「あらし」-番外編

Each Other



 こんな日も、あるものなのかと、アルベルトは思った。
 ジェットが、テイクアウトの紅茶を運んできて、30分も経たないうちに、グレートがやってきた。
 ふたりがかち合うのは、もちろんあまり好きではなく、ただ救いなのは、店の中なら、ふたりが、言い争いを始める気遣いだけはないということだった。
 在庫の確認をしなければならない日で、朝から、たくさんの書類にまた目を通し、本棚にすでに並んだ本と、地下に置いてある本と、それらの数を合わせる作業に、ずっと追われている。
 ジェットにかまう暇はもちろんなく、話をしたそうに、店の中をうろうろするのに、少しうんざりし始めていたので、実のところ、グレートが来てくれて助かったと、うっすらと思う。
 グレートが目の前にいれば、少なくとも、ジェットが仕事を中断させるために、アルベルトにちょっかいを出す恐れはなくなる。
 アルベルトは、グレートに、にっこりを笑いかけた。


 首をかしげて、何とも言えない表情をつくった。
 まずいところへ来合わせたかと、そう思ったのが最初だった。
 それから、何故自分が遠慮する必要があるのかと、そう思った。
 その必要はない。恥ずかしさと気まずさに、視線を反らすべきなのは、あちらの方だ。
 寝取られ男か、と、自虐的に思って、唇の端を上げる。それを見咎めた、あの、緑の瞳の青年が、あごを引いて、驚きを目元に刷る。
 頬の辺りの皮膚の張りと輝きが、グレートの、はしばみ色の瞳を撃った。
 ひょろりと背高い体も、滑らかに動いている。
 自分の、およそ半分ほどしか生きていないだろう、その生意気そうな若者から、グレートは、すいと視線を反らした。


 行くところもない。仕事を探しているけれど、実のところ、それは振りだけで、身を入れて、必死になっているわけではない。
 失業保険で、何とか飢えはしのいでいる。
 それに、この男につきまとっている限り、こずかい程度の金は、常に手の中に落ちてくる。
 ここで雇ってくれるなら、本気で働く気でいるけれど、店主である男は、そんな気はさらさらないらしかった。
 他に行くところもなく、もう、日課のように、この店に、紅茶をたずさえて通う日が続いている。
 働いている人間の傍に入れば、時間は、少なくともひとりの時よりも、早く過ぎる。
 ここにいれば、柔らかな、深いその声を、ずっと聞いていることができる。
 向こうが、その気にさえなってくれれば、ジェットのアパートメントか、あちらのアパートメントへ、早く店を閉めて、ドアを閉めて、ふたりきりで、閉じこもることもできる。
 そうして、ジェットは、さまざまな飢えを、貪るように、満たす。
 今日は、いつもよりずっと忙しい日に見えたけれど、首筋にキスをして、邪険に振り払われたけれど、出て行けとは言われなかったから、多分、仕事が終わるまで、おとなしく待っていればいいのだと、思っていた。
 思っていたら、店主の、保護者が現れた。


 アルベルトは、ごく自然に、うれしそうな笑みを浮かべて、口数少なく、グレートに話しかけた。
 他愛もないことばかりだけれど、その他愛もないことに、グレートが、小気味のいい受け答えを返してくれる。
 本の背表紙に、指を滑らせながら、言葉のやり取りを楽しむ。
 ジェットとの会話は、こんなふうにはならない。
 粋な、リズムに乗った言葉を行き交わせ、その言葉の裏にある、意味の部分を楽しむ。音の響きに、それ以上のものを含ませて、互いにだけ通じるその含みに、くすりと、互いの間にだけ、微笑みを交わす。
 取り残されたジェットが、憮然とした表情で、アルベルトとグレートの、よく動く唇を眺めている。
 ジェットに、すいと視線を流して、けれど言葉はかけなかった。
 野卑な言葉遣いは、けれどたまに、剥き出しの真実を、目の前に突きつける。それは、鋭いナイフのように、心を突き刺す。
 真実に向き合いたくない人間たちは、こうして、洒落だけで、言葉の遊びを楽しむのだと、アルベルトは思った。


 そう言えば、しゃべる声を、あまり聞いたことがないなと、グレートは思った。
 アルベルトといる時には、きっとよくしゃべるのだろう。それも、ただ、一方的に。
 話は、聞くものではなく、するものであると、生まれた時から教え込まれるこの国では、話さなければならない重要なことなど、誰も口にせず---誰も、聞きもしないなら、語る価値はない---、さも大事そうに語られる言葉はすべて、時間の無駄と、語る人間の無恥の上に成り立っている。
 しゃべり過ぎる人間は、信用しない。
 必要なことだけを、手際よく伝えられる、この国では少数の人間だけを、グレートは信用することにしている。
 そうなれば、もちろん、信用できる人間のひとりに、この若者が入るはずもなく、それなのに、大事なアルベルトを、かすめ取られるという形で、預けているのは、どうしてなのだろう。
 ジェットを見た。
 軽く唇を突き出して、こちらをにらんでいる顔が、思った以上に稚なく、純粋に見え、グレートは、狼狽を隠しながら、かすかに驚いていた。


