The Restless Ones

scene #10



 かちりと歯が、ジッパーの金具に当たり、音を立てて前が開く。
 下着の上から、頬や唇を当てて、上目にピュンマが、大きく笑う。
 軽く歯を立てられて、やっと直に触れてもらえるのだと思っていたのに、ピュンマはそれ以上は手も触れずに、ハインリヒの脚の間に、ゆっくりと立ち上がった。
 「・・・ここじゃなかったら、縛ってあげるんだけどな。」
 恐ろしいことを、艶やかな声で言われ、言葉の意味を汲み取りながら、頭のどこかでは、まったく別の意味合いに、心地良く響く。
 誘惑、という、日常では滅多と思い出しもしない言葉がふと思い浮かんで、ハインリヒは、知らないまま、唇をうっすらと開いていた。
 「おいで・・・」
 ピュンマが、掌を上に向け、軽く立てた人差し指で、ハインリヒを手元に招く。
 まるで、猫にでもするようなそんな仕草に、いつもなら即座に腹を立てるに違いないのに、今は、まるで操られたように、ふらりと椅子から立ち上がっていた。
 「ここに、おいで。」
 同じ人差し指で、ピュンマが自分の足元を指し示す。
 どこか、紗のかかった視線でピュンマを見上げたまま、ハインリヒは、素直にそこへ膝を落とした。
 ピュンマの指が頬を撫でて、そこから頭の後ろへ滑る。あごを持ち上げるように、そのまま軽く引き寄せ、その間、ピュンマは一瞬たりとも、ハインリヒから視線をそらさない。
 馴染み深い姿勢は、けれどいつもは逆の立場だ。こんなふうに、ジェットは自分を見上げているのかと、光が瞬くように思う。
 蔑んで、ジェットを見下ろすハインリヒとは違い、ピュンマの瞳は、どこまでも淫靡だ。吸い込まれそうな、黒々とした瞳から目をそらせず、ハインリヒは、もう、そうしてしまっているように、ぽかんと口を開いていた。
 「・・・今日は、初めてだから、キミの好きにしていいよ。」
 いつの間に、自分が欲しがっていることになってしまったのだろうかと、頭のすみでぼんやりと考えた。
 けれど、その疑問を解くよりも、もっと大事なことが、今は目の前にあった。
 ぴったりと体に張りついた、ウエスト位置のひどく低いジーンズに手を掛け、時折ピュンマの膚にじかに触れる指先が、しびれて動かなくなる。うまく、素早くできないことに焦れながら、それを、頭上で笑われているのを感じながら、ハインリヒは、必死で指を動かした。
 それから、やっと目指すそれにたどり着き、今まで目にしたことのないその色合いと、大きさに、ハインリヒは、一瞬ひるんだ。即座に期待にすり替えるには、それは想像以上で、ジェットの、あの横に広い唇がいっぱいに開いている様を思い浮かべて、ハインリヒは、どうしてかそちらに欲情する。
 ジェットの、目を閉じた顔を思い出しながら、その幻に目を細め、ピュンマを目の前にして、ジェットのことばかり考えている自分を、おかしな奴だと思う。
 おずおずと、両手を添えて、いつも下目に見下ろすジェットの表情を思い出して、それを向こうに追いやりながら、ハインリヒは、何度も何度もためらって、ようやく心を決めたように、もっと大きく口を開いた。
 けれど、唇が触れるよりも一瞬早く、ドアの向こうで、こちらへ走ってくる足音が聞こえ、ハインリヒは我に返って、床から立ち上がってそちらへ振り向いた。
 ばんと、音を立てて開いたドアの向こうから、ジェットの長身が現れて、口元にだけ笑いを浮かべて、大きな歩幅でこちらへやって来る。
 慌てて、ちらりとピュンマの方へ視線を走らせると、いつの間にか、ピュンマはそうとはわからない程度に身支度を整えていて、少なくとも、たった今そんなことをしていたとは、ジェットにはわからないだろうと、ハインリヒは、不安を拭い去るように安堵する。
 その安堵が、ほんの慰めにしかならないことを、心の底ではわかってはいたけれど。
 ジェットは、向かい合っているハインリヒとピュンマを交互に見て、けれど何も言わず、決して友好的には見えない笑みだけは消さないまま、黙ってハインリヒの肩に腕を回した。
 それから、ピュンマに向かって肩をすくめ、ピュンマが、それを見て、ひくりとかすかに眉の端を上げる。
 ふたりとも、うっすらと笑みを浮かべていたけれど、目はちっとも笑ってはいなかった。
 言葉を失ったまま、ふたりの視線のぶつかり合いを、狼狽しながら見守っていたハインリヒの耳元に、ジェットが唇を寄せる。
 鼻先を首筋に埋めるようにしながら、ささやきが聞こえた。
 「・・・助けにきたぜ、ご主人様。」
 耳の内側にかかる息に、びくりと肩が震えて、やはりばれていたのかと、羞恥に頬が染まる。
 ピュンマには聞こえていないはずの小声だったけれど、挑むようなジェットの瞳に、それを悟らないピュンマであるはずもなく、ハインリヒは、ふたりの間で、このまま永久に消えてしまいたいと、真剣に願った。
 肩に乗ったジェットの腕に、いっそう力が入り、それが促しであるかのように、ジェットはハインリヒを抱き寄せたまま、体をくるりと回した。
 「帰ろうぜ。」
 ピュンマへは一言もなく、振り返りもしないジェットに、引きずられるように部屋を出て行きながら、ハインリヒは廊下へ曲がる一瞬に、ちらりとピュンマを盗み見た。
 両腕を組んだ胸を反らし気味に、ふたりを見送りながら、ピュンマの唇が、怒りにねじ曲がっているのが見えて、ハインリヒは、慌ててそこから目をそらした。


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