「あらし」 - 番外編
Riverside Hotel - Day 1
「どっか行こうぜ。」
始まりは、そんな簡単な誘いからだった。
どう聞いても、本気とは取れないジェットの、いつもの軽口としか思えず、アルベルトは手にしていた本から目を離さないまま、何の反応も返さなかった。
店を閉めて、そろそろ帰ろうかと、そんな時間だった。
「なあ、オレとアンタと、ふたりだけで。」
細身のジーンズの、ジェットの長い足が、ゆっくりとこちらへやって来る。
いつもはアルベルトがいるカウンターの傍から、今アルベルトがいる、店の真ん中辺りの、本棚の間へ。
「なあ、どっか、行こうぜ。」
「どこへ?」
やっと、左側のジェットへ、横顔を上げて訊く。
「どこでもいいさ。あのオヤジが来ねえ場所なら。」
視線がぶつかって、アルベルトは、思いがけずに甘いささやきを聞いたように、警戒は消さずに、けれどふっとジェットの、そこだけは今は真剣に見える淡い緑の瞳に、まるで夢のように見惚れて、ゆっくりと唇を開いた。
「そんな場所が、あるもんか。」
声がかすれる。
視線を合わせたまま、ジェットが足音を殺して、すぐ傍へやって来る。そして、長い腕を伸ばして、アルベルトの手から本を取り上げると、にっと唇をつり上げて笑った。
「あるさ。」
確信に満ちた口調の後に、ぱたんと本の閉じる音と、なぶる風のように軽く唇に触れる、なめらかな暖かさとがやって来て、アルベルトはそのまま目を閉じた。
夜は少し寒い。まだ息は白くはないけれど、散歩にはそろそろ向かない季節だ。
ジェットに腕を引かれるまま、車は店の裏口の駐車場に残して、ダウンタウンの真ん中まで、ばらばらの足並みで歩く。
あまり治安がいいとは言いかねる辺りを通り過ぎ、いつもは車の中からしか見かけることのない、ホームレスや酔っ払いの間をすり抜けて、小銭をめぐんでくれと差し出される手を無視して、少し明るい店の前には、必ず崩れた身なりの子どもたちがたむろしている。
ジェットと、実はそう変わらない年頃なのだろうと、ジェットの後ろを歩きながら、彼らの姿を、ちらりと盗み見る。
アルベルトに、どこへ行くのだとも言わずに、ジェットは歩き続けていた。
地下への階段を下りる、怪しげなバーか、どの窓ガラスにもひびの入った、すえた匂いのする場末のバーか、どうせ連れて行かれるのはそんなところなのだろうと思っていたら、ジェットは白々しいほどきらきらしい、軽薄に明るい建物の前で、アルベルトの方へ振り返った。
「行こうぜ。」
ここが目当ての場所なのだと、あごをしゃくって、建物のガラスのドアを押して、さっさと中へ入ってゆく。
いくつも並んだ、安っぽい色のベンチ、右手の白いカウンターは、こちら側はコーヒーショップ、その奥は小さなコンビニエンスストア、左手には窓口がいくつかあって、紺の制服を着た黒人の男がそのひとつに、ぼんやりと坐っている。
ここはバスターミナルだ。市内を走るバスと、それから、市外へ出てゆくバスがここに集まる。車を持っている人間には、滅多と縁のない場所だった。
夕方のラッシュはもう過ぎてしまったのか、ベンチに坐る人の姿はまばらで、バスが停車するらしい外側で、数人、煙草を吸っている人影が見える。
アルベルトは、入り口から数歩中に入ったきり、それ以上中には入れずに、ぼんやりと中を観察していた。
ジェットは、軽い足取りで窓口へ近づくと、背高い体を折り曲げて、何やら黒人の男に話しかけ始めた。ふたりは、壁にある時計を一緒に見上げ、一緒にカウンターの中を見て、それから、ジェットがアルベルトの方へ振り向いた。
「なあ、アンタ、金持ってるか。」
足早にカウンターを離れ、珍しく声をひそめてジェットが訊く。ジェットの肩越しに、窓口の黒人の男をちらりと眺めて、
「ああ。」
言葉短かに答えた。
ジェットは、ちょっとだけほっとしたような笑みを浮かべて、ジーンズや上着のポケットを急いで探ると、10ドル足らずの有り金を掌に乗せて、アルベルトの目の前に差し出した。
そんなジェットに苦笑いを浮かべてから、アルベルトは、ジェットの肩を軽く叩いてその傍をすり抜け、ジェットのいた窓口へ向かう。ふたりは肩を並べて、そこへ戻った。
ジェットは、窓口の男にあごをしゃくり、男はぶっきらぼうに金額を告げ、アルベルトは、コートの内側から取り出した財布から、クレジットカードを1枚抜き出して男に差し出した。
クレジットカードの行方を見守って、ジェットが下品に唇を鳴らす。それをたしなめるように、アルベルトは横目にジェットをにらんだ。
男は、カードの表と裏を眺めて、ちらりとアルベルトを見て、それから、少しだけ怪訝そうな視線でジェットを見て、それでも何も言わずに、ペンとレシートをアルベルトに渡した。
サインするアルベルトの手元を、ジェットがもの珍しげに伸び上がって見ている。
カウンターに出されたチケットは2枚、男は窓口から腕を伸ばして、
「3番の乗車口だよ、あと20分。」
「サンキュ。」
アルベルトよりも早く、チケットを取り上げてしまうと、ジェットはアルベルトの肩を押して、指差された方へ向かって歩き出した。
