「あらし」 - 番外編

Riverside Hotel - Day 7



 何もかもが、馴染んだ日常に戻って、相変わらず客のいない書店で、アルベルトは日長一日、本に触れている。
 売り物ではあっても、手を離れるまでは、まるで自分の持ち物だと言うように、愛しげに背表紙を撫で、棚から取り出してページを開き、掌に乗った紙の重さに、一瞬恍惚の表情を浮かべる。
 そうやって、本に触れる手つきが、誰かを連想させることに気づき始めたのは、けれど店に戻ってすぐのことだった。
 グレートに満たされて、何の不足もないくせに、首の後ろがうそ寒い。何かが足りないと、皮膚のすぐ下で声がする。その声を聞き取っているのが、果たして自分だけなのか、それとも、肌を合わせているグレートにも、そのひどく放埓な叫びが伝わっているのだろうかと、アルベルトは自分の右腕を撫でる。
 主を欠いた数日を、けれどどこもかしこも、気づきもしなかったような様子でアルベルトをまた受け入れ、日常は変わらず流れてゆく。
 自分がいようといまいと、世界は何も変わらないのだと、そんな事実を目の前に突きつけられているような気がして、アルベルトは、ほんの少し悲しくなった。
 それでも、グレートがいればいいのだと、自分に言い聞かせる。グレートさえ自分を抱きしめてくれるなら、他には何もいらないと、アルベルトは、自分に嘘をつく。
 完全に嘘ではないけれど、完璧に本当でもない。
 知らない街に、ひとり置き去りにしてきたジェットは、あれきり姿を消したままだった。


 お帰りと、グレートは目を細めて、安堵の表情でアルベルトを抱きしめた。
 それから、アルベルトは、香りのいいワインと一緒に、テーブルについて、きちんとした食器でまともな食事をして、熱い湯でシャワーを浴びてから、新しいシーツを掛けた、自分のベッドで眠った。グレートと、一緒に。
 ゆるく交わって、激しさは忘れて、夢に入りかけるまどろみのように、肌を重ねて確かめ合うだけで、その夜は充分だった。
 グレートは、アルベルトが戻って来たことを、アルベルトは、そこに戻って来れたことを、それぞれに喜び合って、背中から抱きしめれば、胸にすっぽりとおさまるグレートの傍で、アルベルトは安らかに眠った。
 目覚めは殺風景ではなく、また熱いシャワーを浴びて、清潔な衣服を着けて、責任のある1日を始める。自堕落も怠惰もない昼間、太陽のまぶしさをきちんと思い知りながら、ああ、帰って来たのだと、改めて思った。
 夜になれば、グレートとまた、今度は激しさを増して抱き合う。まるで、離れていた時間の、埋め合わせをするように。
 すき間もなく躯を合わせて、そうして、グレートだけを見つめて、グレートだけを想って、これでいいのだと、心の底から思った。
 少しばかり薄汚れた格好で戻って来たアルベルトを気遣ってか、グレートは、姿を消していた数日のことを問い詰めることは一切せず---しなくても、想像がついたからだろう---、ジェットのことも、一言も口にはしなかった。
 ただ、優しさだけを込めて、アルベルトが求めるまま、抱きしめて、注いで、そうして、ふたり揃って、何もかも元通りだと、嘘の上塗りをする。
 ふたりの間に入った、隠しようもないひびから、ふたりは一緒に目を反らして、けれどそんなひびくらいでは、もうびくともしないふたりの関係ではあった。
 すべてが、最初から最後まで完璧だということはありえず、ようするに、長い間についてしまった瑕瑾すら、そのものの一部になってしまうほど、ふたりはもう分かちがたく結びついている。
 2週間は、そんなふうに過ぎて行った。


