「あらし」 - 番外編

Riverside Hotel - Day 6



 ジェットはぐっすりと眠っていた。
 ぬるいシャワーを浴びて、濡れた髪をしっかりと拭いてから、乾くまでにそう時間はかからないだろうと思って、それ以上は何もせずに、アルベルトは、鏡の中の、少しやつれたように見える自分の顔を近々と眺めてから、足音を消して、バスルームを後にした。
 いつの間にか、一緒に閉じこもった時間の長さに満足してか、ジェットは、アルベルトをしっかりと束縛しておくことを忘れ、今もおそらく、電話に触れても、目を覚まさないだろうと思えた。
 アルベルトは、ベッドで寝息を立てているジェットを横目に見て、タオルだけを腰に巻いた格好で、濡れた髪を指でかき回しながら、部屋の中を、静かに歩き回り始める。
 脱いだきり、眺めることさえしなかった靴は、バスルームの近くの壁際に、きちんと揃えて、ずっと置かれたままだった。
 ジェットが脱ぎ散らかした服を、時々持ち上げて、自分のものがそこにないかと確かめながら、ベッドの下やドレッサーの陰、テーブル近くの床の上、椅子の背、そんなところから、靴下と下着とシャツと、ズボンと ベストを拾い上げ、取り上げ、コートは、ずっとあちら側のベッドに放り投げられたままでいた。
 けれど、ネクタイと革手袋を探すのに、少々手間取った。
 ジェットに、最後にそれを使って縛られた時のことを思い出しながら、ベッドの回りをぐるりと歩いて、そして、ベッドの下の、ヘッドボードと壁の間の床に、蛇の皮のようにくたりとなっているのを、そこへ頭を突っ込んで、床に這いつくばって見つける。
 革手袋は、テーブルのある窓際の、壁の四隅の部分に、まるでゴミのように落ちていた。
 硬張ったように、顔の皮膚が動かない。手足も、ぎくしゃくと、頭で思うよりも2、3拍遅れて動き出す。
 ぎぎぎと、音を立てそうな体を折り曲げて、下着を着け、シャツを着て、ボタンをひとつひとつ、丁寧に掛ける。音をさせないように、ゆっくりゆっくり、ほとんど全裸で過ごしていた膚を、もともとそうであったように、覆ってゆく。
 そうする間、アルベルトはずっと、眠っているジェットから目を離さなかった。
 シャツはしわだらけだったし、ズボンも折り目が取れていて、何より、ネクタイはよれてねじれて、着けるかどうか、最後まで散々迷ってから、くたりとなったシャツの襟の下に、きちんと平らになるように気をつけながら巻いた。
 結んだネクタイを、無理矢理に、真っ直ぐ体の前に馴染ませて、ベストで、くたくたのネクタイもしわだらけのシャツも、大半は隠れてしまうことをありがたく思いながら、埃の浮いた革靴に爪先を差し入れて、そっと、空いた方のベッドの端に坐ってから、靴紐だけはきちんと固く結ぶ。
 もう一度、バスルームへ行って、服装を整えた、けれどどこか薄汚れて見えるに違いない自分の姿を、嘲笑ってやるために鏡の中に確かめようかと思ったけれど、一刻も早く、ここから出て行ってしまいたくて、そちらへ足を向けるのはやめにした。
 コートを取り上げて、袖に腕を通して、ポケットの中身を確かめた。クレジットカードは全部ある。身分証明書も運転免許証も無事だ。店と車と部屋の鍵と、それも全部ある。財布に入れていた紙幣は、ジェットが使って少し減っていたけれど、案外と無駄遣いもしていないジェットの気遣いを、アルベルトは少し意外に思った。
 こんなものこそ、きっちりアルベルトから取り上げて、隠しておくべきなのに、それほどは悪党になれないジェットの迂闊さ---あるいは、優しさ---と、ここへ来た時と、ほとんど変化のない自分の姿---少しばかり薄汚れただけだ---に、アルベルトは自嘲交じりの苦笑を浮かべる。
 財布から、残った金の半分を取って、窓際のテーブルにあったこの部屋のキーと一緒に、サイドテーブルに置いた。
 ジェットは、寝返りを打つこともなく、静かに眠り続けている。
 ベッドの傍を離れ、革手袋を着けて、アルベルトはその手でドアを開けた。
 音をさせないように開いたドアの隙間から、するりと身を滑り出し、外の音が聞こえないうちに、素早く閉めて、握ったノブにしばらく目を凝らしてから、アルベルトは、久しぶりの明るい空を振り仰いだ。深呼吸をしてから、歩き出す。


