「あらし」 - 番外編

Riverside Hotel - Day 3.5



 グレートが、所在なさげに、椅子を鳴らしている。手持ち無沙汰に、組んだ指先を見下ろして、それから、机の上の電話に視線を投げて、あごの辺りを撫でたついでのように、頭髪のない頭を撫でて、ちょっとだけ肩をすくめる。
 グレートは、電話が鳴るのを待っているのだ。
 昨日も今日も、おとといも、グレートの待つ電話はなくて、いつもなら、ずっとジェロニモに持たせている自分の携帯電話を、昨日からしっかり懐ろに抱いて、暇さえあれば、取り出してはディスプレイに取り逃した電話番号の表示がないかと、そればかり探している。
 その電話番号を知っているのは、ごく限られた人間たちだけだったから、そもそもそれが鳴ることなど、普段から滅多となかった。
 その携帯電話は、今は机の上で、グレートは口元近くで両手を組んで、そこで、聞こえないような小さなため息をこぼした。
 「ジェロニモ。」
 不意に名前を呼ばれて、ジェロニモは、机の方へ、足音をさせずに一歩近寄った。
 「上から、酒を取って来てくれんか。何でもいい。どうせ終わりかけのが何本かあるだろう。おれにつけとけと、バーテンダーに言っといてくれ。」
 店にいる時には、絶対に酒を口にしない、店の酒に手を着けるということのないグレートには、珍しいことだった。
 「おまえさんも一緒に飲むんなら、グラスはふたつな。」
 苦笑のように、薄く微笑んだグレートに、ジェロニモもうっすら笑みを返してから、首を横に振って見せる。そうか、と、グレートはうなずいて、また机のあちら側へ顔を向けてしまった。
 部屋を出て、ドアを閉めるために体の向きを変えた時に、机の上の携帯電話を、グレートが手に取ったのが見えた。電話は、まだ鳴ってはいなかった。


 グレートのことを気遣って、けれどきちんと酔えそうな量を見定めて、ジェロニモは一抱えもある大きなボトルを慎重に選んだ。
 グラスを受け取ってから、値段の見当をつけて、素早くカウンターの後ろで、バーテンダーに50ドル紙幣を握らせる。多すぎるのはわかっていたけれど、下の事務所にいるグレートの邪魔をするなと、そういう意味も込めて、手を開いて驚く男を置いて、ジェロニモはバーを離れた。
 水曜の夜、人はまばらで、女たちも、気もなさそうに歩き回り、ステージの女たちの裸も、こんな夜には妙にくすんで見える。
 ジェロニモは、興味はないけれど、仕事の一部だと、店の中を一回り、ぐるりと見渡してから、今夜も静かに終わりそうだと、足早に、グレートの待つ事務所の方へ階段を下りて行った。
 アルベルトが姿を消して、今日で3日になる。
 あの赤毛の若い男のところへいるのだろうと、グレートは最初、そう思ったらしかった。それにしては、車はあの本屋の駐車場に残されたまま、アパートメントに戻った気配もなく丸1日過ぎて、そして、24時間以上、グレートのところへまったく連絡が入らず、そうなってようやく、少しばかり尋常ではないと、グレートが焦燥で口元を歪める。
 人をやって調べさせた赤毛の男のアパートメントも、空っぽのままだった。
 どこかの誰かに誘拐されたなら、とっくに金でも何でも、目当てのもののために、グレートのところへ連絡が入っているはずだったし、身元不明の、それらしい死体が見つかったという話も、探りを入れた警察関係者からはなかった。
 アルベルトが一体何者か、知っている連中なら、グレートの怒りを恐れて、彼に指一本触れることはしない。知らない程度のつまらないちんぴらなら、アルベルトが自力で何とかするだろう。街中に散らばったグレートの部下の耳に、事件の気配は何も届かず、ということは、アルベルトは、自分の意志でどこかへ姿を消したということだと、48時間後に、グレートはそう結論づけた。
 おそらく、あの赤毛の男と、一緒に。
 グレートが、そんなことを一切口にするわけもなく、けれど1日中傍にいるジェロニモには、グレートのしていることはすべて筒抜けで、だからと言って、余計な口出しをするジェロニモでもなかった。
 仕事だけはきっちりとしながら、けれど、妙に神経質に、電話の鳴るのを気にしているグレートに、ジェロニモはいつも以上に静かに、気休めさえ口にはせずに、ただ黙って付き添っている。
