「あらし」-番外編
Do You
酔った振りをしたわけではなかったけれど、結果的にはそうなった。
車を降りて、わざと寄りかかると、肩を貸してくれた。
ソファに、ぐったりを体を落とす前に、長いコートと上着を脱いで、構わずに床に落とした。
それを、さっきまで自分を支えていた腕が、静かに拾い上げて、右手の、ひとり掛けのソファに置いた。
これでもう、ジェロニモの今日の役目は終わったはずだけれど、アルベルトの酔いようを心配しているのか、なかなか立ち去ろうとはしない。
飛んで火にいる夏の虫だと、大きな体を、仕立てのいいスーツに包んだ、浅黒い膚の男を、アルベルトはとろんとした目で見上げた。
そう、狙っていたわけではない。ついさっき、車が止まる瞬間に、初めて思いついたことだった。
何より、淋しいのが、いちばんの理由ではあった。
ネクタイをゆるめて、わざとゆっくり、首のボタンを外す。足を長々と投げ出して、今にもソファからずり落ちそうに、かくりと首を、左肩の方へ折った。
両手を組むと、右手の革手袋が、左の掌に、奇妙にぶ厚く感じられる。剥き出しの右手で、最後に触れた他人の膚を、アルベルトはふと思い出して、さらに深く酔いが回るのを感じた。
寝入ってしまうような、そんな振りをしながら、うっすらを目を開けて、ぼそりと言った。
「男が欲しい。」
ジェロニモが、唇の端を上げたように見えたけれど、それは思い違いだったのかもしれない。
その男は、長い長い間、グレートだった。そして、ある日、ジェットが現れ、それからふたりは、同じ日に、同じ場所で、同じ時に、アルベルトを置き去りにして、永遠に姿を消した。
それ以来、アルベルトの膚の奥は、空っぽのままだった。
誰でも構わないのだと、思ったこともある。ただ、抱きしめて、膚をこすり合わせてくれるなら、そんなことを生業にしている連中のいるところへ、金を持って行けば良かった。
金を払わなくても、喜んで相手をしてくれる連中も、どこかにいるはずだった。
それでも、誰かの背中を抱きしめて、グレートではなく、ジェットでもないことを、思い知るのが恐ろしかった。
思い出をたぐり寄せて、死者の気配に触れてしまえば、自分が壊れてしまいそうだったから。
だから今まで、肌淋しい思いをしながら、ひとり寝のベッドを、誰かと分け合うこともせず、時折夢に、思い出したように現れるグレートとジェットの幻と、肌の熱さを重ね合うだけでいた。
ジェロニモは、まだ、表情も変えず、足元も動かさず、瞳と同じほど、定まらない声で、不埒を口にしたアルベルトを、じっと見返している。
「誰でもいい。男が欲しい。買って、連れて来てくれ。」
子どものように、通らないわがままを言っているだけだと、そう思っているのだろうか。
ジェロニモは、3秒、諌めるようにアルベルトを見つめてから、そっと首を振った。
「男、買う場所、知らない。」
下手な逃げだなと思って、それを、心の中で笑う。
さすがのジェロニモも、いつものようなはぐらかし方は、思いつかないらしい。
「・・・グレートが、買いに行ったことくらい、あったんじゃないのか?」
自分も、グレートも、そして、グレートを守ることに命を賭けていたジェロニモをも、一緒に侮辱する言い方だった。
こめかみに、血管が浮く。奥歯を食い縛ったのが、わかる。もっと怒れ、とアルベルトは思った。
またジェロニモが、首を振った。
「知らない、ボス、そんなこと、しなかった。」
目の前に立っているジェロニモの、すぐ前に、透けた姿のグレートが現れる。うっすらと笑って、肩を丸め、今にもアルベルトの方へ、手を差し出すように見えた。
右肩の、機械の腕のつけ根が、ぎしぎしと、錆びついた音を立てたような気がした。
前髪を散らすように、ゆるゆると頭を振りながら、ゆらりと立ち上がる。腕を伸ばしたのは、グレートに触れるつもりだったのかもしれない。
けれど触れたのは、ジェロニモの、スーツの上着の合わせ目だった。
目の奥に、涙がわく。それを飲み下して、前髪の奥に視線を隠したままで、できるだけ低い声で、冗談めかして言った。
「なら、仕方ないな。」
ジェロニモの、ぶ厚い体を、後ろに押した。
戸惑いが、うっすらと目元に浮く。素直に、アルベルトの腕に従って、ジェロニモは後ろのソファに、どさりと腰を落とした。