 いかにも、慣れた様子で、言葉を交わしている。
 店主は、くすくすとよく笑う。
 皮肉な表情が消え、途端に、少し子どもっぽい横顔が現れる。こんな貌をするのかと、驚きを隠せなかった。
 自分には、決して見せない顔、仕草、気配、態度、それから、少し子どもっぽくなる、口元に浮かぶ色。
 まるで、うれしそうに、親に、その日一日にあったことを報告する、子どものようだと、そう思う。
 ふたりが話している内容は、よくわからない。ジェットは悔しくて、軽く歯ぎしりした。
 ばかにされているし、仲間外れにされているのだと、思う。
 喉の奥で悪態をついて、店主の、本に向かって伸びる指先が、自分に触れるところを想像して、早く、保護者づらしたこの貧相な男が、この店から出て行ってくれないかと、思った。


 本棚の、今日までの分を終わると、アルベルトは、一度カウンターの後ろへ行き、地下の在庫を記してある書類を探した。
 動くたび、4つの視線が、自分を追う。
 ふたつは、冷ややかに、静かで、もうふたつは、熱っぽく、膚に絡みつく。
 それを感じて、ちくりと胸が痛む。
 アルベルトは、事務所へ行くからと、どちらともになく、言った。
 ふたりが、アルベルトを見て、それから、うかがうように、互いをちらりと見た。
 絡んだ視線が、宙で、音を立てたような気がした。
 グレートの瞳が、熱っぽく色を増し、ジェットの瞳が、冷ややかに、それを受け止める。
 動けば、ぴきりと割れそうに、空気が固い。
 アルベルトは、胸の内で、聞こえないように、そっとため息をこぼした。
 ふたりを、交互に見て、アルベルトは、くるりと、体の向きを変えた。


 アルベルトについて、ふたりとも、奥の事務所へ行った。
 3人で部屋の中に入り、何かまた、書類を集めているアルベルトを、ふたりで、距離を開けて眺める。
 グレートは、居心地の悪さをうまく隠しているけれど、青年は落ち着きなく、視線をさまよわせ、肩を揺すり、全身で、気分が悪いと言っていた。
 単純で、わかりやすくて、隠し事もできない性格らしいと思って、こんな、探る必要すらなさそうな相手の、どこが良かったのだろうかと、顔を見ずに思っていたことを、今は、本人を目の前にして、考えている。
 何かに魅かれだのだとはわかるけれど、その何かが、わからない。
 グレートは、アルベルトが、自分を大事にしていると、はっきりと自覚していながら、この青年となら、アルベルトは、心中すら辞さないかもしれないと、根拠のないことを思った。
 その直感が正しいことを、自分でわかっていて、舌の裏が、苦くざらついた。
 地下へ行くと言って、アルベルトが、事務所から姿を消した。


 男がいなくなると、保護者とふたりきり、小さな事務所に取り残され、ジェットは、手持ちぶさたに、男の保護者を、上目の視線で、こっそりと観察する。
 考えれば、こんなふうにふたりきになったのは初めてだし、一緒にいる時は、必ず男がいるので、視線を交わす必要さえない。
 自分より、はるかに背は低く、肩も胸も、薄いように見える。
 着ている服は、色の地味な、けれど光沢のある生地で、物を知らないジェットにも、上等な部類の品物だとわかる。
 瞳だけが、時折、ぞっとするほど、冷たく光る。
 刃物のような、その瞳の光に、ジェットは、何度も背筋を粟立てた。
 自分の父親と言っても、おかしくない年齢だろうと、思う。
 自分よりも、ずっと年上の、金も力も持っている、大人の男。
 誰かを庇護できる立場というのは、つまりそういうことなのだと、ジェットは、痛い現実を噛みしめて、悔しさに、うっすらと頬を染めた。
 色の薄い、輪郭のぼやけた、けれどふっくらと盛り上がった唇に、視線を止めた。
 男の、薄い唇の感触が、赤い薄い皮膚の上に甦った。


 若者が、自分に向かって爪先を滑らせてきた時、グレートは、反射的に身構えた。
 殴り合いをすれば、勝てはしないことは目に見えていたし、下手をすれば、外で待っているジェロニモが、中に入ってくるまでに、腕の一本や二本はへし折られても、おかしくはない。
 凶暴さは、その、どちらかと言えば、むしろ気弱な瞳からはうかがえなかったけれど、アルベルトに、本気で惚れているのなら、邪魔者を消したいと思っても、不思議はなかった。
 肩を引き、両手を、いつでも体の前に出せるようにしてから、自分に向かって伸びてくる、若者の、長い腕を見ていた。
 指の長いその手が、頬に触れ、驚きは、一瞬遅れてやってきた。
 若者の唇が、グレートのそれに、いきなり重なった。
 首を折り、そのひょろ高い体を、傾けて、唇を押しつけてくる。
 あごを首元に埋め込むようにして、グレートは、肩と腕を縮めて、その唇を受け止めた。


