「あらし」 - 番外編

Empty Bottle



 グレートと一緒に空けたワインのボトルを、置きっ放しにしておいたのは、確かに迂闊だったのかもしれない。
 それを手に取って、不機嫌な声と表情で、
 「あのオヤジ、来てたのか。」
 そう問われれば、嘘もつけずに、視線をそらして、ああとうなずく。
 ジェットが、ボトルからベッドへ顔を動かす。今はきれいに整えられたベッドの、夕べの乱れ様を、必死に想像しているように見えたのは、もちろんアルベルトの思い過ごしかもしれなかった。正確には、そうではありませんようにという、ささやかな願いの、裏返しだった。
 ジェットは、何も言わずに、ボトルをキッチンのカウンターの上に戻して、アルベルトの方へ近づいて来ながら、眉の間に、珍しく深いしわを刻んでいた。


 くしゃくしゃになったベッドに、いつの間に持ち込んだのか、ジェットが空のボトルを差し出す。
 淡い金色のワインの、喉を通り過ぎて行った香りを思い出して、アルベルトは、思わずうっとりと目を細める。
 グレートと、きちんと半分ずつ飲んだそのワインを、ジェットも飲んでみたいのだろうかと、細めた目をそのまま、ジェットの淡い瞳に当てた。
 ジェットの瞳の色よりも、ずっと濃い、宝石のような色のボトルは、けれど何となく、乱れたベッドの中には場違いのように見える。
 長いボトルの首がこちらに向いて、コルクもない空の口が、冷たく唇を撫でる。かすかなワインの匂いに、思わず唇を開きかけると、待っていたように、ジェットがもっと強く押しつけてくる。
 ボトルの首をつかんで、それを止めながら、
 「飲んでみたいなら、今度---」
 「誰が飲むかよ、こんな酒。」
 アルベルトの、優しい声は、冷たい、嘲笑うような声にかき消された。
 ジェットは、乱暴にアルベルトの手をボトルから払い、また唇に向かって、ボトルの口を突き出してくる。
 「やって見せろよ。あのオヤジに、いつもやってるみたいに。」
 言われて、不意に生々しく、唇や掌に、グレートの皮膚の手触りが甦る。皮膚だけではなく、煙草の匂いの交じった、グレートの体臭と、声と、呼吸と、熱さと、穏やかな激しさと。
 ジェットと乱したこのベッドを、夕べはグレートと。
 アルベルトは、頬を染めて、横を向いた。
 「やれよ。」
 容赦のない声とともに、ジェットに手を取られ、鉛色の掌に、かちんとボトルが当たる。
 アルベルトは、ボトルに両手を添えて、震える唇を開くために、下を向いた。


 ボトルの、細くて長い首は、固くてつるつるとしていて、口の中でひどく滑る。うまく舌を伸ばさないと、かちかちと歯が当たって、耳の奥に響くのが、まるで鋭い痛みのように、首の後ろの辺りに突き刺さる。
 今は、ワインではなく、そのボトルを喉の奥深く飲み込んで、顔を動かして、舌でなぞる。
 口の中であたためられたガラスは、気持ちの悪いなまぬるさで、あごの上や、舌の裏をなぶる。血の通わない硬さに、つい、臆病に舌の動きが鈍る。
 それでも、アルベルトは、必死にそれをやった。
 ジェットは、アルベルトを後ろから抱きすくめて、自分の膝に上に乗せるように背中を重ねて、肩越しに、アルベルトがワインのボトルをしゃぶっているのを眺めている。
 口元に、冷笑を浮かべて。欲情の交じったそれが、どこか悲しげに見えることを、おそらくジェットは知らない。
 グレートの幻を手繰り寄せて、そうすることで、アルベルトを辱めて。
 けれど、アルベルトが言われた通りに、幻のグレートに挑んでゆけば、傷つくのはジェットの方だ。
 ワインのボトルは、驚くほど深く、アルベルトの唇の奥に消えて、唾液に濡れて、ぬらぬらと光りながら、また姿を現す。そうなってしまったワインのボトルは、今はもう、ジェットの目には---アルベルトの目にも---、グレートそのものにしか見えない。
 優しい目で、アルベルトを見下ろしている。髪をすいて、頬を撫でて、アルベルトの必死さをねぎらいながら、うっすらと、首や頬を血の色に染めてゆく。
 それは確かに、欲情に違いなく、そして同時に、優しさの表れであることにも間違いはなく、その穏やかさを、ジェットは憎んで、妬んで、痛いほど、渇望した。
 穏やかさでは満足できないと、知っていながら、ないものねだりをして。
 ボトルを動かしながら、時々、かちかちと音がするのを真似して、ジェットは、アルベルトの右肩に歯を立てた。
 ジェットには傷さえつけられない、アルベルトの金属の右肩と右腕に、ガラスと、もしかすると似ているかもしれないその感触に、ジェットは舌を滑らせて、音を立てて歯列を食い込ませた。
 抱きしめた腕を動かして、胸や下腹に触れて、ジェットの手指など必要もなく、すでに昂ぶっているアルベルトを、むしろ苛むために。
 グレートが、目の前にいた。
 誰がアルベルトを抱いているのか、わからなくなっていた。


