「あらし」 - 番外編
Riverside Hotel - Day 4
ポットでいれた、熱い紅茶。きっちりとアイロンのかかった、清潔な衣服。それなりに値の張る家具と、いつも熱い湯の出るシャワー。まともな食事、香りの良いワイン。
馴染んだ、そんなものなどどこにも見当たらない、安っぽいモーテルの部屋の中で、アルベルトはいつの間にか、昔を思い出し始めていた。
閉じ込められて、時には縛られて、外へ出ることは許されず、存在を認められるのは、誰かが自分を使う時だけ。
同じだと、しわだらけになったシャツを羽織って、アルベルトは、ぼんやりとベッドの端に坐っている。
夜も昼もなく、眠っている時以外は、ジェットと躯を合わせて、果てるためではなくて、まるで、倦怠を忘れるためのように、抱き合い続けている。
空腹を、最小限満たすためだけの食事と水と、そこで肌を重ねるため---そして、眠るため---のベッドと、汗に汚れた体を洗い流すためのシャワーと、ここはとても簡素な、そして牢獄のような空間だった。
鳥かごを抜け出して、外へ飛び出したと思っていたのは、愚かな錯覚だった。また別の、さらに小さなかごの中へ、閉じ込められてしまっただけだと、右腕を撫で上げながら思う。
それでも、あの昔よりはましだと思うのは、少なくともジェットは、自分を壊したりしようとはしないだろうと、何の根拠もない確信があるせいだった。
首を絞めたり、気を失うまで殴ったり、あるいは、腕を切り落とそうとしたり、ジェットは、少なくともそんなことはしない。
ただ乱暴に、アルベルトを抱いて、辱めるために、踏みつけにするだけだ。
アルベルトの額に烙印を押すように、淫売と呼んで、淫乱と決めつけて、そうして歪むアルベルトの表情を見下ろして、ジェットはにやりと笑う。横に広い唇が真っ赤に裂けて、そこから牙が見えそうに思う。アルベルトは目を細めて、そんなジェットを、恐怖ではなく見つめる。
愛しい者を扱う優しさを、ジェットは知らない。愛しい者へ向ける親愛を、アルベルトは知らない。欲情に魅かれて、欲情で抱き合っているふたりだったから。ふたりきり向き合ったところで、ふたりができることは、際限もなく躯を繋げ合うことだけだった。それ以外の術を、持たないふたりだった。
今もジェットは、そうやって、ぼんやりと坐っているアルベルトを後ろから抱きしめて、首の辺りに唇を這わせている。時々、髪を噛むぎりっと言う音が聞こえ、腰に回ったジェットの腕を、まるでなだめるように、アルベルトは何度か右手で叩いた。
飾りのない部屋の中を、それ以外見るものもなく眺め、そうして、必ずアルベルトの視線は、ベッドの傍の電話へ戻ってゆく。
ジェットにそう言われたように、アルベルトはあれきり一度も電話には触らず、グレートには連絡の1本も入れていない。グレートに、居場所だけは告げておきたい気持ちと、できれば隠したままにしておきたい気持ちと、今ではどちらがどれだけ強いのか、アルベルト自身にもわからなくなっていた。
後ろで、アルベルトの肩に額を乗せて、けれどアルベルトの視線の位置を、ジェットが瞳の動きだけで追っているのが、気配でわかる。
グレートは、今どうしているだろうかと、思う心と裏腹に、アルベルトは、ジェットの腕を抱き寄せていた。
ジェットの唇が、うなじを滑って、そこでゆっくりと開く。
「・・・アンタ、女抱いたことあるのか?」
直裁すぎて、気恥ずかしささえわかない質問に、アルベルトはほんの少しだけ遠い目をして、横顔を少しジェットの方へ向けた。
「ある。」
「良かったか?」
ジェットの長い脚が、折り曲がって、アルベルトの膝の方へ伸びてきた。
思い出して、考え込んで、アルベルトは正直に答えた。
「夢中で、何も覚えてない。」
ふーんと、ジェットが左肩の上で首を傾けた。
「・・・アンタが女とヤってるのって、想像できねえ。」
しなくていい、と、小さな声で、けれどぴしりと言った。
自分でだって、あの柔らかな体を敷き込んで、両脚の間で繋がることなど、想像できなかった。そうあるべくして造られた器官を、そうあるべく使う、ごく当たり前のことだったけれど、アルベルトには縁のない世界の話だ。
「・・・女、呼ぶか。」
