Empty Hands - 「あらし」番外編

 月の終わりの少し手前になると、ジェットの足がアルベルトの店から遠のく。
 月の初めには、上機嫌でコーヒーと紅茶を手に店に意気揚々とやって来るくせに、半ばを過ぎる辺りから訪れが間遠になり、そうして、空手のことが多くなる。
 空手でやって来る時には、そのことを深く恥じているように、指の長い大きな手をジーンズや上着のポケットに入れたまま、どこか居心地悪そうに、そこだけはやけに広く見える肩を縮めて、立ち去りたいとの居続けたいのと、両方の入り混じった葛藤を、隠すどころか顔に表れていることすら気づかなげに、長い足を持て余す小さな歩幅で、アルベルトの目の前を行ったり来たりするのが常だった。
 失業手当てか何か、そんなものが郵便で届くらしい日付と、ジェットのそんな行動の周期が一致することに何となく思い当たったのはしばらく前だけれど、アルベルトはそんなことはおくびにも出さず、ジェットが自分のための紅茶を手にして店に来ようと来まいと、どんな時も素っ気ない態度は変えずに、そんなことには気づいてすらいないという振りを決め込んでいる。
 この店の客足が遠のくのは、なぜかジェットの周期とはほとんど一致せず、そもそも常連客と呼べる顔ぶれすらいないこの店の客足など、わざわざ言うほどのこともなかった。
 日に数人やって来て、週に数人か、運が良ければ十数人が本を手に店を出て、月に何人かの物好きが、アルベルトと少し本の話をした後で、大きな書店では相手にしてもらえなさそうな、作家名も書名も耳にしたことのない本を注文しようと試みる。成功と失敗は大体半々で、望んだ本を手にここを去った客が、どこかでアルベルトを親切で真摯な本好きと誤解して──先の方──語る結果が、かろうじて途切れない客足を招いているようだった。
 ジェットのように、手にした本を開くことさえしない人間は、ここには滅多と来ない。本が好きでたまらない人間がまとう空気の中で、ジェットはその身長のせいでも真っ赤な髪の色のせいでもなく、明らかな異物として、ここにふらりといる。
 そろそろ月末の今日、空手でやって来るかと思ったジェットが、アルベルトのための紅茶だけを携えて店にやって来た。
 「なんだ、自分の分はもう飲み終わったのか。」
 差し出された熱い紅茶を右手で受け取りながら、アルベルトは、ああ、と答えるジェットの息にコーヒーの匂いがないのに、わずかの間怪訝な色を眉の辺りに刷いた。
 他人の顔色は窺っても、かすかな機微には疎いジェットは、アルベルトの表情の変化になど気づきはせず、空になった手を早速ジーンズのポケットに突っ込み、まるでお気に入りの作家の新刊を楽しみにやって来たとでも言うように、やや大きく見開いた目を本棚の方へ振り向けた。
 ジェットの持って来る紅茶やコーヒーのカップの柄は、常に同じとは限らなかった。大抵の場所には歩いて行くらしいジェット──歩ける場所にしか行かない──は、あちこちふらふら歩き回るうちに見つけるコーヒーショップには必ず入ってみる性質(たち)なのか、大きさも柄もまちまちなカップを、アルベルトはいつの間にかきちんと眺めるようになっている。
 そうやって、自分の知らないところでひとりでいるジェットの行動を想像しながら、自分もまるでひとりきりで、好き勝手に街を歩き回っているような気分になる。
 アルベルトは、熱い紅茶をひと口飲んだ。
 何をするという目的もなく、ジェットは本棚の間を歩き回る。いつの間に学んだものか、足の運びは静かだ。いつそうなったとも知れないまま、空気の中に溶け込むことはせずに、それでも違和感とともに、この場に馴染んでしまっている。
 そこへ並ぶ本棚のひとつだとでも言うように、存在感は消せないけれど、ジェットはもう、このアルベルトの店の一部になってしまっていた。
