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Even More - 「あらし」番外編

 時間には正確なアルベルトが、その朝には居間に見当たらず、2階で動き回っている気配もなかった。
 迎えに来た時間を間違えたかと、そんなはずはないと思いながら腕時計で時間を確かめ、横目にキッチンのデジタル時計の時間を素早く見ながら、ジェロニモは階段を1段飛ばしに駆け上がった。
 家の中の静けさが、いやな予感を呼ぶ。階段を上がり切ると、開け放したままのベッドルームのドアの向こうはいっそう静かで、ジェロニモは思わず足音を消してそこへ近寄った。
 中へ向かって開いたドアへ、小さなノックをしながら顔を差し入れる。ベッドの向こう側のひとり掛けのソファに、だらしなく坐るアルベルトの姿を認めた時には、ジェロニモは知らず大きく息を吐き出していた。
 薄いカーテンの掛かった、大きな窓の外をぼんやり眺める横顔には、どうやら夕べよく眠れなかったらしい疲れが見えて、また嫌な夢でも見たのかと思いながら、ジェロニモは気配を消さずに部屋の中へ入った。
 その足音に、アルベルトはやっとジェロニモが迎えに来ていることに気づいたように、顔の向きを変えて、それでも椅子から立ち上がろうとはしない。
 真っ白いシャツの襟元のボタンはまだ掛けられないまま、床に投げ出した素足の傍らに、黒の革靴と、同じ色の靴下が揃えてある。着替えの途中で急にやる気が失せて、後は時間が過ぎるのも忘れたと言った風だった。
 夕べ、疲れのせいか不機嫌だったのは確かだ。ここまで送って来たジェロニモを、突き飛ばすように帰らせた後、ひとりで眠ろうとしたベッドでなぜか眠り切れるほどには睡魔が足りずに、明け方まで転々と寝返りを繰り返していたらしいベッドは、真ん中より右寄りばかりが乱れている。
 着替えを急かさずに、ゆっくりとベッドを直そうかと思って、けれど夕べのまま不機嫌なら、ジェロニモが何をしようと嫌味にしか取らないだろうと分かるから、ジェロニモは結局アルベルトの傍へそっと寄って、今日履くつもりらしい靴の隣りへ膝を折った。
 「もう時間だな。」
 いつもなら、もう車に乗り込んでいるはずだった。アルベルトはソファの肘掛けに両肘を乗せたまま、まだ窓の方を何と言うこともなく眺めたまま、今日はどうするつもりと決めかねているように、それきりまた無言になる。
 それでも、顔の向きは向こうのまま、素足の爪先をジェロニモの膝の丸みへ滑らせて来て、催促するように腿の上へ乗せる。着替えを手伝えと言うことだと理解して、ジェロニモはそこへ置かれた靴下を手に取った。
 薄い靴下を、小さな子にでもするように、アルベルトの爪先へかぶせてゆく。うつむき込んで手元の動きへ集中するジェロニモへ、アルベルトは案外と素直に従った。
 左足の後は右足に手を添え、日に当たらないせいでひたすら白いアルベルトの爪先へ少しの間視線を当てて、ジェロニモは、骨張ったその甲へ歯を立てたら、この男はどんな顔をするだろうかと、ふとそんなことを考える。
 朝だと言うのに、しかもこんなに天気の良い明るい日に、床へ這いつくばるようにしながら自分の考える不埒に、ジェロニモは顔には出さずに赤面する。
 ひとり分だけ乱れたベッドと、アルベルトの疲れた顔と、今手指に触れているアルベルトの素肌と、そしてここで最後に夜を過ごしたのが数日前のせいの、何もかもがそこへ繋がってゆく。
 骨と筋肉の形のあらわな足首を早く隠してしまおうと、ジェロニモはちょっと急いで次の靴下をアルベルトに履かせた。