 その唇が、男に、どんな風に触れるのか、不意に知りたくなったのだ。
 その唇に、男が、どんな風に触れるのか、突然知りたくなったのだ。
 弾力の少ないその唇は、少し乾いていた。
 男の髪や服に、よく染みついている、煙草の匂いがした。
 乾いたままの接吻を、始まりと同じ唐突さで終わらせると、男の保護者が、いつもは表情の薄い、むしろ眠そうに見える瞳を、大きく見開いて、ジェットを凝視していた。
 そこに映る小さな自分は、どこか満足そうに、うっすらと微笑んでいた。
 ジェットは、その微笑を大きくして、にやりと笑った。
 親しげな、馴れ馴れしいほどの笑みだった。


 驚きで、あごを引いてから、目の前に浮かんだ、人なつっこい笑顔に、グレートは、鎧っていた殻を、いきなり破られてしまった。
 いつもはうまく隠している、素の自分が現れ、それを見られた気恥ずかしさで、頬が、うっすらと染まる。
 それでも、すぐにまた、その殻を鎧い直して、目の前で、いきなり自分と同等になったと、ぬか喜びしている若者に、意趣返しをすることに決める。
 若者の、シャツの胸元に手を伸ばし、つかんで、自分の方へ引き寄せた。
 うっかりと、半分開いた唇の中に、するりと舌を差し込んでやる。
 こんな接吻には、おそらく慣れているだろう。慣れてしまった相手の顔を思い浮かべて、グレートは、ほんの少しだけ、悲しくなる。
 若者の、驚きで逃げることも忘れている舌を、素早く絡め取って、アルベルトといつもそうしているように、舌を動かす。
 目を閉じることもできず、頬を真っ赤にして、焦点の合わない瞳を、ゆらゆらと揺らしている若者が、たかだかグレートの腕一本振り払えず、されるままになっていた。
 同じやり方を、してやる。
 反応は薄く、されるままに、舌を動かしている若者は、苦しそうに、喉の奥で、小さくうめいた。


 ドアの外で足音がして、グレートは、ジェットの体を離してやった。
 頬を染め、シャツの胸元を少し乱して、まだ、呆然としている。
 グレートはとっくに、平静を取り戻して、何事もなかった貌をつくる。
 アルベルトが、ドアを開けて入ってきて、去った時よりも、間の距離を縮めているふたりを、交互に見て、少し怪訝な色を目元に刷いた。
 軽く眉を寄せ、部屋の空気の変化を読み取ろうと、唇が少し、硬張った。
 「・・・どうか、したのか、ふたりとも?」
 ジェットが、口元を撫でて、不自然な素早さで、反駁した。
 「別に、なにも、ねえ。」
 グレートは、得意の、はぐらかすような、思わせぶりな笑みを、口元に刷いた。
 アルベルトは、空気を読み取って、けれど、何があったのかは、しかとはわからず、ふたりを交互に見ながら、机の方へ足を運んだ。
 グレートが、不意に、肩をすくめて言った。
 「・・・店が終わったら、食事に行かないか。」
 アルベルトは、机からグレートに、体半分で、振り返った。
 ジェットが、口を引き結んで、頬に血を上らせた。
 「3人で。」
 絶妙の間で、グレートが、少しおどけた調子で言った。
 アルベルトは、気の抜けた顔で、ああ、と、締まらない返事を返す。
 ジェットの方を見ると、かすかな怒りらしい感情に、唇を震わせている。
 何か、言い争いでもしたのだろうかと、アルベルトは、グレートを盗み見た。
 グレートは、にっこりと、営業用の笑顔を浮かべ、大げさに、肩をすくめて見せる。
 「店が終わる頃に、また戻ってくる。」
 グレートは、アルベルトとジェットの、両方に笑いかけて、肩を回して、ドアの方へ歩き始めた。
 「ああ、そうだ。」
 ドアに手を掛けて、たった今思い出した、と言いたげに、横顔だけで、ジェットに振り向く。
 「Nice to meet you (お目にかかれて光栄だ)。」
 ジェットが、何か怒鳴ろうとするかのように、大きく口を開けた。
 声が飛んでくるより、一瞬早く、グレートは、まるで手品師のように、するりとドアの向うに姿を消す。
 アルベルトは、何が起こったのか、想像すらつかず、閉まったドアを、ただ呆然と眺めていた。


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