「あらし」 - 番外編

Riverside Hotel - Day 5



 外には1歩も出ず---ジェットが、それを許さない---、誰の声も聞かず、まるで、拾われてきた捨て猫のように、ジェットの持ち込んで来るものを食べて、飲んで、飢えと渇きを癒す。
 どれだけ日が過ぎたのか、時間を数えそびれてから、時計の数字ですら、もう昼なのか夜なのか、よくわからなくなっていた。
 この部屋は、まるで小さな水槽だった。囲まれて、閉じ込められて、どこにも逃げる術はなく、ふたりはまるで、そこで2匹きりで飼われている、小さな魚のようだった。
 酸素を分け合うように、唇を合わせて、躯を繋げる。シーツの波に飲まれて、溺れて、水槽の底に横たわり、甦るまでのひとときを、眠りに費やす。
 飽きもせずに。
 まるで魚のように、ふたりは言葉を持たず、ただ開く唇から呼吸をもらすだけで、互いの熱に、互いの意思を読み取ろうとする。
 外のことは、ここへは伝わらない。時間はまるで、この部屋の壁のように、のっぺりと飾りもなく、どこを切り取ろうと同じ表情をしている。ここでは、昨日も今日も明日も、数時間前も5分前も10秒後も、どれとは見分けがつかない。
 だるさの増す体を起こして、アルベルトは、目の前で手足を伸ばしているジェットの上に、そっと覆いかぶさって行った。
 長くは重ならない、触れるだけの口づけを落とす。何度もついばんでいるうちに、耐え切れなくなったジェットが、軽く頭を持ち上げて、アルベルトの首に手を伸ばしてくる。重ねても、深くはせずに、いたわるように口づける。穏やかさに、ジェットが戸惑いの表情を浮かべ、それでもうっとりと、アルベルトの唇の暖かさになごめられたように、瞳の表情をやわらげる。
 幼い動物が、身を寄せ合って生き延びようとするように、ただ優しさだけを込めて、体を触れ合わせる。
 額がこすれ、前髪が絡み、鼻先をこすり合わせて、くすくすと笑いながら、アルベルトは、ジェットの頬やあごや耳の近くを、丹念に唇でなぞった。
 そうやって、ジェットのすみずみを覚えていようとするかのように、唇と舌と手指と、ジェットの膚のあらゆる部分をまさぐって、そうして、伏せたまつ毛の長さに今さら驚きながら、何もかもを弾き返す張りつめた膚と筋肉に、そっと歯を立てる。
 全身を添わせて、ジェットの上で、ジェットに触れる。少しずつ違う、体の形。指先や耳朶や、肩の厚みや喉の長さや、触れて、見て、舐めて、確かめる。
 ジェットと街を出て以来、コロンをつけないアルベルトの膚は、今は何も混じらない、そのまま---機械の腕の、かすかな金属臭---の匂いがした。いつの間にか、グレートの煙草の匂いも薄れ、グレートのコロンの香りも、こそげ落ちてしまっている。
 バスルームにある、小さな石鹸と水の匂いが、時折膚を覆う他は、ふたりの膚からは、それぞれの汗の匂いがするだけだった。
 滑らかに盛り上がった、胸の筋肉、薄く浮いた肋骨の間を舌先でなぞって、少しへこんだみぞおちを滑り、アルベルトは、わずかにうねるジェットの腹筋に、やわらかく歯を立てた。
 音を立てて、唇で皮膚を噛む。ゆるやかに、その下で、体温が上がってゆく。
 ジェットの体を丹念になぞって、まるで優しく皮膚を剥ぎ取るように、舐めて、噛んで、時折上目に盗み見るジェットは、まるで眠気に襲われたような、とろんとした半開きの瞳で、唇だけを動かしている。
 赤く血の色の透けた、喉や頬の辺りを、アルベルトは満足そうに眺めた。