後悔に似た、小さな痛みが、目の奥を刺す。瞬きをしたがる瞼を、必死で上に押し上げて、自分を見上げるジェロニモの、静かな森の奥の、湖の水面のような、濃い茶色の瞳を、強くねめつけた。
胸元にまた手を伸ばし、上着の下から、ネクタイを引っ張り出す。それをまるで、責めるように自分の方へ強く引いて、アルベルトはにやりと笑って見せた。
太い首、大きなあご、たとえ、この右手でその横顔を張ったとしても、跡さえ残らないように思えた。
ゆっくりと、折った膝を、ジェロニモの上にのしかかるように、ソファの上に上げる。初めて、怯えに似た色が、その静かな瞳に浮かんだ。目の前に迫る、アルベルトを、正面から見つめられず、戸惑いに肩を揺らして、視線を逸らす。
ひどく稚なじみた、意地悪な気分で、ジェロニモの頬に右手を当てて、自分の方へ視線を戻させた。
そのまま、空いた左手を、上着の中へ、滑り込ませた。
シャツの上につけた、革のホルスターから、重い銃を引きずり出す。
ジェロニモが、息を飲んだ音が聞こえた。
「俺が欲しいのは、こっちの銃じゃないんだ。」
ゆっくりと、取り出した銃を、引き金に指をかけて、顔の前でゆっくりと振る。
緊張に、引き結んだ唇に、アルベルトは、舐めるような接吻を重ねた。
大きな体が、自分の下で、岩のように硬くなったのを、空気の震えに感じた。
銃を、ゆっくりとソファの上に下ろし、そこから手を外した。
ジェロニモの、上着のボタンを外して、前を開き、ネクタイを解いた。それから、右手の革手袋を、背中の後ろで外した。
首に、両手を巻きつけるように伸ばすと、驚いたようにジェロニモが、その手に自分の手を掛ける。
首筋から、掌を滑らせ、頬を包んで、自分の方へ上向かせる。
今は、戸惑いと驚き---それから、かすかな怯え---に揺れている茶色の瞳を、アルベルトは、鉛色の右の掌で覆った。
「良かった女のことでも、考えてればいい。すぐに済む。」
言いながら、唇を、濡れた舌で舐めた。唇が、震えたのが、わかった。
自分を、まだ幼なかった自分を、縛って、辱めた男たちの、ぼんやりとした輪郭だけの姿が、脳裏に浮かんだ。あの地獄から、自分を拾い上げて、また別の地獄に放り込んで、グレートは去って行った。
自分に与えられた罰を、ひとりで受け止めきれずに、今は卑怯に、グレートの、心からの信頼を勝ち取っていた男に、その咎をかぶせてしまおうとしている。
罪悪感を抱くのは、自分ではない。
だから、心配することはない。自分が傷つくことだけ、恐れていればいい。たとえ、卑怯者と罵られようと。
外したネクタイを、ジェロニモの目の上に巻いた。
唇の奥で、滅多と聞いたこともない、小さな喘ぎが、ほんのかすかに聞こえた。
その唇に、右の人差し指を押し当てて、まるで、聞き分けのない子どもをなだめるように、静かにと言う音を、耳の傍に注ぎ込む。
ジェロニモが静かになると、今度は、自分のネクタイを外して、驚かせないようにそっと、背中の後ろに手を回して、太い両手首を一緒に縛った。
ジェロニモは、もう、観念したのか、まったく逆らおうともせず、あごを天井に突き上げて、ソファの背中に項を預け、這い回るアルベルトの掌に、時折かすかな反応を返すだけだった。
シャツのボタンを外し、前を開いて、掌を当てる。
暖かな、人の膚。皮膚の下に、厚い筋肉の乗った、骨の太い体を、両腕で計りながら、アルベルトは、床に降りて、ジェロニモの、開いた脚の間に、顔を埋めた。
そこにだけは、右手で触れることをためらって、それから、おずおずと、両の掌を、重ねた。
革靴のかかとが、床を蹴るように動いた。
唇を開いて、舌を使って誘い込んで、喉を、精一杯開くと、名前の知らない、コロンの匂いが、鼻先に立った。
舌を動かして、ゆっくりと、なだめるように、顔を振る。
強く縛ったつもりもない、両手首のネクタイが、解けてしまうのが怖いのか、ジェロニモは、時折声を上げるだけで、おとなしくされるままになっている。
何を考えているのだろうかと、思った。
言った通り、抱いたことのある女のことでも考えているのか、それとも、グレートのことでも、思い出しているのか。
音を立てずに、喉の奥を満たし始める輪郭に舌を絡めながら、おそらく軽蔑されている、自分のことを思った。