 乱暴に、店のドアが開く。ドアにつけたベルががらんと鳴って、騒がしい足音に、そちらへ向かって顔を上げれば、切り取ったような背高い影が、大きな歩幅でこちらへやって来る。
 後ろ手に閉めたドアにかかった、OPENの札をくるりと返してCLOSEDにすると、その影は、ひどく恐ろしい顔をして、アルベルトの方へ、その長い腕を伸ばしてきた。
 掌の上で開いていた本を取り上げ、そうして空いた方の手で、アルベルトの首元をつかみ上げる。
 「・・・ったく、アンタってヤツは・・・」
 苦々しげに言う口元は、けれど笑いにねじ曲がっていて、覗く歯列の端に、まるで牙があるように見えて、アルベルトは、その高い鼻筋と、淡い緑の瞳に、うっかり見惚れながら、頬と首筋を赤く染めた。
 怒りや羞恥や、あるいは何かときめくものや、そのどれとも見分けはつかないだろうその頬の赤みを、目の前のジェットはどう取ったのか、いっそう強く、アルベルトのシャツの首を締め上げてくる。
 ジェットのその手に、自分の両手を添えて、拳になった指先をゆるめようとしながら、アルベルトは、
 「勝手に店のサインを替えるなと、何度言ったら---」
 言った途端に、ジェットの手が、本を持ったまま上に振り上げられた。
 殴られると、そう思って首をすくめ、目を閉じると、思いもかけずに、首を締めつけていた指先がゆるむ。ジェットが、細く開いた唇から、言葉ともただのうめきともつかない声をもらす。
 恐る恐る目を開くと、ジェットはいつの間にか、手にしていた本を棚に置いて、振り上げていた手は、下に下りていた。
 横目に盗み見れば、けれどどこと言って、薄汚れた風にも見えない。あれからずっと、あの街へいたのだろうか。ひとりで。
 こうして、ジェットの訪れを、ずっと待っていたのだと、わざとらしく気づきながら、アルベルトは、媚びた視線を送っていることには気づかない。
 ジェットの両手は動かないまま、白い頬の線---少し、そげたように見える---も動かないまま、横に広い唇が、見慣れた歪み方で、ゆっくりと開く。
 「・・・今すぐ突っ込んでやるよ・・・」
 掌が、細身のジーンズの前にあてがわれて、指の長い手が、見せつけるように動く。
 アルベルトは、そこから視線は外さずに、首を胸元に引きつけて、細い声で、
 「・・・ここでは・・・」
 反駁するトーンが、すでに湿る。
 まだ、昼にさえなってない午前の遅く、窓から注ぐ光は柔らかく、何もかもを剥き出しにするような激しさは、まだない。
 きちんと服を着けて向かい合って、けれどふたり、必要なのは、言葉や優しさではなくて、はだけて晒した素肌だった。
 にやにやと笑うジェットの肩越しに、アルベルトは、入り口のドアを見やった。人通りがない---いつものことだ---ことに、わずかに安堵しながら、精一杯声を作る。
 「どうせ・・・誰かが店を勝手に、閉めてくれたらしいからな。」
 その時だけは、顔を真っ直ぐに上げて、首と背筋を伸ばして、右手は、軽く上げて、本棚の本に触れていた。
 それきり、言葉はなかった。