 顔の映るほどきれいに磨かれた革靴を、これも右足から取り上げて、靴下に包まれたアルベルトの足をそっと取り上げて、中へ差し入れさせる。少々窮屈に、足の形にぴったりと添う靴は、履かせるのに少々力がいる。アルベルトの体に馴染んだその革は、丁寧に手入れされて、履くたびにまるで下ろし立てのような抵抗を伝えて来る。アルベルトを抱く時と同じほど丁寧に、根気良く磨いたのはジェロニモだ。
 細い靴紐を、きつ過ぎないように加減しながら結んで、それから左足へ移る。そうする間、ジェロニモは一度も顔を上げなかった。
 アルベルトが、今は窓からジェロニモの額の辺りへ視線を移して、見張るように見つめているのを感じている。何か気に入らないことがあれば、すぐにでも爪先で肩でも蹴ってやろうと思っているアルベルトの今朝の意地の悪さ──いつもよりも悪い──が、両手にそっと抱えている足から伝わって来る。
 左の靴も、紐を結ぼうとした時、その足がすっとジェロニモの手の中から滑り抜けて行った。思わず爪先の動きと一緒に視線を迷わせると、いかにも悪意ありげなアルベルトの微笑へ出会って、ジェロニモは突然空になった手指のやり場に困り、アルベルトの足を追い掛けるべきかこのまま立ち上がるべきか、どちらが今朝のアルベルトの意に叶うのかと、虚しく頭を巡らせる。
 まだ靴紐がだらりとほどけたままのその靴の先が、ジェロニモの目の前でふらふらと揺れる。そして、揺れが止まった次の瞬間に、革靴の先がジェロニモの顎を軽く持ち上げた。
 蹴り上げられるよりはずっとましな、それでも充分に屈辱的な、それなのにジェロニモは眉ひとつ動かさず、ただアルベルトにされるまま、喉を軽く伸ばしてまったく無抵抗でいる。
 腹を立てても無駄だ。そもそもジェロニモは、アルベルトが何をしようと、大抵のことにはもう驚かない。義手の右腕で殴られるより、これは痛みの点ではずっとましだったし、不機嫌の果てに下手に暴れられると、止めようとして怪我をさせる心配の方がジェロニモに取っては大事(おおごと)だ。
 アルベルトの爪先がもっと大きく動いて、さらにジェロニモの顎を持ち上げた。ジェロニモは、その動きに合わせて瞳を上下させ、アルベルトの次の動きを、相変わらず無表情なままただ待った。
 ふん、とつまらなさそうに、アルベルトが右手──まだ革手袋をはめていない──の中指の先を噛んで見せ、やっとジェロニモの顎の下から靴の爪先を外すと、同時に、ずるりともっとだらしなく椅子の中で体を伸ばす。
 そうすると、ほとんど椅子からずり落ちそうに床へ向かって足が伸び、まるでそんなつもりもなくそうなっただけと言うように、素早くジェロニモの両膝の間へ、今度は右足の先を差し入れて来る。撫でるように、革靴の硬さが、そこを滑り上がって行った。
 さすがにそれには無表情を保てず、驚いてそちらを見たジェロニモへ向かって、アルベルトは不意にすばしっこく起こした体を倒し込んで来る。床へ押し倒され、上に乗るアルベルトにネクタイの結び目を締め上げられて、ジェロニモはさっきよりもさらに喉を伸ばして、わずかにうめき声を漏らした。
 脚の間へ、差し入れた腿を、アルベルトがはっきりと押しつけて来る。その後を、体温のない右の掌が追って来た。
 先に欲情したのは、一体どちらだったのだろう。アルベルトの足を手に取ったジェロニモか、それとも夕べ眠れないままだったアルベルトか。
 明る過ぎる、と言い訳のように思った。ジェロニモの反応を理由にしたいように、まだ触れ続けようとするアルベルトへはわざと抵抗はせず、
 「・・・時間・・・。」
 思い出させるように、小さな声で言う。
 アルベルトは動きを止めて、上からジェロニモをにらみつけてから、
 「俺が消えても誰も困らん。」