「どこへ行くんだ?」
ここへ来たことすらないアルベルトには、たった今払ったばかりのチケットの値段で、どれほどの距離をバスが走るのか、見当もつかない。
1日の終わりの疲れた空気の中で、誰も、ジェットやアルベルトの方へ視線を投げることすらしない。ジェットはアルベルトの肩に腕を回したまま---そんなふうには、決して見えないだろうとは言え---、バスの停車場へ続くドアの、すぐ上にある時計を見上げて、口笛を吹き始めた。
「どこへ行くつもりだ。」
少しだけ、不安がわき上がる。このまま、ここへは永遠に戻って来れないような、そんな気がした。
「あのオヤジが、いねえとこだよ。」
横顔を見せたまま、ジェットが、低い声で言った。少し硬くなったジェットの横顔から目をそらして、アルベルトは、それきり口をつぐんだ。
埃の匂いと、ガソリンの匂い。それから、様々な人の集まる場所の、独特の匂い。
バスを待って、列を作ったのはほんの数人で、頭上の電光掲示板には、バス会社の名前と時間と行き先が、何度も何度も流れ続けていた。
それを見ても、アルベルトには何もわからず、すぐ傍で口笛を吹いてばかりいるジェットをちらちらと見て、けれど何も問わずにいる。
手荷物もない、何の準備もせずに、身軽なままバスに飛び乗って、これからどこへ行くのか。
グレートが、もしかして電話をしているかもしれないと、閉めてしまった店と、今は無人の、自分の部屋のことを思い浮かべる。すまないと、ちらりと思って、けれど今さら連絡を入れようとは思わない。
そうしてはいけないのだと、どこか落ち着きのないジェットの瞳の動きを見て、思う。
やって来たバスは、市内バスよりも一回り大きく、下りてきた運転手が、乗客の荷物を入れるために、バスの下部を開いて、アルベルトは、そんなことのひとつびとつを、物珍しげに眺めていた。
ジェットが、持っていたチケットを2枚とも運転手に渡し、運転手---白人の、背の低い、小太りのひげ男だった---はそれの表をきちんと見てから、半分だけちぎり取り、残りをジェットに返した。
ステップを上がり、暗い車内を、ジェットが先に歩いてゆく。狭い通路の両脇の席は、がら空きだった。
いちばん後ろには、細い扉があって、物置のように見えるその空間は、どうやらトイレらしかった。そのすぐ傍に、ひとり掛けがふたつ並んだ他の席とは違って、ひと続きのベンチシートになっている、やや広い座席がある。ジェットは、迷いもせずにそこへ行くと、どさりと腰を下ろした。
「アンタ、窓側に行けよ。」
一度坐ってしまったのに、後ろから来たアルベルトのためにまた立ち上がり、アルベルトを窓際に坐らせると、ジェットは、前の席よりは少しだけ横に長いために、トイレの扉の前に空いた空間に、だらしなく足を伸ばした。
坐り心地がいいとは、お世辞にもいいかねるシートだったし、アルベルトにさえ狭い席だったけれど、窓から路面をはるか下に見下ろすその高さと、頭上のライトや、冷暖房のための風の吹き出す口の並んだシステムや、そんなものが珍しくて、アルベルトは、子どもっぽく、ほんの少しわくわくしている。
人が動き回る気配が静まり、運転手がどうやら運転席に戻ったらしく、ドアが音を立てて閉まった後で、エンジンのかかる音がした。それから、行き先を告げるアナウンスが流れて、人のまばらなバスの車内は、妙な生暖かさを淀ませて、がくんと走り出す。
ジェットは、だらしなく足を投げ出したまま、シートに背中を滑らせ、前方を伺った後で、アルベルトの膝に、掌を乗せてきた。
アルベルトは、窓の外ばかり眺めていて、街中を通り過ぎ、バスが高速に乗ってしまうまで、一言も口を聞かなかった。
街の明かりが消え、高速のランプだけになると、車内はいっそう暗さを増し、頭上のライトをつけなければ、手元がようやく見える薄暗さだった。
アルベルトは、ジェットの掌を自分の膝から下ろして、軽く腰を上げると、着ていたコートを脱いだ。
それを見上げているジェットの方には目もやらずに、脱いだコートを体の前に掛け、そうして、さり気なく、ジェットのこちら側の膝だけを覆う。
コートの下で、膝の先が触れ合って、そして、さっきまで自分に触れていたジェットの手を捜して、革手袋の右手で、軽く握った。
暗くて、ジェットがどこにいるのかすら、よくわからない。そんな言い訳を胸の中でしながら、アルベルトは、素早くあごをすくい上げるようにして、こちらを向いていたジェットの唇を盗んだ。
コートを、しっかりと肩の上まで引き上げて、正面を向いて、
「着いたら、起こしてくれ。」
いずれ、ジェットの肩に頭を乗せて、眠り込んでしまう---ふり---つもりで、アルベルトは、コートにあごまで埋めながら、早口に、小さな声で言って、目を閉じる。
「ああ。」
ジェットが、少しだけアルベルトの方へ肩を寄せて、アルベルトのコートの下で、すりきれたジーンズの膝をすりつけ、アルベルトの右手を握ると、きゅっと革が音を立てた。
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