The Restless Ones

scene #1



 アパートメントの階段を上がる前に、深呼吸をした。
 もう、儀式のようになっている、その、ため息のような呼吸で、唇を引き締めて表情を消すと、ようやく、足を上げて、階段を昇り始めた。
 部屋にたどり着くまでに、無意識に、数を数える。
 足を止め、一瞬、呼吸を止めて、それから、ドアを開いた。
 部屋の奥から、立ち上がって、こちらへ来る大きな人影がある。
 ハインリヒは、それを見て、知らずにあごを引いた。
 「お帰り。」
 ぼそりと、低い声が言う。
 他の場所で見れば、滑稽なのかもしれない、黒い革の上下は、彼の性的嗜好を端的に表していて、どこか紗のかかったような、淡い緑の瞳は、けれどねめつけるように、こちらを凝視している。
 閉めたドアに、背中をぴったりとつけるようにして、目の前の、長身の、実のところ胸に厚みのある体を、少しばかり気圧されながら、ちらりと眺める。
 真っ赤に逆立てた髪も、耳にいくつもぶら下がった金色の輪も、横に広く、ぷっくりと盛り上がった唇も、挑発的で、そしてひどく扇情的だ。
 開いたままの---きちんと閉じることなど、ない---ジャケットの胸にも、銀色のピアスが、ひとつずつ通っている。
 そこに、細い鎖を通して、正面から犯されながら、鎖を引かれるのが、大好きだった。
 自分よりも、やや見上げるほど上背のある、触れれば厚い筋肉に包まれた体の、この若い男を、ハインリヒは、飼っていることになっている。
 奴隷として。


 彼は、ハインリヒに、首輪を差し出した。
 厚い、太い革に、銀の鋲がずらりとついていて、鈍く光っている。じゃらりとした、長い鎖もついていた。
 受け取って、自分の前に、膝立ちになる彼の前に1歩近づくと、まるで、正面から抱き合うような形で、ハインリヒは、その首輪を、彼の太い---けれど、線は、見惚れるほどきれいだ---首に回す。
 彼は、ハインリヒのみぞおちに、猫か犬のように額をすりつけ、ハインリヒが、外から持ち帰った匂いをかぐ。
 着け終わって、鎖を右手に、彼の、首の後ろの、髪の生え際を撫でてやる。
 彼が、くすぐったそうに首を縮め、喉の奥で、小さく笑った。
 鎖を握る手に、力を込めて、ハインリヒは、立ち上がるように、促す。
 ゆらりと、長身が、まるで威圧するように、目の前で伸び上がった。
 鎖を引いて、ほんとに、奴隷を、市場にでも引き立てるように、そのままソファの方へ歩いてゆく。


 ソファに腰を下ろして、足を組み、鎖の端を握ったまま、数瞬思案した後、伸び切った鎖を、軽く引いた。
 「坐れ。」
 目の前の床を、あごでしゃくると、真っ赤な髪がゆっくりと沈み、目の前に、片膝を立てた、奇妙に自堕落な姿勢で、黒い人影が床に落ちる。
 「お帰り。」
 また、彼が言った。
 媚びるような上目遣いで、少し甘えた声で、そう言って、自分たちの間に伸びた鎖に、指先を触れる。
 指の長い、大きな手。手首の大きさは、彼が、実のところ骨太ではないことを示している。厚い胸と、そいだような腰と腹の線を思い出して、ハインリヒは、こっそりと、欲情する。
 しなやかな筋肉。張りつめた膚の下で、動いて、淫靡な影をつくる。長い手足と、しっかりと筋肉のついた、そのくせ、一見華奢に見える---見えるだけ、だ---体。
 ようやく、耐えられそうな気がして、ハインリヒは、やっと、彼の名前を口にした。
 「ジェット。」
 音の短いその名前は、彼によく似合う。
 その音と、彼の皮膚の手触りと、自分を包み込む筋肉のうごめきと、それが、絡み合って、ハインリヒの脳を染める。染まれば、もう、他のことは、何も考えられなくなる。
 鎖を軽く振ると、じゃらりと音がする。
 名前を呼ばれたジェットは、厚い唇を曲げて、ハインリヒに笑いかけた。