ジェットがいきなり、乗せていたあごを、左から右の肩に移して、アルベルトの耳元で、ひどく下卑た口調で言う。
電話の方へあごをしゃくって、からかうように、くくっと喉を鳴らした。
「こんな街で、呼べるような女が見つかるのか。」
極めて現実的な声で、ジェットの品のなさをたしなめるために、アルベルトは、少しだけ頬の線を厳しくした。
「女なんてどこにでもいるさ。ダウンタウンに行きゃ、誰か見つかるだろ。」
「・・・そんな女と、できるのか。」
知らない街で女を買うのは、危険に金を払うようなものだと、思いながら、今はすっかり興醒めした表情のまま、アルベルトはジェットの方へ体の向きを変える。
「アンタは、ムリそうだな。」
ジェットが、唇をねじ曲げて下品に笑った。
両腕の輪の中で、こちら側に体をねじっているアルベルトを、けれどどこか気弱な視線で眺めて、軽く肩をすくめてから、ジェットは不意に、アルベルトの頬に唇を寄せる。
「・・・オレも、勃つかどうか、怪しいもんだけどな。」
声が、淋しげに落ちた。
まるで、雨に打たれた野良犬のように、自分の背中に首を垂れてしまったジェットを慰めるために、アルベルトはジェットの頬に右手を伸ばして、指の先で撫でる。
欲情しかないふたりの間で、けれどその時、何か通い合った暖かなものがあったけれど、それだけを信じてすがれるほど、ふたりは純情でも、幼稚でもなかった。
ジェットの掌が胸を撫でて、そうして、アルベルトが始まりのために喉を伸ばすと、喉の骨の形に添って、ジェットの唇が、濡れた跡を残して行った。
「・・・電話させてやるよ。」
不意に、胸元の薄い皮膚に、生暖かく呼吸がかかる。
驚いて、一瞬体を硬張らせて、信じられずに目を見張ったアルベルトから体を離すと、ジェットは身軽にベッドのあちら側に飛び降りて、床に脱いだジーンズから、小さな紙片を取り出した。
またベッドに戻って来たジェットに手渡されたその紙片は、安っぽい、つるつるとしたピンクに、太く黒い字で、"Adult
Sex Toys"と印刷してあった。いかにもいかがわしい単語の、店の名前の傍には、着ける意味のない類いの下着を着けた、女のシルエット。
わけがわからず、咎めるようにジェットを見上げると、ジェットの唇が、いつものように意地悪くねじ曲がる。
「そこに電話して、どんなおもちゃがありますかって訊いてみな。」
「おい、冗談は---」
言いかけたあごを、ジェットが容赦もなくつかんで、アルベルトは体をねじって痛みにうめいた。
安物のスプリングが、ふたりの動きにぎしぎしと音を立てて、ひどく揺れたベッドの端から落ちそうになる体は、けれどジェットの長い腕に、しっかり捕らえられてしまっている。
「その店、ここから50mと離れてないんだぜ。何なら直接行って、店員とツラ突き合わせて話させてやろうか?」
ジェットの手が、あごから離れる。指先に、店の名刺を持ったまま、アルベルトは、何も言えずに、開きかける唇の中で、ただ舌を動かした。
それとも、とジェットの声が続いてささやく。
「・・・オレが女拾ってきて、アンタが、オレの前で、その女とやるか?」
どれもこれも、最悪の選択ばかりだ。
ジェットの低めた、奇妙に優しい声音に、まるで束縛が解けたように、アルベルトは、名刺に視線を落としたまま、震える右手を傍の電話に伸ばした。
アルベルトののろのろとした動きに焦れたのか、ジェットはせっかちに、アルベルトより先に受話器を取り上げ、アルベルトの肩越しに名刺の番号を覗き込むと、白い四角いナンバーを押し始めた。
「アンタが使うって、ちゃんと言えよ。」
手渡された、今時珍しいほどずっしりと重い受話器の向こうで、女の声が電話に応える。少なくとも、ジェットほど若そうな声ではないことに、一抹の安堵を覚えながら、アルベルトは、平たい声を出していた。
そうと意識はしなくても、無表情になる声音で、バイブレーターについて説明してくれないかと言うと、女が、ええ喜んで、どんなのがいいのかしらと、仕事用の弾んだ声で答えてくれる。
羞恥よりも、今は忌々しさで、女が店の中を歩き回っているらしい気配を聞き取りながら、アルベルトは、鉛色の指先で、固い受話器を叩いた。
---サイズはどんなのがいいのかしら? 色の好みは特にある? 誰に使うの? 恋人用?