 モーテルのオフィスにいたのは、最初に会った主人らしい男ではなく、彼の息子なのか、それともただ雇われているだけなのか、アルベルトと同じ年頃の、英語を同じ訛りで話す東洋人の男だった。
 自分だけ先に出るからと、今日までの分と、それから明日の分まで、部屋代を清算して、始終にこやかに対応していた東洋人の男に、アルベルトは、
 「小銭が欲しい。」
 財布から、いちばん小額の紙幣を取り出して頼んだ。
 小さなオフィスの壁にかかった時計を見上げて、空の明るさと思い合わせて、今が、午後を少し過ぎたところだと確認してから、アルベルトは受け取った小銭から、選んだ硬貨を数枚握りしめて、モーテルを後にした。
 高速の入り口とのほぼ角のせいか、車の流れが多くて、向かい側へ渡るのにひどく時間がかかる。
 道路を渡った目の前の、比較的大きなガソリンスタンドの外に、公衆電話のボックスがあって、アルベルトは深呼吸をして、その中へ入った。
 受話器を取り上げて、使えることを確かめてから、手の中の硬貨を電話の中に落とす。市外通話になるはずのその番号を押して、それから、コートの中に手を入れて、残った小銭をまた手の中に握り込んだ。
 グレートの店の事務所の、グレートの部屋への直通電話だった。大きな机の上に置いてある、あまり大きくはないその電話の形を思い出している暇もなく、すぐに向こうと繋がった。
 「グレート?」
 おまえさんか、と、少しだけ驚いている声が聞こえて、アルベルトは、その声に、不意に自分が子どもに返ったような、そんな気分になる。
 電話ボックスの、打ちっ放しのコンクリートの床を、怒ったように蹴って、ひとりでうなだれて、それから慌てて、電話の中に硬貨を数枚さらに落とした。
 「せめて書き置きのひとつくらい、置いてくもんだ、My Dear。」
 警察の知人に、そろそろ捜索願の打診をしようかと考えていたところだと、穏やかに、けれど少し低めた声で言われて、アルベルトは唇を噛む。
 「・・・悪かった。」
 「おまえさんの気まぐれなんて、そうそうあることじゃない。ま、無事ならそれが何よりだ。」
 咎める声音にならないように、グレートが慎重に言葉を選んで、革張りの椅子にゆったりと坐って、けれど安堵で、目元の辺りを指で押さえているのが、手に取るようにわかる。
 どれほど心配を掛けたのかと、ようやくそんなことを考えられるようになって、アルベルトは、受話器から伸びる電話のコードを、強く握った。
 「で、今どこにいるんだ?」
 顔を横に向けて、少し首を伸ばして、道路を行き交う車の流れに目をやってから、
 「それが・・・実はよくわからない。」
 確かめる機会のなかった街の名前など、周囲には見当たらず、アルベルトは、グレートの呆れ顔を想像して、薄く頬を染めた。
 数回、ゆっくりと瞬きをするだけの時間、わずかな沈黙があってから、グレートの声が、突然痛々しく響いた。
 「帰って来れるのか、アルベルト。」
 訊かれたことの意味と意図が、一瞬わからずに、アルベルトは眉を寄せて、それから、受話器を持つ手を変えて、腹立たしげにあちら側に声を送る。
 「もちろんだ。ちゃんと帰れる。子どもじゃあるまいし。」
 腹を立てる筋合いなど、アルベルトにはない。むしろ、アルベルトの勝手に、腹を立てているのはグレートの方のはずだった。そんなふうに弱々しい言い方をさせるほど、グレートを不安にさせたのだと、アルベルトは、グレートへの申し訳なさに、今度は自分に腹を立てる。
 話をするのは、とにかく街へ帰ってからだと、手の中の硬貨の数を気にしながら、アルベルトは、一刻も早くここを離れたいと思った。
 「あのボウヤは、どうしたんだ・・・?」
 ひとりで姿を消したのではないと、当然ながら、グレートにはすっかりお見通しだ。隠す気もなかったアルベルトは、素直に、
 「子どもじゃないから、自分で何とかするだろう。」
 素っ気なく答えておいた。
 アルベルトがいなくなった後で、ジェットがこの街に、これ以上ひとりきりでとどまるとも思えなかった。
 グレートが、また少しの間黙り込む。
 ジェットのことを聞いて、平静でいられるわけはないから、アルベルトは、何を言われようと黙って耳を傾けるつもりで、じっとグレートが何か言うのを待っている。
 また数枚、硬貨を入れた。
 沈黙に耐えられなくなって、アルベルトは、下を向いたまま、つぶやくように言った。
 「グレート、あんたに、早く会いたい。」
 ジェットとのお遊びの時間は終わったのだと、胸の中で言う声が聞こえた。家に帰る時間だ。グレートの待つ街へ、自分の、あの部屋へ。
 熱いシャワーを浴びて、服を着替えて、まともな食事をして、乱れのない清潔なシーツのかかったベッドで眠りたいと、強烈に思った。
 グレートと、一緒に。
 許されることを期待してわがままに振る舞うのは、とても卑怯なことだと、自分のことを恥じる気持ちがわく。そして、まだモーテルのベッドで眠っているだろうジェットを思い浮かべて、自分の冷酷さと身勝手さに、吐き気を覚えた。
 薄汚れた自分の姿に似つかわしく、自分はとても薄汚れた人間だと、今さら気がついても、笑うことしかできない。
 だからこそ、自分を抱きしめてくれる腕が、とても恋しかった。
 「おれはいつだっておまえさんの傍にいるよ、My Dear。」
 早く帰っておいでと、ひどく優しい声が続いた。
 これから帰ると、最後に言って電話を切って、アルベルトは大きく息を吐いた。知らずに、右手を、しびれるほど固く、握りしめていた。


