。
これが、全部なのだろうかと思って、悪魔を抱きしめ、祭壇の固い床が、きゅっと汗で滑って、音を立てる。
背中の皮膚をこすられ、けれど今は、痛みを感じる余裕など、どこにもなかった。
悪魔が、つくりものの右腕を取って、その、冷たい表面に、いとしげな接吻を触れさせた。
「・・・名前を、呼べ。」
まるで、腕に向かって言うように、悪魔が言った。
ふたりで、体の動きを止め、繋がったままで見つめ合う。
名前・・・と、ハインリヒは、おうむ返しにつぶやいた。
「ジェット。」
短く、耳に突き刺さるように、言葉が、こぼれた。
口移しに、それを繰り返した。
「ジェット・・・ジェット・・・ジェット・・・」
知恵の実の、噛み砕いた果実が、するりと、喉を滑り落ちてゆく。
神の楽園を、追い出されるのだと思った。追い出されるのではなく、自ら出て行くのだとは、まだ自覚できずにいる。
抱き合って、繋がり合って、耳元でまた、今はジェットと名乗った男の姿の悪魔が、訊いた。
「アンタの、名前は・・・?」
名乗り合うことは、まるで儀式のようだと思って、揺さぶられる合間に、自分の名前をささやいた。
「・・・ハインリヒ。」
途端に、ジェットが、まるで全身を叩き込むように、激しく突き上げてきた。
悲鳴に喉を裂いて、押し開かれて、侵されながら、けれど心のどこかが、自由になってゆく。
ジェットの唇が、何度も何度も、名前を呼んだ。
「オレを、全部くれてやる。」
このまま、死ぬのだろうかと、激しさに息を止めながら、思う。
「だから、アンタを、連れてゆく。」
苦しさのせいではなく、涙が、あふれた。
背中が、床から浮き、ジェットに抱き上げられて、躯の奥底で、弾けて注ぎ込まれる熱を、受け止めて、全身が震えた。
ぼんやりと、かすんだ視界に、こちらに向かってうつむいた、キリストの像が映る。
見慣れたはずのその表情が、どうしてか、今は読めず、けれどもう、その顔を、祈りながら見上げることはないのだと思う。
ジェットに抱きしめられ、まだ繋がったままの体が、また、燃え上がる炎に包まれていた。
こぼれる涙が、熱に乾き、跡も残さずに消える。ゆるく首を振ると、闇の中に、灰色に、首から外れて、今はそれだけ残った銀のクロスが、鈍く光って見えた。
「ハインリヒ・・・」
そのクロスと、色合いのよく似た鉛色の腕を、ジェットが、いとしげに撫でた。
「行こう。」
ハインリヒは、すべてを打ち捨てた姿で、ジェットの背中に、しがみついた。その背に、大きな白い羽が、はばたいていた。
若い神父が姿を消したと、人々は噂し合ったけれど、それきり誰も、彼の姿を見た者はいない。
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