Get Even - 「あらし」番外編
目が覚めた時、一瞬自分のいる場所がわからなかった。頭の下にあるのは枕ではなく、もっと固いごつごつしたもので、お世辞にも、安らかな眠りを助けてくれるような感触には思えなかった。
それでも、そこへ頭を乗せて、手足をやけにのびのびと伸ばして、たった今まで夢さえ見た覚えがないほど深く、きっぱりと眠っていたらしかった。
自分の下に半ば敷き込んで、手足を絡めているのがアルベルトの体と気づいて、ジェロニモは慌てて体を起こした。
「やっと起きたか。」
揶揄するような口調に、苦笑が混じっているのを聞き取っても、もうしばらく前に目を覚ましていたらしいアルベルトが、自分に抱きつくようにして眠っていたジェロニモを咎める目つきだけは忘れないのに、背筋が凍るような思いがする。
体を起こした時に、ジェロニモが跳ね上げた毛布の中から素足を引き抜き、アルベルトは全裸の体を隠しもせずにベッドを降り、そのままバスルームへ向かう。
その背を見送りながら、ジェロニモは今すぐ床に滑り降りて、額をそこへこすりつけるべきかと、思ったよりも長い間迷っていた。
こんなことにはなっていても、ジェロニモはアルベルトの部下兼用心棒でしかないし、抱き合った後で同じベッドで朝を迎えることすら、アルベルトはたまに許さない。
あの右腕で殴って起こされなかったのは幸運だと思った方がいいと、ジェロニモは、アルベルトがシャワーを使っている音を聞きながら思った。
抱き合って眠るのは、確かに親密さの表れではあるけれど、残念ながらふたりの間柄はそう言った世間並みの関係ではないし、アルベルトが許さない限り、ジェロニモはそこへ踏む込む気は一切ない。
アルベルトの本心がどうであれ、少なくとも見た目は、アルベルトはジェロニモを道具扱いしているし、ジェロニモも、自分はいくらでも取り替えの利く捨て駒だと常に自覚している。
それが、正しいふたりの関係だった。
一体何の気まぐれだろうと、ジェロニモは思う。
アルベルトの姿が見えない今は、少しは落ち着きを取り戻して、夕べの様子を反芻する。
いつもと変わらない、貪るように動いたアルベルトと、近頃ではそれに飲み込まれながら、アルベルトが連れ去られる場所へ、一緒に行くこともできるジェロニモだった。
喉を焼く酒のように、躯を内側から炙られて、ふたりの体の中の火が、どこかで繋がり火勢を増し、ふたりを包んで燃え上がる。溶けて剥がれ落ちた皮膚の向こう側にある、肉体の柔らかさが融け交じり、抱き合い揺れるふたつの躯は、どこまでが誰のものと境いもなくなる。
自分のものでも他人のものでもない存在になって、何もかもを振り落とすと、後に残るのは肉に重なる感触だけだ。
いきなり突き落とされた、あたたかな海の中で漂いながら手足を伸ばし、視界が青──あるいは、赤や翠や蜜色や──に染まると、自分がその海に溶け込んで、海の一部になってしまったのだと思い知る。
海面に浮き上がり、強烈に明るい陽射しを見ることもあれば、どこまでも沈み込んで、そこもまたあたたかい海底で、呼吸さえ必要ないと思えるような、懐かしいぬくもりに包まれることもある。
海底の闇とぬくもりは、ひとがひとである前の、命が始まったばかりの、確かなものなど何もないやわやわとした存在に、心の端を触れさせてくれる。
アルベルトと抱き合って、あるいはアルベルトの後を追って、そこへたどり着くたび、視界を覆う色の鮮やかさに驚き、ぬくもりの深さに安堵し、自ら求めたものではないにせよ、アルベルトだけが、そこへゆける道を知っていると言うことは、ジェロニモにはひどく意味深いことのように思えた。
彼と寝た男たちは、みんなあそこへ行ったのかと、思うことがある。嫉妬ではなく、彼らの見た風景が一体どんなものだったのか、訊いてみたいような、そんな気分になる。
アルベルトを通して他の男たち──グレートと、赤毛のあの男──に感じる不思議な親しみは、それは恐らく、彼らの死によっていっそう深くなってしまっている。
彼らを親(ちか)しく感じることは、つまりアルベルトへ傾きを大きくする自分の気持ちの裏返しなのだと、それを自覚することは恐ろしかった。
アルベルトのために、紅茶の準備をしなければと、ジェロニモはようやくベッドから降りた。