 ジェットの脚の間に坐り込んで、持て余すように折り曲げた硬い膝にも、噛みつく。まるで、青くて固い、まだ熟していない果実にでもかぶりつくように、大きく口を開けて、膝の骨に、噛み跡を残すほど、強く。
 そうしながら、ジェットの足を右手で撫で下ろし、骨張った薄い足の甲に掌を乗せて、指先を、足指の間に滑り込ませる。
 くっきりと骨の形の現れた足首、脚の裏側は思いのほか柔らかく、右手で撫で上げれば、くすぐったそうに、逃げる仕草をする。
 アルベルトは、ジェットの脚の間から伸び上がって、体温を確かめるように額を合わせて、しばらくの間、瞬きもせずにジェットを見つめた。
 体を下へ向かって滑らせながら、唇に口づけて、それから、まだ今はそれほどあからさまではないそこに、そっと顔を落とす。
 そうしようと思えば、今なら簡単に噛みちぎってしまえそうな、まだやわらかなそれを、右手であやしながら、唇の中に飼う。舐め上げる舌先に、素早く応えるけれど、それでもまだ、唇の端を痛めるほどではなく、次第に勃ち上がるのを、ゆっくりと舌の上に馴染ませた。
 ジェットは、軽く背を浮かせて、両手でアルベルトの髪を撫でた。
 色のない唇を割って、ジェットの熱が、次第に質量を増す。唾液に混じり始める苦さを、喉の奥に誘い込んで、その熱が、そんなことでは足りないと暴れ出すまで、辛抱強く舌でそそのかす。
 さっき、ジェットの体をさぐったと同じ丁寧さで、今はジェットのそれを丹念に舐める。
 いずれは、自分の中へ注ぎ込まれる熱を期待して、そのために、ジェットのそれを、舌の上に飼う。
 今ジェットに注ぎかけているのは、アルベルトの方だった。
 先を急がずに、じれったいほど時間をかけて、少しずつ少しずつ、ジェットの熱を煽っている。まるで、ジェットが先をねだるのを、待っているかのように。
 今はもう、ためらいもなく右手でジェットに触れながら、アルベルトは、左手を、自分の下腹へ滑らせた。
 ジェットへ向かって、舌を伸ばすと同じリズムで、指先をそっと沈める。もっと、と、自分に言いながら、その指を、もっと先へ進めた。
 しゃぶる仕草を見せつけるように、ジェットの前で顔を振る。そうしながら、四つん這いになって、高く上げた腰を、指の動きに合わせて揺すった。
 口の中の熱を、別のところへ想像する。恥知らずな姿勢で、ジェットを慰めながら、自分を慰めて、そうして、アルベルトは、自分で自分を焦らしている。
 唇の端が、そろそろ痛み始めている。その痛みを真似するために、抜き差しする指を増やす。どんなに必死になっても、指では足りないとわかっていて、欲しいところへは届かないもどかしさをごまかすように、熱い粘膜をかき回す。
 ジェットが焦らすやり方を思い出しながら、浅く埋めた指先で、躯の内側をこすり上げた。
 喉の奥にはジェットを深く飲み込んで、貫かれる場所が少し違うと、欲しがる自分を、注意深く暴走させながら、耐える苦痛の大きさに比例する、与えられる甘さを想像して、躯の奥を疼かせていた。
 すっかり開いてしまった躯が、差し入れた指を、今は難なく飲み込んでしまう。際限もないその深さと熱さに、自分で怖くなって、アルベルトは、根元まで埋めていた指を、ぬるりと引き出した。
 皮膚の下は、骨も内臓も、跡形もない。蜜色に溶けた、粘膜だけの自分の内側を想像しながら、アルベルトはようやく、ジェットの前から顔を上げた。
 あふれる唾液に濡れたそれに手を添えて、ジェットの腰をまたいでゆく。ジェットの上で脚を開いて、ひとりで、そこに躯を沈めた。
 ジェットと、繋がってゆく。蜜色の海の中へジェットを飲み込んで、押し寄せる波に、自分もさらわれていた。