 四つん這いになって、頭を下げ、腰を高く上げた格好で、ハインリヒの靴に、接吻する。
 よく磨かれた、けれど、外から戻ってきて、埃をかぶっているその革靴を、両手で抱え込んで、靴の先から、ひもをたどり、そして、ちらりとみえる甲と足首に、薄い靴下越しに、接吻する。
 犬のような、そんな姿を、ハインリヒは、鎖を握りしめたまま、無表情を崩さずに、眺め下ろしている。
 長い指が、するりと、ズボンのすそから入り込んで来て、靴下を引き下ろし、現れた皮膚に、口づける。
 また、顔の位置が、少し動いて、ジェットが、靴のひもを、歯で噛んで、そのまま引いた。
 するっと解けたひもの端を、まだ、口から垂らしたままで、ジェットが、ゆっくりと靴をぬがせる。ほんとうに、犬のように、口から、脱がせた靴をぶら下げたまま、体を起こして、成果をハインリヒに見せつける。
 腕を差し出して、靴を取り上げてやりながら、
 「いい子だ。」
 ささやくように言ってやると、ジェットが、どこか淫蕩に、うれしそうに笑う。
 ハインリヒの足を、膝の上に抱え上げて、今度は靴下を取り、それから、愛しげに、その足裏に、接吻した。
 土踏まずの、ゆるいカーブに舌を滑らせ、それから、足の、いちばん薄い部分を、軽く咬む。時々、濡れた音を立てながら、うっとりとした表情で、ハインリヒの足の形の、すみずみを、舌先でなぞる。
 並んだ足指を、ひとつひとつ口の中に入れ、しゃぶって、歯と唇で、見えない跡を残す。小指が、特にお気に入りで、放っておけば、いつまでも舐めている。
 そうしながら、ジェットの頬は、軽く上気し、唇を外す合間に、少し荒く息をこぼし、唇はもう、濡れたままになる。
 潤んだ瞳をこちらに向けて、誘うように、長い睫毛が、揺れる。
 足の甲に、軽く歯を立て始めた頃、時折、左手が、膝の内側や腿の奥へ、こっそりと伸びるようになる。
 見咎めて、ハインリヒは、軽く足を振った。


 ジェットが、唇を外して、少しだけ怪訝そうに、ハインリヒを見る。
 足を持ち上げ、ジェットの手から取り上げると、手の中にあった鎖を投げ、ハインリヒは、ジェットの肩を軽く蹴った。
 「上着を、脱げ。」
 なるべく、平たい声で、そう言ってやる。
 ジェットが、うれしそうに、にやりと笑うと、仕草を見せつけるように、肩から、革のジャケットを滑り落とした。
 脱げば、盛り上がった肩と、大きな---決して、太すぎはしない---二の腕が、誇示するように、あらわになる。
 押さえつけられれば、自分の方が負けるのだろうなと、また何度目か、ハインリヒは思った。
 正座の形で、腰を軽く持ち上げ、大きく膝を開いて、こちらに強調するように、腰を前に突き出す。
 濡れた唇を、濡れた舌が、舐めた。
 無防備な上半身に、大きな首輪が、ひどく淫らに見える。
 ハインリヒは、ジェットが抱え込んでいた素足を伸ばし、ジェットの、みぞおちの下に触れた。
 触れた瞬間に、腹筋が動いたのが、見えた。
 だらりと垂らした腕にも、軽い緊張の、筋肉の線が浮く。それを見届けて、ハインリヒは、爪先を、もっと上へ滑らせる。
 肋骨のカーブをなぞってから、銀のリングの通った、胸の突起に、爪先を触れた。
 ジェットが、唇を噛んだ。
 指の先に、引っ掛けるようにして、そのリングを引っ張ってやると、今度ははっきりと、声がもれた。
 低い喘ぎは、爪先を動かすたびに大きくなって、自然に、ジェットの腰が揺れる。その声を、もっと聞いていたい自分を抑えて、ハインリヒは、ジェットから、足を遠去けた。
 「また、ひとりで、サカってのか・・・。」
 冷たい声で、低く言うと、ジェットが、上気した頬のまま、それでも、気の強そうな瞳の色はそのままで、軽く開いた唇の間から、舌先をのぞかせる。
 ゆるゆると、首を振って見せた。首輪から、床にたれた鎖が、しゃらりと音を立てた。
 「・・・アンタが、自分でさわるなって言うから、ガマンした。」
 声と口調のわりに、稚ない言葉遣いで、ジェットが答える。
 大人の男の外見のくせに、内側が、どこかまだ、少年じみている。その、奇妙なバランスを見つけるたびに、踏みにじってやりたいと思うのは、おそらく、ジェットがそう仕向けたことなのだろう。
 「我慢できたのか・・・?」
 重ねて訊くと、初めて、少しだけ羞恥を刷いて、口ごもった。
 「・・・手なんか使わなくたって、勝手にイッちまう。」
 唇を、軽く突き出した横顔に向かって、ハインリヒは、少しだけ、凄みを含んで言った。
 「そうだろうな・・・おまえみたいな、色きちがいなら。」
 言葉を受け止めた瞬間に、ジェットの頬が、線が溶けるように、ゆるんだ。
 欲情、と、そこに書いてやりたいと思ってから、ハインリヒは、耐えるために、唇を引き締める。