 開きっ放しのあごが疲れ、ボトルに添えた手が、こぼれた唾液に汚れてしまった頃、ジェットがようやく、アルベルトからボトルを取り上げた。
 ここも唾液に濡れたあごを持ち上げて、まるで食むように、ジェットの唇が重なってくる。絡む舌のやわらかさとあたたかさに、アルベルトは、やっと救われた思いがして、自分から体の向きを変えて、ジェットに抱きついて行った。
 胸を合わせて抱き合って、存分に、冷たくも硬くもない、濡れた粘膜を交じり合わせる。喉の奥まで引き入れても、こちらを傷める恐れのない、桃色の筋肉。それ自体が、ひとつの生きもののように、うごめいて、巻きついて、湿った呼吸を交わし合う。
 背中を抱いたジェットの腕が、腰を滑って、腿の内側に落ちた。
 指先が、確かめるように触れてきた。
 促すために、腰を浮かせ、膝で立って、求めるようにジェットを見下ろす。早く、も、欲しい、も、瞳に言わせて、アルベルトはただ、半開きの唇の間で、ちろりと舌を動かした。
 指先が、まず開こうとするのは、いつものことだ。
 さして心構えも必要のない、その感触を期待して、アルベルトは目を閉じた。
 指。そして。
 驚きよりも、まずは恐怖だった。
 逃げるよりも、先にジェットにしがみついて、気がつけば、しっかりとジェットの腕に抱え込まれている。
 今度は、唇でではなく。
 もう、冷たくはない。けれど、人のやわらかさもない。
 開いた脚の間に、筋肉に抗われながら、異物が入り込んでくる。
 人の形を模してもいなければ、やわらかさの気振りすらない、そんなものに、こんなふうに侵されるのは、不愉快や羞恥を通り越して怯えを呼ぶ。
 やめろと、唇が言うと、ジェットが、見上げて、せせら笑った。
 「あのオヤジだと思って愉しめよ。」
 口の中に入れて、形も大きさも、散々確かめている。無理ではない。けれど、こんなふうにおもちゃにされることに、耐えられない。
 アルベルトの抵抗になどかまいもせず、ジェットはどんどん、ボトルの首を先に進めた。
 ジェットやグレートよりも、ずっとその形は細いのに、息の止まりそうな圧迫感があるのは、人の躯に決して添うことのない、無機質特有の硬さのせいなのだろうか。
 ジェットにしがみついて体を支えて、アルベルトは、慣れない異物感に、何度もうめいた。
 中でそれ以上動かなくなると、今度はジェットに右手を取られ、
 「ほら、落とすなよ。」
 からかうような声とともに、アルベルトから体を離したジェットは、ひとりでベッドを降りてしまった。
 思わず、抗議するようにジェットを見上げ、言われた通り、開いた脚の間で、右手で、入り込んだボトルを支えている自分の、惨めな様に、アルベルトは言いかけた言葉を飲み込む。
 そのあごを、ジェットが強く引き寄せた。
 「そっちは自分でやれよ。」
 ベッドに四つん這いになり、背中から腕を伸ばして、そのままでボトルを動かせと、ジェットがあごをしゃくる。
 「勝手に外すなよ。」
 背中がぞくりと慄えたのは、ジェットの声の冷たさのせいだけでも、躯の奥に飲み込んだ、ボトルの素っ気のなさのせいだけでもなく、踏みにじられているのだという、絶望に似た、ひどく甘い感覚のせいに違いなかった。
 髪をつかんで引き寄せられ、ジェットの下腹に鼻をこすりつけるようにしながら、強要された愛撫のために、濡れた舌を差し出す。
 喉の奥を突かれ、苦しさに、途切れ途切れになる呼吸に合わせて、右手を動かす。
 ぬくもりのないガラスに、自分を侵させながら、決して馴染むことのない圧迫感に、いつもと違う熱が、背骨から流れ出してくる。
 ジェットを満足させるための演技なのか、それとも、ほんとうに歓んでいるのか、自分でもわからないまま、アルベルトは、次第に激しくなる右手の動きに、ひとりで溺れ始めていた。


 アルベルトの、うねる背中に合わせて、アルベルトの唇を使いながら、ジェットは、アルベルトの内側の熱さを思い出していた。
 濡れて絡みついてくる粘膜の、その感触が、今は、人ではないものを包み込んでいる。
 その様を眺めながら、けれどジェットは、確かにグレートを見ていた。
 触れさせたいわけではないのに。思い出したくないはずなのに。
 それなのに、ジェットは、アルベルトの後ろに、グレートを見ている。
 グレートに触れられるアルベルトにすら、欲情している。
 アルベルトの罪悪感につけ込んでいるふりをして、ほんとうに欲しいのは、本性を剥き出しにしたアルベルトだ。
 際限もなく堕ちてゆく、アルベルトの行き先を見極めたいのだ。
 こんなに惨めに踏みにじられて、けれどいつだって、ジェットを惨めにするのはアルベルトの方だ。
 踏みにじられることに欲情するアルベルトに、ジェットは魅かれている。だから、アルベルトを踏みにじって、そうして少しずつ剥き出しになるアルベルトに、ジェットはどんどん溺れてゆく。
 底なし沼に飲まれたように、ジェットは、息苦しさに喘ぎ続けている。
 どれほど踏みつけても、息の根を止めることのできないアルベルトは、不死身の蛇のようだ。
 古い皮を脱ぎ捨て、新しい皮をまとって、昨日のことなど、憶えてすらいないように。
 ジェットは、強がるために、いっそうむごくアルベルトの喉を突いた。
 それでも、憎悪も嫌悪もなく、自分を見上げるアルベルトに向かって、淫売と、いつものように吐き捨ててやる。
 アルベルトが、うっすらと浮かべた、微笑みらしき表情に、ジェットは、自分が落ちた穴の深さを、改めて思い知っていた。


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