 少々遅刻をしようと、仕事を1日くらいさぼろうと、大した支障はないはずだと、アルベルトが言ったのはそういう意味だったのかもしれない。けれどジェロニモの耳にはそうとは聞こえず、思わず目を見開いてまじまじとアルベルトを見つめる羽目になった。
 おれは困る。そう、瞳の表情がはっきりと言っていることにジェロニモ自身は気づかず、ジェロニモのその反応にアルベルトの方が呆気に取られて、毒気を抜かれたように体の動きを止めると、さっきまでの意地の悪さは一瞬で消え失せ、ただのいつもの、ごく普通のアルベルトが、やっとジェロニモの上から体を浮かせた。
 ふん、と照れ隠しか顔を隠しながら立ち上がり、アルベルトは服の埃でも払うように肩の辺りを軽く叩く仕草をして、
 「下で待ってろ。」
と、まだ床に半ば仰向けのままのジェロニモへ向かって顎をしゃくって見せる。
 素直に立ち上がり掛けてから、ジェロニモはアルベルトの靴の左側がまだ靴紐のほどけたままなのに気づいて、膝先を滑らせるようにしてアルベルトの足元へ再び寄ると、指先の大きさに似合わないなめらかさで支度を最後まで整えてやった。
 ジェロニモの、岩のような背中を見下ろして、アルベルトは今度は靴の先を動かしたりはせずに、ジェロニモが終わるのをおとなしく待つ。そうしようと思えば、自分の首など容易にへし折れるその手が、そんなことは考えもせずに自分の身支度へ手を貸す不思議さに、不意に思い至って笑い出したくなった。
 グレートは銃を持っていた。それをアルベルトへ向かって一度も使ったことはなく、ジェロニモもまた、銃の代わりに恐ろしく巨きな手を持ち、それをアルベルトへ向かって振り上げることすらしない。
 あらゆる人間に踏みつけにされて来た自分を、絶対に傷つけない男たちだった。
 ああそうかと、さっきジェロニモが見せた表情を思い出して、アルベルトは内心でだけ自分のこの世界での在り様を恥じて、ひとり勝手に傷つく自分のエゴを、それでもグレートはいとおしんでくれたのだと、また夕べ散々苛まれた悲しみを思い出していた。
 静かに立ち上がって、部屋から去ろうとするジェロニモをその前に掴まえて、アルベルトは、さっき自分が靴の先で触れた顎へ向かって軽く伸び上がる。
 「──今夜な。」
 眠れなかった夜の、疲れも淋しさも押し隠して、わざと露わにして見せる欲情だけを声音に込めて、アルベルトはジェロニモの耳朶へ向かって囁いた。
 後は肩を押すようにしてジェロニモから離れ、アルベルトは、ベッドへ向いてシャツの襟元のボタンを留めている振りをする。
 ジェロニモは足音を消して部屋を後にしながら、アルベルトに触れられてまだ熱の消えない自分の躯を、今日はきっと1日中持て余すことになる予感に、軽く頭痛を感じ始めている。
 階段をゆっくりと下りて、床を踏みしめる自分の爪先へ意識が届くと、それはするりとアルベルトのそれへ入れ替わり、癇症に切り込まれた爪へぎりぎりと歯を立てる感触が、まるで現実のように目の前へ立ち上がって来る。小指の爪は、そっと触れなければすぐに割れて剥がれて血を流しそうな小ささだった。思い出して、また熱が上がる。
 夜までの時間を既に数え始めているのに気づいて、ジェロニモは今ははっきりと頬を薄く染め、必死で頭痛を振り払うように頭を振った。
 アルベルトが部屋の中を歩き回る音が上で聞こえ、ジェロニモはやっといつもの顔を作ると、正気を保つために、車の鍵を掌の中で血の出るほど強く握り締める。鍵の冷たさと硬さは、アルベルトの靴の爪先と右腕の感触を思い出させるだけだった。

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