 ほとんど毎日、会わないなら必ず電話で連絡をし合うアルベルトの姿が周囲になければ、そうだと言われなくてもおかしいと思うのは当然で、けれど大っぴらにアルベルトを探すことは、まだしないグレートの意向を汲んで、ジェロニモはぴたりとそれについては口を閉じたまま、誰にも何も言わない。
 グレートが懇意にしている方面から、クレジットカードの記録に、4日前の夜に、高速バスのチケットを買ったとあると連絡が入ったのは、今日の午後のことだ。どこ行きのチケットだったのか、片道か往復か、ひとり分かそうでないのか、そこまで詳しいことはわからず、ただ、少なくともアルベルト名義のクレジットカードで、この街を出るバスのチケットが買われたことだけは確実だった。
 直接バスターミナルへ行けば、その金額から、行き先の見当がつくくらいの情報は得られそうだったけれど、それを言いかけて、グレートは口をつぐんだ。
 必死で探さなくても、必ず戻ってくると、そう信じたい気持ちが、グレートの頬の辺りに浮かんで、そして消えたのを、ジェロニモは見た。
 グレートに、余計な心配をさせてと、アルベルトを恨む気持ちが、その時かすかにわいた。けれど同時に、結局はグレートの手の中で、じたばたともがいているだけのアルベルトの姿も思い浮かんで、そんな彼を、ほんの少し憐れに思う。
 そんな思いすら、自分は抱いてはいけないのだと、ひとりで頭を振って、ジェロニモは雑念を払う。  
 グレートが何をしようと、自分に口を出す権利はないのだし、グレートの情人であるアルベルトが何を思っていようと、意見する立場に、自分はない、そうわきまえて、ジェロニモは口をつぐむ。
 ひとつ、深く息を吸って吐いて、ジェロニモはゆっくりと、事務所のドアを開けた。
 グレートは、ドアの開く音に、椅子から立ち上がって、左手にあるソファの方へ歩いて行った。そうしながら、机の上に、まだ手にしていた携帯を戻して、さり気なく、その手をズボンのポケットに入れる。
 ジェロニモは、それにはまったく気づかないふりをして、ソファの前の小さなテーブルに、抱えてきた酒のボトルとグラスを、音をさせずに置いた。
 ボトルのラベルを見て、ほんの少し、唇をとがらせるのが見えた。気に入ったのか気に入らないのか、どちらともわからないグレートの仕草に、ジェロニモはけれど表情も変えず、そこに立ったままでいる。
 妙に時間をかけて、グレートは片手はまだポケットに入れたまま、右手だけでボトルのキャップを開け、グラスに酒を注ぐ。強い香りが、部屋に漂った。
 「おまえさんは、飲まないのか。」
 ソファに腰を下ろさずに、立ったままでグラスを持ち上げて、グレートがまたジェロニモに訊いた。
 ジェロニモは、またただ首を振って見せる。ジェロニモは、酒は一切飲まない。グレートやアルベルトとは違って、煙草も吸わない。
 「・・・まあ、それもいいな。」
 仕事の話になれば、びしりと、低い声で凄むこともできるグレートが、今は弱々しい声で、縮めた肩をすくめて、それから、グラスの酒を一気にあおる。
 ふうと、腹の底がしびれるような、深いため息がもれる。
 また、片手だけでグラスを満たす。
 口元で、グラスを傾けながら、グレートがジェロニモに背を向けて、机の方へ歩いてゆく。電話のすぐ傍で足を止めて、ちらりと横顔を見せてから、ぼそぼそと、小さなつぶやきをこぼし始めた。
 「・・・我ながら、情けないな。」
 ジェロニモにそう言っているのか、それとも単なるひとり言なのか、どちらともわからずに、ジェロニモは相槌を控えている。
 アルベルトとふたりきりの時は、こんなふうに、ただの男の貌を晒しているのだろうか。薄い肩と少し丸まった背中に、いつもの殺気はなく、一瞬で周囲の空気を凍らせる冷ややかさも、今はすっかり消えている。
 貧相な中年男の後姿に、淋しさが滲んで、その背が、今にも崩れ落ちそうに、ジェロニモには見えた。
 「昔は、ずっとひとりだったってのに・・・人間てのは、すぐに楽な方に慣れちまうもんだな。」
 いつもよりもずっとくだけた口調に、ジェロニモは少し驚いている。もう酔い始めているのだろうかと、隠れて見えない酒のグラスの、中身の減り具合を確かめたくて、ジェロニモは少し視線を動かした。
 グレートが、顔を横に向けて、傍の電話を見下ろす。そうしてから、またグラスを空けて、ようやくポケットから出した左手で、電話の受話器を、いとしげな手つきで撫でた。
 「さて、いつ戻ってくるやら・・・。」
