うわさになりたい - 番外編

「触れ合う」




 例えば、触れ合うということ。
 週末の夜以外に、ジェロニモのところへ泊まることはあまりないけれど、朝、先に出てゆくジェロニモが、ごく当たり前のように、ハインリヒの頬や唇に軽く口づけてゆく。あるいは、出てゆくハインリヒを軽く抱き寄せて、髪や頬に口づけてから、腕を放す。
 部屋にいる時も、立ち上がるついでに、ハインリヒの腕や足に触れたり、あごを撫でて行ったり、まるで呼吸をするように、ジェロニモは、自然にハインリヒに触れてゆく。
 大きな手が、ふわりと軽く触れるそのかすかさがとても不思議で、ハインリヒは、慣れはしても、まだ、時折照れてあごを引く。
 ジェロニモが運転している時には、いつの間にか、その大きな膝に、掌を乗せるようになっていた。信号待ちの間に、ジェロニモが短い間だけ、指を絡めるように掌を重ねてくる。
 触れたいと思う相手に、触れたい時に触れられるということに、ハインリヒは少しずつ慣れつつある。それをとても心地良いと感じていて、決まった相手がいるというのは、つまりこういうことなのかと、仕事で長く留守にする時には必ず、自分に触れる掌がないことを、ひどく淋しく思った。
 ジェロニモの大きな背中に胸を重ねて、ハインリヒは、眠ろうかどうしようか迷いながら、そこで口を開いた。
 「あんたは、人に触るのが好きか?」
 あまりにも自然に、ほんとうに空気のように触れてくるから、その慣れ方が、ほんの少しだけ癪に障る。その手が触れただろう、他の誰かのことを思って、つまらないヤキモチだと思いながら、ほんの少しだけ、腹を立てる。
 こちらに向いた、見事に剃り上げた後頭部が、わずかに傾いた。
 「・・・どうだろうな。」
 そう言いながら、ハインリヒがゆっくりと腰に乗せた左手を、胸の前に引っ張る。
 「下手に体を動かすと、脅えられて困る。だから、あんまり足音も立てないように、してる。」
 「ああ・・・なるほどな。」
 静かに話しても、腹筋の辺りが動く。掌に、それが気持ちよくて、ジェロニモの手の下で、ハインリヒは強く自分の手をジェロニモの膚に押しつけた。
 そう言えば、最初からジェロニモを恐ろしいと思ったことなどなかったと、今さらのように気づいてみる。それでも、この巨体に立ち塞がられたら、ただそれだけで怯える人間もいるのだろう。
 もっとも、ジェロニモが怖がられるのだとしたら、体の大きさだけではないのだろうけれど。ハインリヒは、それは口にはしなかった。
 「俺は、人に触るのも、触られるのも苦手だ。」
 そんなつもりで言ったわけではないのに、いきなり、ぱっとジェロニモの手が離れる。硬直したように、宙に浮いて動かないジェロニモの手を見て、ハインリヒは思わずシーツから体を浮かせた。
 「あんたのことじゃない。」
 冗談のつもりかと、少し声を荒げて、ジェロニモの大袈裟な仕草をとがめる。背中の傍に起き上がって、ぶ厚い肩を押しこくった。
 ジェロニモが肩をすくめて、それから、顔半分だけこちらを向く。少しだけ唇をとがらせて、珍しくすねたような表情で、ハインリヒを見上げていた。
 「・・・あんたと俺は、一緒に寝てるだろう・・・。」
 ぼそりと言うと、大きな背中が動いて、ジェロニモが体の向きを変えた。
 腰の辺りに毛布を軽くたぐり寄せて、そこに膝を崩して坐っているハインリヒの傍に、頭を寄せて、まだベッドに横たわったままで、それで、とでも言うように、濃い茶色の瞳が見上げてくる。
 「あんたは、誰かと一緒にいるのに、慣れてるみたいだからな。俺と違って。」
 余計な一言を付け加えて、ハインリヒは、鉛色の右手を、ジェロニモの頭に乗せた。