 「舐めて、勃たせろ。」
 コートも脱がないまま、髪をつかまれて、床に転がされて、ジェットのジーンズの前をくつろげるのも、その手でやらされた。
 右手の革手袋を外す間もないまま、だからそれは汚れないように、ジェットの固い膝辺りに触れさせて、アルベルトの頬は、すぐに赤く染まった。
 互いにきちんと服を着けたままでこんなことをするのは、どうして、裸よりも猥褻に思えるのだろう。目の前に、腹に触れるほど反り返ったジェットのそれを眺めて、シャツや下着のすき間から勃ち上がれば、こちらを威圧しながら、けれど滑稽にも見える。その滑稽さに、今は頓着できないほど、この時を待ちかねていたのだと、ふたりの熱が互いに伝えていた。
 大した時間は必要なかった。舌に乗せた途端に、それは大きく跳ね上がって、まるで水を得た魚のように、口の中でうごめく。自分の中で、形を変えていくそれを、ひどくいとしく思いながら、無理強いされているはずの状況にも関わらず、アルベルトは、いつもよりも優しく舌を使う。
 ジェットが、じき声をもらし始めて、アルベルトをその場に突き倒すと、コートの背中に覆いかぶさって来た。
 必要なだけ、肌を剥き出しにして、性急な仕草で繋がれば、中に入り込んできたジェットは、いつもより熱いような気がした。
 勢いのわりには、驚くほどあっけもなく果てて、それで少しは落ち着いたのか、アルベルトは、今は唇を重ねる余裕を見せるジェットの手で、服を剥ぎ取られた。
 ベッドは、きちんと整えられてはいたけれど、夕べ、グレートと抱き合った時のままだった。
 ジェットの胸に、正面から押し潰されながら、喉を反らすと、グレートのコロンと煙草の匂いが、かすかに鼻先を打つ。まるで、グレートの目の前で、ジェットと抱き合っているような気がして、アルベルトは、何度も声を飲んだ。
 それを知ってか知らずか、ジェットが、アルベルトを揺すぶり上げながら、グレートのことを口にする。
 あのオヤジと、何回ヤった? どんなふうにした? 何回イった?
 グレートのことは、今は言うなと、顔を背け、右の拳で隠して、抱え上げられた足が揺れる。グレートとも夕べ、同じ姿勢で抱き合ったのだと、思い出すだけで、下腹の辺りがいっそう熱を帯びる。
 腕の回し方や、こちらへ送ってくるリズムや、息遣いや、汗の匂いや、何もかも似たところのないふたりが、どうしてか、自分の上で重なってゆくのを、アルベルトはうっすらと目を開いて眺めていた。
 ジェットの背中に腕を回して、その張りつめた皮膚と筋肉と、形のはっきりとわかる骨の並びと、すき間もなく躯と体を合わせるために、自分から胸を反らして、そして腰を動かした。
 手足をジェットに絡めて、壊れるほど突き上げられながら、その激しさを欲しがっていた躯が、ジェットに甘く応えてゆく。
 優しさと激しさは、同時には求めてはいけないものなのだろうか。骨を砕く激しさと、肉をぬくめる優しさと、同時に与えられることは、許されないことなのだろうか。
 ひととして扱われることと、ものとして扱われることと、それが生まれつきの性癖なのか、それとも、踏みにじられ続けたことによる結果なのか、アルベルト自身にもわからない。今は、欲しがれば与えられる、暖かさと屈辱と、けれどそれを、同じひとりの人間から受け取ることはできずに、心のどこかを引き裂きながら、ふたりの人間に向かって、その躯を開いている。
 ジェットはそれを、淫乱だとか淫売だとか呼ぶし、グレートはいとしげな声音で、My Dearと呼ぶ。
 そのどちらも、自分という、ただひとりの人間---多分---に向けられた言葉だというのに、その違いすぎる響きを、アルベルトはひとり胸の中で嗤った。
 繋がったまま、ジェットが体の位置を変える。
 最初の性急さがなくなれば、今度は、どちらが先に音を上げるか、まるで競うように、ゆるく浅く、相手を焦らしにかかる。
 ひとり取り残された後、ずっとひとりぼっちだったのだと、恋しかったのだと、そうさせたアルベルトが悪いのだと、まるで躯にそう言わせるように、果てもないように、アルベルトの中に埋没したまま、ジェットが、自分の熱の中に埋もれてゆく。
 どこもかしこも、汗と吐き出した体液でぬるぬると濡れて汚れて、しわだらけのシーツの波に溺れて、ふたりは、時々酸素の足りない魚のように、ぱくぱくと一緒にあえいだ。
 抱え上げた両足ごと、自分を抱きしめているジェットを、アルベルトは、折りたたまれた体から両腕を伸ばして、自分の方へ引き寄せた。そうして、なだめるように、横に広い唇に、穏やかに口づける。
 それが合図のように、ジェットは、アルベルトの中で、ゆるやかに萎えて行った。


 自分の部屋、自分のベッド、ジェットがここにいて、待てば、グレートがやって来る。
 この小さな世界から、決して自分は逃れられないのだと、逃れる気などないのだと、ベッドの端に腰を下ろして、両脚の間に垂らした、自分の両手を眺めていた。
 鳥なら、飛んで行ってしまうのかもしれない。そう思いながら、けれど、鳥かごで飼われる鳥は、決して飛べないように、その羽を切られてしまうのだということを思い出していた。
 そっと持ち上げて、右手を見下ろす。自分の首に回った鎖の端を握っているのは、一体誰なのだろうか。
 与えられるものの中に、ぬくぬくと安住して、飼われているのだということに、恥さえ覚えず、アルベルトは、後ろへ体をひねって、こちらに背中を向けているジェットの方へ振り返った。
 誰が、誰を、飼っているというのだろう。誰が、どこで、何を、どう。
 ジェットと。アルベルトと。そして、グレートと。
 ここは、アルベルトの部屋だ。アルベルトの、小さな世界だ。
 区切られて、封をされた、閉じられた世界。どこへも行けず、どこへも繋がらず、ここだけで存在しているふりをしてけれど、他の世界に依存することによってしか、在ることを許されない、歪んだ世界。
 「・・・俺たちは、魚だからな・・・。」
 色鮮やかな、小さな魚。水槽の中を、身をくねらせて泳ぐ、無音のいきもの。水を飛び出れば、空気に溺れて死ぬ、薄い体をした、まぶたのない目を閉じずに眠る、いきもの。
 「・・・何か、言ったか。」
 眠っていたと思ったのに、アルベルトのつぶやきを聞きとがめたのか、ジェットが、だるそうな声を掛けてくる。
 顔だけそちらに、また軽く振り向いて、
 「いや、何でもない。」
 そう軽い口調で言うと、ジェットは応えもせず、背中を動かすこともしなかった。
 アルベルトは、右手で、目元を覆った。
 意味のない涙が、掌に落ちる。
 掌の奥で、何度も瞬きをしながら、アルベルトは、声を殺して泣き続けた。唇だけは、自嘲に歪めたまま、鉛色の手の上で、涙はすぐに冷えてゆく。


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