 肩をまた、爪先で突き飛ばし、そのまま床に寝そべれと、命令した。
 ジェットは、長い膝下を、腿の下に引き込んだまま、背中を床につける。不自然に、腰と腹の浮き上がった形で、無防備に、裸の胸で横たわる。
 立ち上がり、ゆっくりと、ジェットの傍へ行った。
 自分を、視線の先に追っているジェットの、瞳の動きをとらえて、そこにある、怯えのない期待を、ハインリヒは冷たく見下ろしてやった。
 素足の方の足を、ジェットの腹に乗せる。
 それから、ゆっくりと、もっと下へ移動させた。
 ぴったりとした革の、滑らかな感触。突き上げるようにある、確かな熱と、形。軽く踏みつけると、弾き返す硬さがあった。
 ジェットが、喉の奥で、声をもらす。
 「・・・ごほうびが、欲しそうだな。」
 ジェットが、こすりつけるように、軽く腰を持ち上げてきた。
 もっと強く踏みつけてやると、ジェットが喉を反らして、開いた唇から、舌先を突き出した。
 その足に、ジェットの掌が重なる。
 床から浮いた腰に、ジェットが、こすり上げるような動きを始める。
 「もっと・・・くれよ、早く・・・・・・アンタの・・・」
 潤んだ目が、誘うように、ハインリヒを見上げていた。
 ジェットの手から、足を取り上げて、ハインリヒは、それに向かって、ひどく横柄な態度で、あごをしゃくった。
 「自分でやれ。俺の手を、煩わせるな。」
 ジェットの唇が、軽くとがる。 
 それでも、両手が前に伸びて、勃ち上がった熱を、見せつけるように取り出した。
 裸の腹に、触れそうに近く、欲情が形を晒している。長い指が、それに絡みついて、たどり着くために、動き始めた。
 ジェットは、あごを突き上げるようにして、ハインリヒを見つめている。
 瞳の色が、もっと薄くなる。金色に近い光が差し、こぼれそうに、潤みが増す。
 頭の中で、一体何を考えているのだろうかと、思った。
 痛めつけられること、踏みつけにされること、誰かに、コントロールされること。
 そんなことで、この頭は満たされている。満たされて、その中に溺れて、悦びにのたうち回りながら、そのうち、ひとり芝居の妄想では、物足りなくなる。
 だから、引きずり込まれたのだと、ハインリヒは思った。
 声を上げて、体を揺すりながら、行き着くことに、没頭している。
 ジェットのみぞおちを、また、踏みつけた。
 声がまた、高くなる。恥ずかしげもなく、激しくこすり上げながら、時折止まる指先に、自分で吐き出したぬめりが見える。
 今すぐ、その脚を開かせて、めちゃくちゃにしてやりたいと、そう思う自分を、ハインリヒは、必死で止めた。
 爪先で、くすぐるように、硬さを増した胸の突起をなぶり、胸のリングを、ちぎれそうなほど強く、引っ張ってやる。痙攣するように、腹筋が、小刻みに震えた。
 ぶるぶると、全身が小さく揺れて、白い腹の上に、飛び散る。
 体を投げ出すように、腰が床に落ちて、胸が、大きな呼吸で上下する。
 右手を、軽く胸の前に置いて、ジェットが、少しの間だけ、背けていた顔を、またこちらに戻した。
 胸と首が、赤く染まり、リングのたくさんはまった耳も、同じような色に変わっている。
 がまんしたと言ったのは、うそではなかったらしいと、ハインリヒは平坦に思った。
 ジェットの腹に、また、足を戻す。ぬめりの飛び散った辺りに、わざと爪先をひたして、ジェットを軽く睨んだ。
 こちらに向いた、ジェットの唇に、その、濡れた爪先を運ぶ。
 「・・・舐めろ。おまえのせいで、汚れた。」
 斜めにハインリヒを見上げて、うっすらと笑って、ジェットが、唇を開いた。
 体を軽く起こして、唇の中に、汚れた爪先を、招き入れる。
 ジェットの、熱い濡れた舌が、また、ハインリヒの素足をなぞる。
 引かれて、じゃらりと音を立てた鎖が、床の上で、のたうった線を描いていた。
 ジェットに、どこか似ていた。


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