 おどけて言う口調と裏腹に、こちらに見える横顔は、泣いているように見えて、少し下がった口角と、今はいつも以上に垂れて見える大きな目の辺りが、わずかに震えている。
 淋しいと、全身が言っている。その背を抱きしめて、慰めることができるのは、今この場にはいない、この街にもおそらくいないだろうアルベルトだけなのだということが、ジェロニモの胸を刺した。
 ふたりの結びつきの不思議さを、そうとは口にはせずに、ジェロニモは、心のどこかでいつも考えている。男同士が、そんなふうに魅かれ合うということが、ジェロニモにとってはまず埒外だったし、グレートが、アルベルトにそこまでこだわる理由も、ジェロニモにはまったく理解できなかった。
 あげくに、アルベルトが別の男と秘かに会っていると知っても、それについて何を言うでもするでもないグレートの態度に、ジェロニモはこっそり憤ってもいる。
 自分には関係のない話だと言い聞かせながら、けれど、グレートを蔑ろにするようなアルベルトの振る舞いは、誰に言っても、恩知らずと罵られるだろうと、そう思う。それでも、グレートがアルベルトの好き勝手にさせると言うのなら、それはグレートの問題であり、ジェロニモは、それについての意見は一切持たずに、ただ変わらずに、グレートを護るために、傍へいるだけだ。
 どれほど歪んだ形であろうと、互いを必要としているふたりなのだと、それだけはジェロニモにもわかる。
 グレートに甘えてしなだれかかる、自分よりも少し年上の白人の男は、どこかあやうげで、対峙する人間を不安にさせる。しっかりととらえていなければ、どこかへ走り去ってしまいそうな、あるいは、その場で息絶えてしまいそうな、どこか生気の欠けた色の淡い瞳で、いつも伏せ目がちに人を見る。
 全身から、尖った針を突き出しているような、陰気なとげとげしさが、グレートといるとやわらぐのは、あれはやはり、あの男はあの男なりに、グレートを深く愛しているということなのだろうか。
 あれは、誰も信頼していない目だ。恐れと怯えと、その中に苦痛だけをたたえた、手負いの獣の瞳だ。
 グレートだけが慰撫できる、何か大きな傷を、あの男も抱えているのだろうと、ジェロニモは、いつの間にか自分の胸を手で押さえていた。
 グレートが、電話から手を離して、またソファの方へ体の向きを変えた。
 グラスをテーブルに置いて、また所在なさげに、つるりと頭を撫でる。
 「・・・店が終わるまで、ここで寝るか。時間になったら、起こしてくれ。」
 言うなり、どさりとソファに腰を下ろして、シャツの袖のボタンを外し、ソファの両脇に、頭と足首をそれぞれに乗せて、もぞもぞと体の位置を整える。
 ジェロニモは、少しの間呆気に取られて、ソファに横たわるグレートを眺めた後、それなら自分はどうしようかと、ドアの方へ意味もなく目をやった。
 グレートは、何も言わないまま、仰向けに、顔はソファの背の方へ軽く向けて、もう目を閉じてしまっている。
 酒を片付けてしまおうかと思ったけれど、それはそのままにしておくとこにして、ジェロニモは、とりあえず机の上の小さな明かりを残して、部屋の明かりを消した。
 ようやく足元が見える薄闇の中で、物音を立てないように、何かにぶつからないように、そろそろと動きながら、眠るグレートを見守ることも邪魔になるだろうと、部屋を出てゆくことにする。
 上のバーに、コーヒーくらいはあるだろう。
 すべきことはないかと、もう1度部屋を見渡してから、机の上の携帯電話のことを思い出す。一緒に持って行こうかと思ってから、けれどそれを、グレートの手が届く辺りに、ソファの傍のテーブルの上に、そっと置いた。
 酒のボトルとグラスは、うっかり倒してしまわないように、グレートから遠去けて、3人掛けのソファに、すっぽりと収まってしまっているグレートの体に、ジェロニモは、自分の上着を脱いで掛けた。
 ほんとうに寝てしまっているのかどうか、よくわからない。グレートの横顔を凝視してから、ジェロニモは、ゆっくりとその場から立ち去った。
 そっとドアを閉めて、腕時計で時間を確かめて、振り返らずに上へ向かう。
 アルベルトからの電話は、今夜はないだろうと、そんな予感がした。
 グレートが見る夢に、それでも彼が現れてくれることを願いながら、ジェロニモは、上へ向かう階段を1段飛ばしに、何かを振り払うように、力強く駆け上がって行った。


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