 むやみと背の高いのがそう目立たないのは、長い手足と均整の取れた体の線のせいだ。真っ赤な髪の色は、ジェットを幼く見せはしても、子どもっぽいとは思わせない。張りつめた皮膚の下の硬い筋肉、アルベルトの右手が触れても、弾む手応えを返して、淡い緑の瞳がよく映える膚の色はどこまでも健やかそうだ。
 そうとわざわざ思うことはないけれど、歩けば人目を引かずにはいないジェットだった。
 たとえば、この外見に魅かれて、金を惜しまない女なら見つけるのは簡単だろうし、そうでなければ、若さの無知と無謀を言い訳にして、危ないことに足を突っ込む機会もないではないだろうに、アルベルトが知る限り、ジェットはその類いのことには今は縁がないらしかった。
 出会った時には強盗まがいをしていたけれど、どうやら警察の世話になったことはないらしく、心を入れ替えたようにも見えないから、結局は性根のところで悪(ワル)にはなり切れないのだと思える。
 だからこそ、決まった周期で懐ろを空にして、けれどアルベルトにそれを愚痴るでもなく、紅茶の差し入れすらできないことを恥じるジェットの素直さが、アルベルトにはまぶしかった。
 ジェットに金を与えることは簡単だ。一緒に寝た後で、脱いだ服のポケットに紙幣を何枚か入れておけばいい。あるいはもっとわかりやすく、自分の部屋から立ち去る直前のジェットに手に、幾枚かの紙幣を握らせればよかった。
 そうしないのは、ジェットを飼っているわけではないというアルベルトの誇りと、そうしてアルベルト自身が、保護されるためにグレートに囲われているという事実のせいだ。
 囲われているという、口にすれば屈辱的なその表現を、ごく自然に頭の中に思い浮かべていたのは、いつだって自分も同じことをジェットにしているのではないかと自問しているからだ。
 そうではない。ジェットと自分は、自分とグレートの関係とは違う。
 グレートとのそれは、庇護が大半の、綺麗事を言うなら恋人同士のそれに近いのだと、アルベルトは思う。世間は、アルベルトをグレートの情人と呼び、打算ばかりだと言うような言い方をするけれど、ふたりの間柄は、もっとただの恋人同士のそれのようだ。アルベルトかグレートのどちらかが女だったら、ふたりは結婚すらしていたかもしれないと、アルベルトは時々考える。
 ジェットとの関係は、少し懐いて来た猫に構ったら、そのまま居つかれてしまったような、どこか事故めいた感覚がないでもなかった。
 打算と言うなら、ジェットとの方が打算的かもしれないとすら思う。
 会えば、寝ることばかり考える。貪るために会うことを考える。会えば必ずそうできるとは限らないにせよ、そうすることが目的の大半の、ふたりの関係だった。
 対等の立場で貪るために、貪りたいのはどちらも同じだと、その立ち位置をはっきりさせておくためにも、アルベルトはジェットに金を与えることはしたくなかった。アルベルトがジェットを欲しいと同じだけ、ジェットもアルベルトを欲しがっている。それ以外の打算を、ここに持ち込みたくはない。
 そんな風に、いつも突き詰めて考えているわけではなかったけれど、本棚の間を歩き回って、所在なさげに本の背表紙を指先で撫でているばかりのジェットの、少しばかり縮こまった肩の辺りを時折眺めながら、アルベルトは、今すぐ店を閉めて、ジェットを抱きしめたい衝動に、必死で耐えている。
 何も敷かない木肌の床に押さえつけられて、むしり取るように引き剥がした服を、まだ手足や腰にまといつかせて、馴染ませるという手順は踏まずに、むやみに躯を繋げに来る。1度目が終わってやっと、ひっくり返された躯の上に、胸を合わせて重なって来る。手足が絡む。これ以上ないほど近く躯が絡んで、皮膚が溶けたと思った後で、上半身を引きずり起こされて、開かされた口の中に、それが乱暴に挿し込まれる。両手で引き寄せられたあごと頬、髪を撫でる手は優しいくせに、頭上から注がれる言葉は、辛辣で残酷で卑猥だ。喉の奥に、さっき躯の最奥にそうしたように突き立てながら、最初と変わりなく甦り続けるのは、若さ以外の何物でもない。