 まだ少し湿った髪を気にしながら、アルベルトは、目の前のガソリンスタンドの店の中へ、ガラスのドアを押して入って行った。
 レジの近くに、コーヒーマシンが見えて、一緒に、湯の入ったポットが置いてあるのが目に入る。引き寄せられるようにその傍へ行くと、いちばん大きなサイズの紙コップを取って、ミルクがあることを確かめてから、ティーバッグを探す。
 沸騰しているわけではない湯の温度は、好ましいそれよりもずいぶん低かったけれど、それでも紅茶らしい色と香りに、透明な湯が染まってゆくのに、アルベルトは憑かれたように目を凝らしていた。
 ミルクを注いで、湯気の立つそれに、唇をつけた。色のついた湯だと、普段なら顔をしかめるところだったけれど、そんな安物の紅茶が、今は全身に染み通るほどうまかった。
 紅茶の代金を払うついでに、レジで、タクシーを呼んでくれるように頼んだ。
 これから帰る街の名前を告げて、行き方を知っている運転手をよこしてくれと必ず付け加えてくれるように、稚ない顔つきの少女に言って、明るい店の中の光に負けないほど可愛らしい彼女の横顔を眺めて、アルベルトは、ゆっくりと紅茶をすすった。
 紅茶が冷めないうちにタクシーはやって来て、少女に右手を上げてもう一度礼を言ってから、アルベルトは店を出て車に乗り込んだ。
 タクシーの運転手に、街の名前を告げ、若い黒人の運転手は黙ってそれにうなずいて、ガソリンスタンドを出て、すぐに高速に乗り込むために、そちら側の車線に入る。
 アルベルトは、走る車の中から、ずっとモーテルを眺めていた。
 ジェットがまだいるだろう部屋のドアを見つけ、ジェットの寝顔を思い出しながら、見えなくなるまでずっと、顔の向きを変えて、その部屋のドアを眺め続けた。
 高速に乗ってスピードを上げた車の中で、全身の力を抜いて、軽く開いた膝の間に紅茶を抱えて、何もかも夢だったのだと、胸の中で自分にささやき始めていた。
 街を出たバスの中の、眠りを誘う振動を思い出しながら、アルベルトは目を閉じた。
 運転手に起こされるまで、鳥かごの中へ戻り、汚れた羽をつくろう、鳥の夢を見ていた。


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