ちょうど、バスルームで水音が止まり、じきに出て来るはずのアルベルトを待たないために、まるで引き剥がすように部屋から出なければならなかった。
着替えの前に、階下へ降りて来たアルベルトの前に、淹れたばかりの紅茶を出し、入れ替わりに上へゆく。ゲストルームで手早くシャワーを浴びて、手早く身支度を整えて、ほとんど走るようにして下へ戻る。
アルベルトはキッチンのテーブルに、威厳も何もない奇妙にくつろいだ様子で座り、階段を降りて来るジェロニモを、そこからじっと眺めていた。
機嫌は悪くないようだと、平静さを保ちながら、キッチンへ落ち着いて足を運ぶ。
こんなアルベルトは、グレートが生きていた頃はよく見ていた。グレートも一緒に、昼間の気の張りようなど忘れたように、ジェロニモの目の前で、ふたり一緒に満ち足りた表情を浮かべて、互い以外の存在は、ふたりの目には入らないようだった。
それに腹を立てるなど思いもしないジェロニモは、傍にいても、そんなふたりの視界に入り過ぎないように、なるべく体を小さくして、気配を消していた。
時間だと控え目に言うと、やっとグレートは我に返ったような表情になり、遠くを見ていたような目をジェロニモに移し、焦点が合うのは、数瞬先だった。
アルベルトは、現実へ戻らなければならないグレートを、1秒でも長く手元に引き止めようと、その腕に自分の腕を絡めて、その仕草が、前の夜のふたりの様子を鮮やかに、匂いすら含めて、見事に再現する。
ジェロニモにすら容易に想像できるそれに、グレートは名残りが尽きないようだったのを、あの頃のジェロニモはただ不思議に思っていた。
今日や昨日出会った仲ではなく、その頃にはすでに、世間並みの夫婦のように馴染み切った関係だったと言うのに、グレートはいつまでも初々しくアルベルトを求めていたし、アルベルトはグレートを見つめ続けて飽きると言うこともなく──ジェットが現れた後さえ──、色恋沙汰には疎い上に興味もないジェロニモは、色と欲で繋がったり離れたりする周囲の男たちと女たちを眺めて、恋の絵面は理解できても、グレートとアルベルトの関係を理解してはいなかった。
あの頃は、そんな必要もなかった。
そして今は、グレートがいた場所へ、図らずも自分が居心地悪く収まることになり、そのことを、どこか盗人(ぬすっと)のようだと感じていることを、まだ誰にこぼしたこともない。
グレートが見た風景、アルベルトがグレートに見せた風景のことを、ジェロニモは考えた。
自分が見たそれと、恐らく同じはずはないそこで、グレートは何を思ったのだろう。
自分と同じように、そこへ永遠にいられたらと、そう思ったのだろうか。
ジェロニモは、アルベルトの傍から少し離れて、テーブルにはつかずに、そこからアルベルトを眺めていた。
ジェロニモがそうしてそこへただ立っているのを、アルベルトは特に不審にも思わない──分を弁えた態度と言えば言えたから──のか、ジェロニモの方へはそれきり視線もやらず、銀色に光る冷蔵庫があるキッチンの奥を、ぼんやり眺めているようだった。
今日の朝食は、街の小さな食堂で取ることになっている。
アルベルトが直接ではないけれど、下の連中が少しばかり迷惑を請け負った店だ。自分たちが目を光らせているから安心しろと、さり気なく店と周囲に知らせるため──静かな脅しと取られることもある──に、単なる客としてそこへゆき、何も言わずに食事をする。
店によっては、金を取ろうとしない。そんな時は、アルベルトが自分で空になったコーヒーのカップをカウンターへ運び、店主に見えるように、カップの下に紙幣を置いて去る。
助けが必要だからこそ組織に頼るなら、その義理は永遠に貫き通せと、アルベルトからの無言の圧力だ。
アルベルトの訪れを、ありがたがる店もないではなかった。けれど半数は、おどおどと目を伏せて、明らかに迷惑がっている様子を隠せない。その程度に世間ずれしていないからこそ、ろくでなし──グレートの口癖だった──の集団に、保護を頼む羽目になる。
時折、アルベルトは、彼らから向けられる怯えの目をまるで楽しむように、そして同時に、そんな風に見られる自分を嫌悪するように、傍にいてアルベルトのそんな気持ちに気づいていても、ジェロニモは何も言わない。
