The Restless Ones
scene #5
店に入ると、もう、ためらいもせずに、ハインリヒの手を取る。
店の中は相変わらず白っぽく、奥へ近づけば近づくほど、消毒薬の匂いが、鼻を刺した。
一番奥の部屋の扉を開け、ジェットが入ったその後に、ハインリヒは、肩を少しだけすぼめて、滑り込んだ。
ジェットの肩の後ろに刺青を彫った黒人の男が、今日も、にっこりと笑って椅子の傍にいる。
「来たね。」
笑う男が、ジェットの首に腕を回し、ハインリヒの目の前で、まるで軽い挨拶のように、ひどく深い接吻を交わした。
そんな必要があるとも思えないのに、ジェットは全裸になると、黒人の男---やっと、ピュンマだと、ハインリヒに名乗った---に促されて椅子に座り、肘置きに足を開いて乗せ、今日、針を刺す部分を、恥ずかしげもなくさらけ出す。
丁寧に剃った下腹と、その周辺を、ピュンマの、白い医療用のゴム手袋の指先が、確かめるように撫でる。そこから、ちらりとハインリヒに視線を投げて、にやりと、厚い唇が笑う。
ジェットにねだられて、剃ってやったのはハインリヒだ。今、ジェットがしているのと同じ姿勢で、そうして、足の間に顔を埋めるようにして、柔らかな皮膚に泡を塗りつけ、鋭い刃を、こすりつけた。
他の部分よりも、少しばかり青白いそこの膚は、奇妙にあどけなく、けれど開いた脚の間では、ジェットが、そんな稚ない子どもではないことを、しっかりと示している。
ピュンマは、開かせた足を、椅子に革のベルトで固定し、それから、ジェットの胸に通ったリングに、銀色の華奢な鎖を渡した。
その鎖を、具合を確かめるように手前に引くと、ジェットが、唇を噛んで、目元を染める。
刺青を彫るだけではなく、ふたりの間のお遊びなのだと、とっくに悟ってはいても、こっそりとじゃれ合うふたりを目の前にして、ハインリヒは、落ち着かずに視線を泳がせた。
「どこに彫る?」
ジェットとピュンマが、刺青を入れる予定の場所に、同時に視線を落として、ハインリヒは、さり気なく、そこからは視線をずらした。
手を伸ばし、ピュンマに見えるように位置を変えながら、ジェットが、ここ、と指で指し示した。
「今は、"A"だけでいい。」
「なんだ、裏側に入れるの? それじゃ見えないよ。」
ジェットが、ハインリヒを斜めに見上げて、にやっと笑った。
「いいんだよ、見せたい時に、見せたいヤツにだけ、見えればいいだろ。」
持ち上げ、自分の腹に添うように反らせ、こすり上げる手つきを見せて、何を言っているのかを示そうとする。
自分の下で、大きく足を開いて、真正面から受け入れようとするジェットの姿が、一瞬の間に脳裏に浮かんで、その幻の鮮やかさに、ハインリヒは思わず口元を掌で覆う。
頬の赤みを見咎めたのか、ジェットが、へへっと笑った。
「・・・キミがいいなら、それでいいけどね。」
応えるように微笑んだピュンマの目が、冷たく金色に光った。
まるで子どものように、ジェットの手が伸びて、ハインリヒの手を握りしめた。
不安や痛みをまぎらわせるためではなく、ジェットが経験している苦痛---と快感---を、ハインリヒに共有させるためだった。
容赦なく突き立つ針の先から、ぷつぷつと、赤い血がこぼれ、そのたび、ジェットのみぞおちが上下して、浅く吐く息の音がもれる。
時折首を振り、もう一方の手で、椅子の足をつかんで、爪を立てているのか、かちかちと音がする。
額に汗が浮き、目元を薄赤く染めて、痛みよりもむしろ、快感に苛まれているように見えた。
ピュンマは、しっかりと手を添えて、さっきの笑みは、今は一片もなく、触れれば切れそうなほどの真剣さで、そこだけに視線を当てている。
それでも、針の動きに合わせてうごめく、ジェットの張り切った腿の内側や、手の中で少しずつ張りつめてゆくその形に、数瞬、視線が動く。
食い縛る奥歯の形が、頬に浮き上がる。鋭い、あごと首を繋ぐ線が、かすかに震えているのを見て、ハインリヒは、そっと握った手に力を込めた。
体中のどこも、与えられる痛みに、素早く反応して、まるで、こちらに見せつけるように動く。ピュンマの掌の中で、とっくに形を変えてしまっているそれから、真っ直ぐの視線を外しながら、それでも視界の端におさめ、こんな時に、こんな痛みにさえ、そんな反応のできるジェットに、うっすらと敬意さえわく。
苦痛に反応して、昂ぶる躯は、今は、いつも以上に正直に、突き刺さる針の先を、まるで濡れた舌か何かと、取り違えているようだった。
Aという文字の輪郭を彫り終わるのに、そう時間はかからない。