 開いた、けれど、ジェットにはまだ狭い筋肉は、ふたりにはもう馴染みきった、けれど、不自然な形で、ジェットの熱の輪郭に裂かれて、アルベルトは、息を止めながら、まだ動き出さずにいる。
 狭いアルベルトの内側を圧迫しながら、確かな質量を誇示するように、ジェットが焦れて、一度だけ下から揺すり上げた。
 ジェットと、繋がっている。
 アルベルトは、それをジェットに見せたくて、軽く体を反らして、シーツに滑らせた膝を、さらに大きく開く。
 そうして、ジェットの薄い腹に手を置いて、ゆっくりと動き始めた。
 躯中の筋肉が、うごめくのが自分でわかる。うねって、皮膚や粘膜の下で波打ち、血を踊らせる。
 どこまで行っても、所詮ふたつ身でしかない体が、けれどそうやって、内側でひとつになろうと、溶け合う動きを与えて、受け入れている。
 躯が熱い。中から焼かれるように、ジェットの熱にこすり上げられて、熱を持って、そうしてあふれた熱が、アルベルトを無我夢中にさせた。
 ジェットと、いっそう近く躯を密着させながら、アルベルトは喉を反らして、声を上げる。
 ずっと耐えていた声を、まるで何かに許されたように、アルベルトは今ほとばしらせていた。
 全身をジェットに貫かれたように、喉を上に伸ばして、口を開けて、確かな熱の質量に押し上げられて、アルベルトは開き切った躯を、ジェットの目の前に晒している。
 理性も羞恥も失くして、ただうごめく肉と粘膜の塊に成り果てながら、アルベルトは、そんな自分に飲み込まれて、ジェットも、我を失くしているのだと知っていた。
 自我を放り投げて、ただ欲情だけで絡まり合う。知っているのは、互いの奥深い粘膜の湿りと、その熱さ。自分が自分でなくなるために、全裸からさらに皮膚さえ剥ぎ取って、ぐちゃぐちゃと絡まり合う躯。それだけでいい、受け入れる躯と、そこへ注ぎ込まれる熱。
 アルベルトは、自分が誰なのか、忘れていた。
 あまりにもジェットと近くなりすぎて、自我の融解する瞬間が、あまりにも長すぎて多すぎて、触れ合ったそこだけではなく全身が、アルベルトという形を失くして、ジェットの上に溶け流れていた。
 そこに残るのは、鉛色の、冷たい機械の右腕。主を失くして、一緒に溶けることの許されない、にせものの、つくりものの腕。
 けれど、実はそれが自分自身なのだと、透明になった脳裏で、アルベルトは憑かれたように考えていた。
 ジェットの名を呼んだ。自分が誰なのか、それを思い出すために、ジェットの名を呼んでいた。
 これがジェット。これが自分。これが、もう自分の一部と化してしまった、金属の腕。ジェットの上に、深く腰を落として、腕がそこにあることを確かめるために、アルベルトは右肩で、頬に流れる汗を拭った。
 ジェットの腕が、首筋に伸びてくる。アルベルトが、形を持ってそこにいるのだと、確かめるように、奇妙に穏やかな仕草で、長い指があごの線を滑る。
 頬に添えられた手から、親指が伸びてきて、アルベルトの唇に差し込まれた。
 唇を突き出して、爪の上を甘く噛みながら、アルベルトはその指を舐めた。恭順の意を示すために、それが、自分のできる精一杯の表現だと、アルベルトは、いとおしげに、その指を舐めた。
 顔をずらして、ジェットの掌に口づける。固い、乾いた、自分を潤すその手に、感謝しながら、アルベルトは顔を傾け、唇を押しつけて、そして、自分を見上げるジェットに、うっすらと微笑みかけた。


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