 時々、手足を縛られる。目隠しをされて、延々と罵りの言葉ばかり浴びせられて、それが次第に、躯を繋げることと同じになって来る。開き切った躯は、言葉で侵され、言葉を注がれて、それに揺すぶられて高められて、それでも最後には、また躯がじかに繋がる。
 あるいは、最初から裸になって、シーツの間にふたりで閉じこもる。皮膚のぬくもりがいちばんの目当てのように、ただ抱き合って、アルベルトの右手を取って、ジェットが指先に口づける。いくら歯を立てても傷つくことのないアルベルトのその指と掌に、ジェットが執拗に歯列を食い込ませて、ひどくやるせない目の色で、アルベルトを見下ろして来る。
 アルベルトは、また紅茶を飲んだ。
 舌に乗って喉を降りてゆく熱さに、思わず口の中が動く。紅茶の香りで我に返った後で、アルベルトは、急ぎ足でカウンターの中を出た。
 店の入り口からは見えない。本棚の間に突っ立っていたジェットへ向かって、両腕を伸ばす。革靴のかかとを持ち上げて、ジェットへ上向いた。長い首に両手を添えると、アルベルトが誘いの瞬きをする前に、ジェットがその首を前に折った。薄く開いた唇が重なるのに、伺いなど立てる必要もない。
 情熱的だけれど、そこから先へ切羽詰ることはない、少しばかり控えめな口づけ。それでも、ここ数日ジェットに決定的な触れ方をしていなかったから、まるでやっと許可を得たとでも言いたげに、ジェットの腕がすぐにアルベルトの腰を抱え込む。
 腿と胸の前面をこすり合わせるように、ごく自然にふたりの体が一緒に揺れる。
 それでも、倒れ込むべきなのはここの床ではなかったから、アルベルトはジェットの腰と腿裏の辺りを撫でながら、未練たっぷりに体を離して、上向いたままの顔の位置を変えなかった。
 「明日・・・。」
 ジェットの頬が赤いのは、髪の色のせいだろうかと、薄暗い本棚の間は、カーテンを引いた昼間のベッド際のようだ。
 アルベルトのつぶやきをそのまま返して、
 「あした・・・?」
 湿って艶を増した唇が薄く動く。
 その唇が、自分に触れるところを想像して、首の後ろがざわめいた。アルベルトはやっとジェットからもう少し体を引いて、ズボンの前ポケットから20ドル札を1枚だけ抜き出した。
 「明日来る時も、紅茶を買って来てくれ。」
 アルベルトが右手で差し出したそれを、ジェットが目を細めて、やや憤ったように眺める。それでもいやとは言わずに、ゆっくりとアルベルトの指先から引き抜いたくせに、自分のポケットにしまう動きは素早かった。
 「コーヒーも、忘れずにな。」
 さり気なく付け加えると、ジェットの目が、単純な怒りにわずかの間燃え上がる。
 「なんだ、ガキの使いの駄賃かよ。」
 挑発するように、アルベルトは唇の端だけかすかに上げて笑う。嘲笑うように見えただろうその笑みが、自嘲であることに、ジェットは永遠に思い当たらないだろう。
 「そうだな。」
 笑みをわざと誤解させる声音で同意してやると、ジェットの長い腕が、首の辺りに伸びて来る。
 「うるせえ。」
 引き寄せる腕に力がこもる。首を絞められると勘違いされそうな仕草で、ジェットがまたアルベルトを抱きしめる。
 「この淫乱。」
 アルベルトの口を塞ぐためか、重なった唇の間から突然舌を絡め取られて、息苦しさにジェットにしがみつきながら、アルベルトはさらに、ジェットの後ろの本棚へ指先を掛けた。
 明日は、店は早仕舞いだ。アルベルトの部屋に着く頃にも、まだ紅茶もコーヒーも熱いままだろう。
 そこで、自分たちが体温を上げると同時に、ゆっくりと冷えて行く紙コップの中身のことを、アルベルトは思った。
 右手をジェットの髪の中にもぐり込ませて、指の間に髪を握りしめる。体温のないその掌に、ジェットの汗の湿りが伝わって来た。明日、と伸びた喉の奥でつぶやいた。

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