「・・・自分に、使う。」
ジェットに聞こえるように言いながら、そうとは意識しないまま、首筋に血が上がった。
どうしてか、どんなのがいいかと訊かれて、グレートを思い浮かべながら、女の声が、いっそう励ますように弾むのに促されて、まるでジェットへの意趣返しのように、アルベルトは目を閉じて、グレートのことばかりを考え始めた。
「あまり・・・大きくはない方が・・・」
つい、低くなる声に、ジェットがアルベルトの耳を後ろから噛んだ。
「ちゃんと言えよ、どんな形で、どのくらいのデカさで、どのくらい太いヤツって。」
言いながら、アルベルトの脚に手を滑らせてくる。
掌に、やわらかく握り込まれて、思わず腰が浮いた。もっと下の方へ、指先が滑り込んで来て、電話の邪魔をするように、アルベルトの気をそぞろにする。
電話の向こうで、女が、丁寧な説明を続けていた。
まるで教科書を読むような、あからさまな語彙で、男性器を模した器具の形状を、女の声が描写する。実際には、それほどの違いはないその器官は、けれどその部分だけを取り出されて、誇張と強調にまみれて、本物の面影は見当たらないように聞こえる。
ひどく写実的な女の言葉の羅列に、具体的な想像を止められず、アルベルトは思わず、まるで目の前にそれがあるかのように、唇をうっすらと開いていた。
「いや、よけいなものは、いらない。ごく普通の、あまり大きくも、太くも、長くもないのが---」
表面の凹凸や、特殊な形や、曲がり具合や、女が客の気をそそるために、あれこれ艶っぽい声で描写するのを、遮るようにそう言ったのは、うんざりするよりもむしろ、思惑通りに皮膚の裏側に、そのさまざまな感触を想像し始めている自分を、現実に引き戻すためだった。
そんなアルベルトを、むしろそそのかすように、ジェットの指先は、淫らな想像を助長する動きを、ゆるく繰り返している。
少なくともその指先は、生身だと思いながら、おもちゃのように扱われる自分が、そんな道具を使われるのは、それはそれで滑稽で、そしてさらに欲情を誘う眺めなのだろうと、手足を縛られて床に転がされ、卑猥に動く道具を、高く上げた腰にわざとねだらされるいつかの自分の声の甘さが、耳の奥に甦った。
ジェットの手が、少しずつ大胆に動き始め、かすかにうねる腹筋や、張りつめた胸元の皮膚を、探り始める。胸の突起が、指先になぶられて、尖って、慄えた。
まるで、電話の向こうの女の目の前で、ジェットと絡み合っているような、そんな気分になって、声の湿りを、女に聞き咎められないことだけを祈りながら、アルベルトは、相槌だけを返し続ける。
今は、ジェットの胸に背中を預けて、大きく開きかける膝だけは、そうならないように力を入れて、電話越しの会話が聞こえるように、ぴったりとこちらに耳を寄せているジェットの呼吸が、次第に熱を帯びていた。
電話の向こうで、さすがに女も、こちら側の気配に気づき始めたのか、冷やかしの客の相手を、丁寧にし続けていた---もっとも、暇つぶしくらいにはなったろう---自分の馬鹿さ加減に呆れたかけたような声で、他には何か、とアルベルトに訊いてくる。
電話を終わらせてもいいのかどうかわからず、アルベルトは、横目にジェットを見た。
ジェットは、アルベルトの手から受話器をもぎ取ると、
「ありがとさん。」
言い捨てて、電話を切った。
驚くアルベルトに、にやっと笑って見せてから、アルベルトの腕を引いて、ベッドの真ん中に引きずり上げると、ジェットは見せつけるように、床に立って、自分の下腹に手を添えた。
「買って来てやろうか? それとも、こっちの方がいいか?」
ゆるくなぶられ続けていた躯の中で、火が、突然大きくなる。
どちらがいいのかは、アルベルトの問題ではなかった。そんなアルベルトを見て、どちらがいいと思うのか、そうさせる、相手側の問題だと、思いながらアルベルトは自分を笑う。
ジェットの方がいいと、示すために、右腕を伸ばした。
冷たいその指に、自分の指先をほんの少しの間だけ絡めて、それから、ジェットがアルベルトの腕を払って言った。
「自分で足開け。オレが欲しいって、見せろよ。」
グレートを思い出していたことなど、忘れていた。ジェットを見上げて、ジェットだけを見つめて、今自分の腕の中に確実にあるのは、この赤毛の年若い男だけなのだと、まるでわき上がるように思いながら、アルベルトは、しわだらけのシーツの上に体を横たえ、そう言われた通り、腿の裏に手を添えて、両足を抱え上げた。
腰を浮かせて、ジェットに見えるようにしながら、欲しがって、開きかけているのが、自分でもわかる。アルベルトは、顔を背けて目を閉じた。
ベッドのスプリングが、壊れそうにきしんだ。
熱が触れて、押し込むように、入り込んでくる。
確かな、質量。こちらに馴染むくせに、けれとしっかりとした質感で、こちらを圧倒してくる、形。
焦らすこともせずに、いきなりすべてをおさめて、ジェットが、アルベルトの上で息をついた。
脚を抱えたまま、さっきまでは想像でしかなかった感触を、今は内側の粘膜にじかに感じながら、アルベルトは体を縮めて、そして、背を反らした。
背骨を引き裂くように、深く侵されて、揺すぶり上げられて、シーツの上をずり上がっていく。
しゃにむに押すジェットに、持ち上げていた足ごと抱きしめられて、折り曲げた体の苦しさに、呼吸を止める。
息を止めると、いっそう強く、ジェットの形を内側に感じた。
わずかな骨組みと筋肉と皮膚と、躯の内側には、受け入れるためだけの内臓と粘膜がある、肉の塊。反応するためだけに、張り巡らされた神経。快楽だけに応える、肉色の蛆虫。
押し開かれて、こすり上げられる粘膜が、熱を持って、熱を迎え入れる、ただそれだけの存在。
ジェットが、アルベルトを押し潰しながら、吠えた。
注ぎ込む熱と一緒に、アルベルトの耳に、濡れた舌先を滑り込ませてくる。
淫乱。
自分を卑しくするはずのその言葉が、どうしてか今、いとしげに聞こえた。
もっと言ってくれと、そう言いそうになる唇を、ぎゅっと噛む。
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