同じことをしていたグレートは、あんな風に見られることは滅多となかったと知ってはいても、それを口にすることはない。
アルベルトとグレートは違う。グレートには、ただ敬愛しかなかったジェロニモが、だからアルベルトとは、抜き差しならない関係に陥っている。
そしてそれを、ジェロニモはもう嫌悪すらしていない。
一体いつ、この男を愛し始めていたのだろうかと、ジェロニモは、アルベルトを眺めながら、心の片端を物思いに沈めてゆこうとした。
それを断ち切るように、アルベルトが椅子を後ろに押して立ち上がった。
「着替えて来る。」
相変わらずジェロニモの方は見ずに短くそう言って、さっさと傍を通り過ぎ、階段へ向かう。
その背を肩越しに見送ってから、ジェロニモは紅茶のカップを片付けようと、テーブルへ向かって足を1歩前に出す。
「おい。」
ぞんざいな声が、後ろから投げられる。また顔だけで振り返ると、階段の数段上で足を止め、アルベルトが手すり越しに体を乗り出していた。
「ここに来い。」
犬でも呼ぶような仕草で、アルベルトがジェロニモを手招く。
テーブルに向かっていた体をそちらへ回し、ジェロニモはいつものように、足早に、けれど足音は立てずに歩く。呼ばれた通り、階段を上がろうとそちらへ向きを変えると、またアルベルトが鋭く声を飛ばした。
「そっちじゃない、こっちだ。」
手すりを挟んだ自分の目の前を、ほんとうに犬にでもするように指差し、ジェロニモはそれにむっとするでもなく、無表情に手招かれた通り、方向を変えてそこへ行った。
珍しくジェロニモがハインリヒを見上げ、ハインリヒは面白そうにジェロニモを見下ろし、見方によれば意地悪いとも見えるその愉快そうな表情に、ジェロニモは、何をするつもりだろうかと、なるべく体の力を抜いた。
手すりの間から、ほとんど無理矢理のように掌と肘までを通し、アルベルトがジェロニモのあごを包み込みに来る。喉を伸ばされ、いっそう上向かされて、それはまるで、幼い少女にでもするような仕草だった。
手すりの上から、アルベルトが体を乗り出して来る。挨拶にしては熱のこもった所作の、けれど触れるだけの口づけは、ほんとうに、少年や少女の間で交わされる、まだ清潔なだけのそれだ。
アルベルトは目を閉じていた。ジェロニモはアルベルトの行動を読めずに、目を閉じる暇もないまま、持ち上げられたあごと一緒に、軽く背伸びをしていた。
唇が外れると、それでもまだ息の掛かる近さのまま、ジェロニモに触れたまま、アルベルトが瞬きも忘れたようにジェロニモを見つめて来る。自分の姿が映り込むその瞳の色には、確かに見覚えがあった。
見覚えのあるそれは、こんな間近に見たものではなく、そして映っていたのも自分の姿ではなかったはずだ。
グレートを見ているのだと思った。こんな朝に、先に出てゆくグレートを見送る時の、アルベルトの瞳だった。
ジェロニモが、思わず懐かしさに目を細めると、アルベルトは急に唇を引き締め、どん、とジェロニモの肩を右手で小突く。
不機嫌に見えるその表情は、見れば思わず安心する、いつものアルベルトの貌(かお)だった。
それきり、もうジェロニモの方など見もせずに、足早に階段を上がってゆく。ジェロニモも、たった今与えられた口づけから心を引き剥がし、またキッチンの方へ体を向けた。
あるいは、彼が見ているのは、グレートではないのかもしれない。アルベルトが使った紅茶のカップへ手を伸ばしながら、ジェロニモは考え続けている。
あの男が、痛みと痺れを耐えて、自分の寝顔を見守っていたのは、それはそういうことなのだろうか。
まさか、と頭を振った。自惚れもいいところだ。ほとんど不遜だと、そう思って、苦笑が唇をわずかに曲げる。
取り上げたカップを見下ろし、そして、アルベルトの唇が触れていたはずの縁へ、ほとんど無意識に指先を触れさせていた。愛など、自覚しても苦しいだけだ、しかも相手が悪すぎると、思うのとは裏腹に、そこへ唇を近づけたいと言う衝動に、負けないのに必死だった。
2階で、彼が歩き回っている足音がする。今日の彼のネクタイは、グレートのものだろうかと思って、胸が疼いたのに気づかない振りをしながら、ジェロニモはカップをシンクへ持って行くために、ようやく爪先を前へ滑らせた。