うわさになりたい -
番外編
「邪魔」
急ぎの仕事があるからと、なるべく早くすませるからと、ジェロニモは仕事部屋へ閉じこもってしまい、アルベルトは、おとなしく時間が過ぎるのを待っていた。
自分で紅茶をいれて、今夜たずさえて来た本は、もう終章を残すだけになってしまっている。
こっそり、おもちゃのピアノを叩きながら、ひとりきりで歌うという手もあったけれど、それでは冗談にもならないと、本を放り出して、一度ソファに寝転んだ。目を閉じて、少しうたた寝でもしようかと思ったけれど、かえって目は冴えて、今はソファの背に隠れて見えない、ジェロニモのいる部屋のドアを眺めやった。
仕事の邪魔が入ることは、ふたりの間では珍しい。軽い腹立ちに、気づかないふりをして、アルベルトは勢いをつけて起き上がる。そうして、今度こそ視界に入ったドアに向かって、大きくため息をついた。
もうすぐ深夜を過ぎる。先に眠ってしまおうかと思って、それから、とりあえずシャワーを浴びようと思いつく。
空になったマグを、テーブルから取り上げて、またため息をこぼして、キッチンへ向かった。
濡れた髪を拭いてから、先にベッドへ入っていようかどうか、まだ迷っていた。
床の上の、脱いだ服を見下ろして、意味もなくそれを爪先で蹴り、そこに残る、かすかな自分の体温の生暖かさに、何となくいやな気分が背中を走る。ひとりだと思ったせいだと、鏡の中で、つまらなそうな顔をしている自分を見た。
湯気でくもった鏡に映る、全裸の自分の姿から視線を外し、鉛色の掌で、みぞおちの辺りを撫でた。
バスルームの向こうはまだ静かなままで、ジェロニモが、まだ部屋から出ていないらしいことを悟って、アルベルトは唇を尖らせる。
仕方がないだろう。
鏡の中で唇が動いた。自分に言い聞かせているつもりで、声に出していた。
床から服を拾い上げ、全裸のまま、バスルームを出た。
紅茶をいれる。丁寧に、ジェロニモのやり方---アルベルトも知っているやり方---で、時間をかけて、いとおしむように、紅茶をいれる。
マグに注いでから、ジェロニモの仕事部屋へ行った。
ドアをノックして、そっと開いて、声だけ、中へ送り込む。
「紅茶は、どうだ?」
ほとんど開けていないドアに隠れて、ジェロニモの姿は見えない。こっちを振り返ってはいない遠さで、声が返ってくる。
「ああ、いいな。」
予想通りの返事に、アルベルトは、ドアを少し開いたままで、キッチンへ戻って、マグを運んでくる。
裸足の爪先でドアを押す。きいっとドアが開いて、カーペットを滑るように、部屋の中へ入る。ジェロニモはまだこちらへ振り向かない。机の上に顔を落として、ひどく真剣な空気が、肩の辺りに漂っている。
「まだ終わらないのか。」
「・・・もうちょっとだ。」
ほんとうか気休めか、ちょっとわからない声音だったので、アルベルトは声を掛けながら立ち止まって、ほんのちょっと首をかしげた。
ジェロニモの傍へ、音を立てずに進んで、横から、大きな机の上に広げられたさまざまな図面を避けて、ことりとマグを置いた。
ありがとうと、その形に開いた唇が、こちらに向かって動き出してから、ジェロニモの顔が上がる。すぐ傍に立ったアルベルトの姿を、もう1度上から下へ眺めて、惑うように瞳が、左右に数回泳いだ。
白いジェロニモのワイシャツは、クリーニングから戻って来たばかりなのか、衿も袖口も、手が切れそうにぴしりと伸びている。それだけを身に着けて、アルベルトは、両手で抱えたマグを口元へ運んでいた。
裾から伸びる素足と、開いた衿元に、ジェロニモの視線が当たって、笑われるのと黙り込まれるのと、どっちがどれだけましだろうかと、アルベルトは、往生際悪く考える。
ジェロニモは、横顔を見せて、やっと湯気の立つマグに手を伸ばした。
「もうちょっとって、どのくらいだ。」
これほどあからさまに誘いをかけたことなど、ない。
マグを置いて、ジェロニモの肩に手を掛け、椅子の背にもたれて、軽く開いているジェロニモの、その膝の間に、するりと、自分の膝を割り込ませる。シャツの合わせ目が割れて、脚の奥が見えるかもしれないと、そうしながら気づかない。
ジェロニモの腕が、軽く腰を支えてきた。
アルベルトを見上げながら、それでも視線は、机の上にも注がれて、ひとつのところには定まらない。
思ったよりも手強いなと、アルベルトは、ジェロニモの頬を両手で包んだ。
白い手と、鉛色の手。ジェロニモの頬に流れる白い線を撫でるように、指先をそこへ揃えて、それから、そっと唇を落とした。
ジェロニモの片膝をまたぐように、椅子の隙間に自分の膝を乗せ、そうして、剥き出しの脚を見せつける。腰に触れている手は、だぶだぶのワイシャツの下に何も着けていないことに、とっくに気づいているだろう。
ジェロニモが、机の方を見ないように、目の前に顔を固定して、息を吐きかけながら見つめ合う。それでも、ジェロニモの瞳が、アルベルトの後ろを、ちらちらと気にすることをやめない。
「まだ・・・」
言いかけた唇を、わざと音を立ててふさいだ。触れれば、応えてくる唇が、向こうから深くなることを期待して、重なりをほどく。また瞳が動く。何か言いかけて、言葉がこぼれる。終わらせずに、唇を重ねる。
「アル・・・ベル・・・ト・・・ま・・・だ・・・仕事・・・が・・・」
まるで、ゲームのようだった。
舌が動いて、唇を舐め、次第に湿り、不意に、重なりが深くなる。まるで、滑ったように舌と唇が、絡まり合って、続くはずの言葉を飲み込んで、それから、ジェロニモの手がついに、シャツの下へもぐり込んだ。
裸の腰に触れられて、もう、アルベルトは我慢できなかった。
ジェロニモの首に両腕を巻き、完全に視界をふさいでしまうと、椅子の背が折れそうにたわむまで、体重を乗せてゆく。ふたり分の重みに、椅子が、盛大にきしんだ。
「ベッドに、行こう。」
そうやって口にすることの方が、顔が赤らむほど恥ずかしいのは、どうしてなのだろう。
抱き寄せる腕が、自分を離そうとはしないことに安堵しながら、アルベルトは、ジェロニモの唇に、もう一度口づけを落とした。
「・・・明日の朝、早起きしなきゃならないんだが・・・。」
後ろへ向かって動いた視線は、けれどもう、諦めの色をたたえている。笑みを含んで。
「俺も一緒に起きる。でも、あんたの邪魔はしない。」
ジェロニモの掌が、背中を撫でる。その背で、早くジェロニモの心臓の音を聴きたかった。
重ねて、汗に滑る背と胸。繋がる時に満たしてくる、その確かな形に、せり上がる自分の声の甘さを思い出して、アルベルトは、赤くなった顔を隠すために、ジェロニモにまた抱きついた。
欲しくて欲しくて、我慢ができない。
ここで今、床に身を投げ出してもよかったけれど、そんなことをしたら、一生顔も上げられない様になる。
「・・・邪魔の仕方に、よるな。」
耳の近くで、静かにそう言われ、アルベルトは、すねたように、ジェロニモの肩に額をすりつけた。
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