 嫌がられないようにそっと、指先で耳をつつく。柔らかな耳朶をつまんで、耳の後ろに、指を滑らせた。
 否定の言葉はなく、ジェロニモは黙って、目の前のハインリヒの膝を撫でている。ピュンマと長く暮らしていたのは事実だから、わざわざそのことを言うことはしなくても、そんなことはないと、言うつもりはない。
 許してくれとか、悪かったとか、そんなふうに言うべき類いのことでもないから、ジェロニモは、悪びれもせずに、ずっとシーツの上で体をずらして、ハインリヒの方膝の上に、そっと頭を乗せることにした。
 白い脇腹の辺りに、額が触れる。ハインリヒの手足はたいてい冷たかったけれど、その辺りはさすがに暖かい。ジェロニモは、ゆっくりと瞬きした。
 ハインリヒは、まるであやすようにジェロニモの頬や額を、右手で撫で続けている。
 「・・・右手のことを、わざわざ説明するのが面倒で、だから、人に触るのも触られるのも、嫌いなんだ。」
 「なるほどな。」
 膝の上で、ジェロニモが軽くうなずく。
 もう、顔すらろくに覚えていない、1度きり関わり合った、数人の男たちの顔を思い浮かべて、どの男とも、こんなふうに触れ合うことはなかったと、ゆっくりと思い出す。躯を合わせることだけが目的だったし、そこから先に、何か建設的なものがあるとも思えなくて、何より、ハインリヒ自身がとても臆病で、踏み込んで拒絶される前に、終わらせてしまったことがいちばん大きな原因だった。
 もっとも、どの男も、ハインリヒともう1度会いたいと思っていたかどうかは定かではないけれど。
 そうなっていたとしても、一体どれほど続いたろうかと、記憶に薄い、ひとりびとりの膚の熱さを、思い出そうとしてみる。
 こすり合わせれば、躯は熱くなるけれど、終わってしまえば、肌はすぐに冷える。冷える間もなく暖め合いたいと思ったのは、ジェロニモだけだった。
 そんなことを考えながら、ジェロニモの膚にぬくもった、自分の右手を見下ろして、この手で、こんなふうに誰かに触れる日が来ると、昔は考えたことすらなかったのにと、こっそり苦笑をもらした。
 そう言えば、自分から人に触れないのは、生身の方の手足も、いつも痺れるほど冷たいせいだ。血の気のない肌の色そのまま、冬には氷のように冷たくなる手足の先だった。
 手が冷たいのは、心が優しい証拠だという戯れ言は、自分には絶対に当てはまらないと、そんなことを考えていたら、ジェロニモが、ハインリヒの右手に、自分の手を重ねてきた。
 触れるジェロニモの手は、いつも暖かい。触れても、冷たさで、人を驚かせることはないのだろう。だからこそ、ためらいもなく、ハインリヒに触れて来れるのだ。
 様々なことをうらやましいと思いながら、ハインリヒは、そんなジェロニモに思われているということを、心の底からありがたいと思った。
 手足の先が、また冷え始めている。
 「そろそろ、寝ないか・・・?」
 ジェロニモが、そう言って膝から頭を浮かせたのをしおに、ハインリヒは、もぞもぞと毛布の下に体を滑り込ませる。
 またぴったりと、ジェロニモの背中に胸を合わせて、腰に回した手は胸の前に引き寄せられて、そうして、こっそりと、冷たいだろう爪先を、ジェロニモのふくらはぎの辺りに押しつけた。
 脚が軽く開いて、ハインリヒの爪先をそこに挟んで、いつ触れても、常に暖かいジェロニモの膚が、ゆっくりとぬくもりを伝えてくる。
 毛布の下に、熱がこもる。全身を包まれて、ハインリヒは、ジェロニモの背骨に、額をすりつけた。
 「お休み。」
 「おやすみ。」
 胸の前に引き寄せたハインリヒの指の間に、自分の指を差し込んで、ジェロニモが大きく深呼吸をした。


戻る