何も変わらない。ひとりきり、自由になったつもりでいても、縛られたまま、何も変わらないままでいる。
ほんとうに、自由になるために、何をすべきか知っていて、けれどそこに、踏み出せないままでいる。
唇の端が、痛みに音を上げ始めていた。
一度だけ、わざと、濡れた唾液が絡んだ音を立てて、ようやく唇を外した。
手早く下だけ脱ぐと、また、ジェロニモの上に、正面から覆いかぶさって行った。
自分の唾液で、濡れたそれに、手を添えて、上から腰を落としながら、導いてゆく。
唇の中とは違う、誘い込まれる内側の熱さと狭さに、ジェロニモが、痛みを訴えるように、喉を反らした。
押し入られる感覚を、躯が忘れている。必死に、躯を開きながら、アルベルトは、背骨の奥がきしむ音を聞いた。
グレートではない、ジェットとも違う、もう、顔も覚えていない無数の男たちの、そのどれとも違う。侵されているのではなく、絡みつく粘膜で、ジェロニモを包み込みながら、侵しているのは自分の方だった。
歯を食い縛って、悲鳴を噛み殺しながら、無理矢理に繋げた躯を、ゆっくりと揺すり始める。
ジェロニモに、できるなら、しがみつきたかった。それをわざとせずに、ソファの背に、両手の指を食い込ませ、声を殺しながら、躯を揺する。
自分の内側をこすり上げる、その形が、自分の狭さを引き裂いていた。
満たされている、その感覚だけを追いながら、アルベルトは、頬を染めて、痛みに耐えた。
シャツの前を自分で開け、胸元に、左手を這わせた。
下腹に滑らせた掌に、反応を返さない自分の躯を、じれったく思いながら、それでも、繋げた部分から熱を生み出そうと、必死になって、躯を動かす。
苦痛に満たされながら、けれど、グレートの時とも、ジェットの時とも違う感覚に、アルベルトは、心のどこかで安堵していた。
深く沈みこんで、それ以上耐えられず、アルベルトとは、ジェロニモの、目元を覆うネクタイを、右手を滑らせながらずらした。そうして、視線を合わせてから、その太い首にしがみつく。
声を上げた。
胸をこすり合わせるように、また動きながら、吹き出した汗に滑る皮膚を、重ねて、アルベルトは、自分の躯が、耐えられる限界を越えたのを知った。
苦痛しかなかったのは、アルベルトだけではなく、ジェロニモも、慣れない状態に、没頭することもできずに、終わりを迎えないまま、アルベルトの内側で、熱を失い始めていた。
まだ、ジェロニモにしがみついたままで、アルベルトは、そっと腰を浮かせて、躯を外した。
ぴりぴりと痛むその奥から、ぬるりと、腿の内側に伝う。血だと思ってから、ジェロニモのスーツを汚したと、もう、顔も上げられなかった。
ジェロニモが、そっと肩を揺すり始めた。ソファの表面を、引っかくような音がして、それから、長い太い腕が、腰に回って来た。
手首のネクタイを、自力で外したのだとわかって、アルベルトは、ジェロニモの首筋に顔を埋めたまま、動こうとはしなかった。
「シャワー、浴びる。」
顔から滑り落ちたネクタイを外しながら、ジェロニモが、静かに言った。
さっきまで、まるでけもののように、躯を繋げ合っていたことなど、なかったかのように、静かな、穏やかな声だった。
動くと、体が、ひどく痛んだ。
言えば、おそらく、アルベルトを軽々と抱き上げて、バスルームまで運んでくれるのだろうとわかっていて、アルベルトは、動こうとはしなかった。
もしかすると、もうずっと、誰ともこんな風に、躯を重ねることなど、これから先ないような、そんな気がしていたので。
ジェロニモの首筋に、頬をすりつけるように、首を振る。ずれた視界の端に、ジェロニモから取り上げた銃が、鈍く光る。
小さな鉛の塊が、自分の眉間を、熱を噴きながら、貫いて行ったような気がした。
おまえはと、考える前に、唇が動いていた。
ジェロニモが、自分の方へ、耳を寄せた気配があった。
「・・・おまえは、俺より、先に、逝くな。」
腰に回った腕に、力がこもる。その腕に、体の重心を傾けた。
「イエス、ボス。」
静かな声を聞いて、それから、まるで眠るためのように、目を閉じた。
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