同じ色で、輪郭の中を染めるピュンマの、白いゴム手袋の指先は、ジェットの膚に流し込まれるインクの色で、青黒く染まっていた。
ジェットの胸と首は、真っ赤に染まっている。まるで、ハインリヒの上か下で、必死になっている時のようだった。見つめられているのを知っているのか、伸びた舌が、誘うように動いて、上唇をゆっくりと舐めた。
その舌の動きに、生暖かく絡みつく、濡れた感触を思い出して、ハインリヒは、慌てて目を伏せる。
柔らかく締めつける、ジェットの粘膜。口の中だけではなく、もっと狭く秘められたところへ、誘い込まれて、貪られる。
正面から繋がれば、これからはきっと、下目に見えるのは、自分を指す、濃い青の、Aという刻まれた文字だ。奴隷の印だと言いながら、それは服従の意味ではなく、むしろ、繋がれ、絡め取られてしまっているのは、ハインリヒの方だ。
今すぐ、ジェットを犯して、思い知らせてやりたいと、ひどく凶暴な衝動にとらわれて、そんな自分に戸惑う。
ジェットが、斜めに瞳を動かして、にやっと笑う。汗に濡れた頬や額が、筋肉の動きにつれて、きらりと光った。
それから、空いた手で、胸に通った鎖を取り上げ、口元に運ぶ。リングの通った胸の突起を、自分で痛めつけるために、華奢な鎖を歯で噛み、あごを上げて、上に引く。
細い鎖は、ジェットの唇の端とあごに食い込み、硬く尖っている突起を、リング越しに、引きちぎろうとする。
ジェットの手が、ハインリヒの指を、強く握った。
あ、と声がもれ、わざとなのか、そうなっただけなのか、歯列に引っ掛けていた鎖が、しゃらりと、また胸に落ちる。絡んだ唾液が、それを追って、糸を引いた。
どこか、がっかりした表情で、ジェットはハインリヒを見上げ、開いたままの唇の中で、舌を動かして見せた。
握っていた手を引き寄せ、舌を差し出して、指先を舐める。ぴちゃぴちゃとわざと音を立てながら、時折、痛みにもれる声を耐えるように、関節に歯列が食い込む。
ジェットが舐めしゃぶりたいのは、指なのではないのだと、その場の誰にもあからさまだったけれど、そんなふうに、強く歯を立てられるのはごめんだった。
口に含んでいるのは、ただの指なのに、ジェットの声が、次第に大きくなる。
ジェットの舌から、今すぐ指を外して、この部屋を出て、ひとりになるべきだと思いながら、同時に、大きく開かれて、縛られたジェットの両脚の間に、全身を叩き込みたくて、けれどどちらの選択も、自分が恥をかくだけだと思って、ハインリヒは、沸騰して、溶け始めた末端神経の一部を取り戻すために、固く目を閉じて、胸の中に、無機質な数字を並べ始めた。
ハインリヒの指を甘噛みし、しゃぶって、掌まで唾液で濡らして、ジェットが、荒く息を吐き始める。
耐える気もなさそうなその声が、ひどく淫猥に、天井にまで響いた。
ようやくピュンマが立ち上がり、ゴム手袋を外して、肩が痛むとでも言いたげに、首を数度、横に曲げた。
ジェットは、椅子の背に首を乗せ、あごを突き上げて、疲れた---痛みのせいではなく---横顔で、大きく息を吐く。
まるで、慰めるように、汗に濡れた額を、さっきまでジェットが舐めていた指先でそっと拭ってやる。ジェットが顔を持ち上げ、唇だけで笑って見せた。
「場所が場所だから、熱が出ないように気をつけた方がいいよ。」
硬い口調でジェットに言ってから、ピュンマの視線が、ハインリヒに移る。
無茶をさせないように、しないようにと、目顔で言われているのかと思って、その視線を真正面から受け止めて、口元を引き締めかけたハインリヒに、ピュンマが不意に、艶やかに笑いかけた。
「・・・血の色が、似合いそうな膚だね。」
黒い、爪は桃色の指先が、ハインリヒの頬に伸びてくる。
微笑みから視線をそらせないまま、指先と瞳の動きに、射すくめられたように、動けない。
頬をかすめた指先が、唇に触れ、喉に落ちようとした。
「オレのだ、触るな。」
椅子から背を浮かし、にいっと笑ったジェットの声が、鋭く飛ぶ。
ふたりで同時に、そちらに顔を振り向け、ハインリヒは、思わず頬を染め、ピュンマは、指の動きを止めて、唇の端を、軽い狼狽で歪めていた。
それぞれの思惑で、それぞれに視線を流し、一瞬凍った空気から逃れるために、ハインリヒは、ほんの数センチ、ピュンマから肩を引いた。
ピュンマの腕が去り、ジェットはまだ、椅子に足を開いて縛られたまま、けれどふてぶてしい笑みを浮かべて、うっとりとハインリヒを見上げていた。
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