The Restless Ones

scene #8



 熱で赤い顔をしたまま、額に汗を浮かべているジェットを寝かしつけながら、ハインリヒは火照った頬に手を添えて、静かな声で何気なく訊いた。
 「ピアスも刺青も、相当痛いんじゃないのか。」
 まだ薄く開いていた目を、大きく開けて、瞳が上目に動くと、線の鋭い男っぽい顔立ちが、少し稚なくなる。それを見下ろして、ほんの少しだけ跳ねた心臓に、自分で驚きながら、ハインリヒは、ことさら唇の線を引き締めた。
 「別に、死ぬほど痛いわけじゃないぜ。」
 そうか、と浅くうなずいて、どうしてそんなことを、今さら訊くんだと、不思議そうな表情を浮かべたジェットの、さっきまで自分をあやしていた横に広い唇を指先で撫でて、ハインリヒは、
 「寝てろ。遊びは終わりだ。」
 毛布の下で、ジェットが広い肩をすくめ、にいっと笑って見せてから、やっとおとなしく目を閉じた。


 あの男に、ジェットはいないところで、ふたりきりで会ってみたいと、ずっと、口にはせずに考えていた。
 眼の光の鋭いあの男は、おそらく聡く、それを悟っているように思えて、だから店にひとりきりで足を運んで姿を現した時に、彼が、おととい一緒に飲んだ友人に会った時のように、格別驚いたふうも見せなかったことを、ハインリヒは訝しむことはしなかった。
 タトゥーショップが、一体いつ頃客が途切れる頃なのか見当もつかなかったけれど、ジェットがいつも真っ直ぐにそこへゆく、奥の部屋に、彼はひとりきりでいた。
 やあ、来たね。
 振り向いて、くらりと心が傾きそうな、大きな笑顔を浮かべて、その桃色の唇に触れられるなら、何だってする人間たちもたくさんいるだろうと、ハインリヒは思いながら、目を細めた。
 白い薄いTシャツは、体に張りついて、今まではあまりじろじろと眺めないようにしていた---いつもは、ジェットが一緒だから、他に視線が行くことなど、ほとんど有り得ない、ということに、ハインリヒ自身はあまり自覚がないけれど---胸元に、片方だけリングが通っているのを見つける。削いだような背中から腰にかけての線と、見事な流線を描いて、かかとまで落ちる脚の線と、みぞおちから下腹は、じかに見れば、失神しそうだと、らしくもないことを思う。
 ジェットが、毛のふさふさとした、獰猛な動物を思わせるとしたら、黒檀の膚のこの男は、つやつやと黒光りする、しなやかな肉食獣を思い起こさせる。どんな時も、たった1匹で行動する、瞳だけが金色に輝く、真っ黒な獣。
 ハインリヒに観察するに任せ、ピュンマは、壁に作りつけの小さな作業台に、軽く腰を乗せて、うっすらと浮かべた微笑みを消さない。
 その微笑みにやっと気づいて、ハインリヒはいつものマナーを思い出し、自分の無礼を恥じて、目を伏せる。
 「満足した?」
 ふたりきりで聞く声は、とろりとした糖蜜のようだ。
 「体に触れさせるなら、信頼が先にないと、無理だと思わないか。」
 自分の不躾さを詫びる代わりに、そんなふうに言ってみた。
 説明の必要などなく、ハインリヒがここへやって来た理由もわかっているだろうし、ハインリヒの言わんとしていることも、何もかもを悟っているように思えたので。
 「建前だね。触れてみないと、わからないこともある。」
 微笑みながら、すっと瞳が細くなって、光が強くなる。
 にらまれたのだと思って、ハインリヒは、瞬きを十数秒、我慢して、その視線を受け止めた。
 長い時間だったような気がして、やはり先に視線をそらしたのはハインリヒの方だったけれど、真っ向からにらみ合って来るとは期待していなかったのか、ピュンマは、うっすらと驚きを目元に刷いて、いら立ったように唇の端を、ほんの少しだけ歪めた。
 部屋の端の方へ向いて、ハインリヒに横顔を見せると、ちらりと視線を流してから、不意に思いついたように、作業台から腰を浮かせる。
 まるで、怯える野良猫に近づくように、悪いことはしやしないという態度で、腕を伸ばしながらハインリヒに近づいて来て、肩を後ろに引きはしても、後ずさりはしないハインリヒの頬に、黒いなめらかな指先を、そっと触れさせてきた。
 指先の触れた頬が、急に熱くなったような気がして、もしかして、自分は頬を染めているのかと、ハインリヒは内心慌てた。
 ジェットが、とピュンマが言った。
 その名前を聞いた途端、乱暴にピュンマの手を振り払うと、ハインリヒは突然の怒りに大きく見開いた瞳で、音がしそうなほど強く、ピュンマをにらみつけた。
 首を伸ばしても、絶対に視線の並ばないハインリヒの前で、ピュンマは胸を反らすようにして、そこで腕を組んだ。虚勢ではなく、視線を少し斜めにして、ハインリヒをあしらうように、軽くあごを振る。
 「・・・ボクらは、ただのプレイメイトだよ。もっとも、ボクはとても彼が好きだけどね。」
 ひるみもせずに、からかうようにピュンマが言う。
 「・・・それも、触れてみないとわからないことのひとつか?」
 言いたいことはわかるだろうと、からかいには乗らずに言葉を投げつける。
 「ボクらは、臆病者じゃないだけさ。欲しいものは欲しい、ほんの少しだけ、貪欲なだけだよ。」
 心の内側を見透かされていることに気づいて、ハインリヒは、面には出さないように、愕然とする。
 一緒にいて、直接触れ合っているジェットに、知られていることはいい。躯を繋げること、あるいは、ある種のことを共有することというのは、ことさらそうしようと努める必要もなく、相手の内側を覗かせてしまうことだから。だから、ジェットが、ハインリヒのことを知っているのは、今さら驚かない。
 けれど、ろくに口も聞いたことのないピュンマに、見透かされているのは何故だと、ハインリヒは唇を震わせた。
 「・・・どうも、あいつはおしゃべりが過ぎるようだな。」
 「どうだろう、彼は口は堅い方だよ。」
 ハインリヒを安心させてから一瞬の後、素早くピュンマがさらりと続ける。
 「もっとも、他の口はどうかな。キミも、知ってるとは思うけど。」
 先手先手を取られるのは、こんな状況に、ピュンマが馴れっこなせいなのか、それとも、ハインリヒ程度に絡んでくる連中など、そもそも敵ですらないということなのか。
 うまく反撃するきっかけさえ見つけられず、ハインリヒは口をつぐむしかなかった。
 「ボクは、彼の欲しいものを知ってるし、それを与えられる。それも、上手にね。」
 声の調子を変えて、まるで覚えの悪い生徒に、言い聞かせる教師のように、ピュンマが言った。
 それからまた、声が、催眠術のような響きを帯びる。
 「彼が何を欲しがってるのか、知りたいんだろう?」
 組んでいた腕がほどけて、また、頬に伸びてくる。
 今度は、まるで射竦められたように、動けなかった。
 「それが知りたくて、ここに来たんだろう?」
 とがったあごが上向いて、首と肩と鎖骨の、その骨組みはプラチナでできているのだと信じてしまいそうな線が、思わず下に向いた視界に入る。
 その美しさに奪われた視線は、長いまつ毛に縁取られた、濡れた黒い瞳に、一瞬の後吸い寄せられる。
 見つめ合ったまま、ピュンマがにやりと笑って、その唇が、ハインリヒの青い唇に重なった。


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