「あらし」 - 番外編
Hazel
Eyes
滅多と口を開くことはない。上目に人を見て、引き結んだ唇が、強情そうに見せているけれど、それが一種の怯えによるものなのだと、今はグレートも知っている。
決して逆らわない。何をさせても、何をしても、まるで、肌に馴染んだ古いシャツのように、体の上に添ってくる。
こうやって生き延びてきたのだと、全身で示しながら、それでも、グレートの前にいるアルベルトは、どこか小さな生き物がなつくように、甘えた仕草を見せる。
薄い、血の気のない唇。透き通るほど淡い、水色の瞳。年よりもまだ薄く細い体。何よりも、あやうさを全身に添える、銀色の髪。
少女ではない。明らかに少年の、顔立ちと体。
痛めつけられてきた人間が、ちょうど、傷ついた野生動物のように、怯えて歯を剥き出しにして、うなり声を上げて威嚇するように、少年も、他の人間には、無礼なほど心を開かない。
触れることさえさせず、きっちりと胸の内を閉じて、これが、自分の腕の中で淫蕩なほど乱れるあの同じ少年かと、グレートは目を見張る。
外へ出したくないと思うのは、どうしてだろう。
このまま、部屋の中へ閉じ込めて、どこへも出さずに、自分の手元だけに置いておきたいと思うのは、なぜなのだろう。
執着か、独占欲か、嫉妬か、どれがどれとも分かち難く絡み合った感情に流されて、まるでかごの中の鳥のように、その翼を広げることさえ許さず、丸く包んだ両手の中に閉じ込めて、その手の輪を、ゆっくりと小さく縮めてゆく、幻想。
小鳥は、体と首をひねられ、肺を押し潰され、細めた呼吸さえ失い、小さな心臓を止める。小さな断末魔の叫びを、合わせた手の中から聞きながら、表情ひとつ変えず、グレートは、自分の両手を眺めている。
手の中の、小さな冷たい骸。
もう、誰にも奪われることはない。もう、去ることはない。もう、失うことはない。
そして、あの熱さも暖かさも、あのしなやかさもあやうさも、グレートの手の中で、完全に息の根を止められる。
苦痛の中で輝く種類の人間がいる。踏みつけられて、痛めつけられて、傷つけられて、殺されて、危険なほど美しく輝く種類の存在がある。
そそられて、そそのかされて、うっかりと罠に落ちる。そして手の中に、まだほのかに暖かい、人間だった肉塊を発見する。
暴力を誘う。そうとは、知らずに。けれど、全身で。
まだ、殺してはいない。何度も、そんな夢は見たけれど。
グレートは、空の両手を見下ろした。
そう言えば、酒を飲ませたことは、まだなかった。
飲んだことがあるかどうかも、訊いたことはなかった。
思いついて、渋みの少ない赤ワインを選び、また、アルベルトに会いに行った。
ボトルを渡すと、ラベルを読もうと必死になる。
コルクを抜いて、匂いをかがせた。
顔をしかめ、ボトルをグレートに返してくる。
ぬるいワインを、ボトルから直接あおった。
ぬるりと、喉を流れてゆく、その感触に、じわりと、アルコールのせいではない熱が、広がった。
また、目の前に、紗がかかる。
現実感のない空間に、突然放り込まれる。
まるで、背景から切り取られたように、アルベルトの白っぽい輪郭だけが、残像を残して動く。
アルベルトが、ふいと別世界へ飛んでしまったグレートを、少しだけ不思議そうに見ている。
ワインを口いっぱいに含んで、銀の髪を引き寄せた。
逆らいもせず喉を伸ばし、唇を開く。流れ込むアルコールの匂いに、肩が硬張ったけれど、グレートは、腕の力をゆるめることはしなかった。
ごくりと音を立てて、赤い液体を喉に流し込み、それから、少年は大きくむせた。
もう、一口。
また、一口。
さらに、一口。
喉と、着ているシャツの胸元に、赤い染みができても、グレートはやめなかった。
ボトルが、半分近く空になってようやく、グレートは、アルベルトを床に軽く突き飛ばした。
ふらりと、体が傾く。音も立てずに床に倒れ、こちらに向いた顔が、赤く染まっている。
半分だけ開いた唇から、舌先が覗いていた。
もう、酔っているのだと、ゆるんだ口元から見て取れた。
上着も脱がず、ネクタイを軽くゆるめて、シャツのいちばん上のボタンだけを外して、グレートはアルベルトにのしかかった。
酒くさい唇を、奪う。
頬も首筋も胸元も、いつもならグレートに抱かれてそうなるように、まだらに赤く染まっている。
舌を、噛み切るほど強く絡め取りながら、喉をふさぐように、舌先を伸ばす。
苦しがって喘ぐのを、気づかない振りをして、痛めつけるように、下肢に手を滑らせた。
シャツのボタンを、引きちぎる。
自分の下で、押し潰されながらうごめく少年は、赤と白のまだらの、珍しい小鳥のようだった。
ほんのひとひねりで、息の根を止めてしまえる、小さな生き物。
アルコールの酔いのせいで、いつもほどは動かない体を、それでもグレートの下でねじって、アルベルトは何度も苦痛を訴える声を、小さく上げた。
苦痛から始まっても、最期はいつも、悦びで終わる。悦びを増すための、ささやかな暴力。その暴力を誘うための、無意識の媚態。欲しいのは、もっと優しい繋がりのはずなのに、体は動いて、苦痛をそそのかす。
そんなことは、したことはないのに、少年の、色素の薄い膚に、唇と歯列の痕を残す。皮膚の下に浮く血の跡はまるで、存在するかどうかさえ怪しい、アルベルトの淫らさへの罰のようだった。
ぎりぎりと、歯を立てる。鎖骨を、まるでその肉を食らうように、舌でなぞる。
苦痛を見たいと望む人間たちのために、苦痛を受け入れるように、つくられた躯。受ける苦痛を、快楽のフィルターを通して感じるように、しつけられた躯。
痛めつけてくれと、全身で訴える。それが快感だと、誤解する皮膚。誤解はいつか、神経を蝕んで、触感すら変化させる。
アルコールが、匂った。
動きを止め、傍に置いたままのボトルから、大きく一口あおる。
次の一口を、またアルベルトに注ぎ込んだ。
喉が、動く。熱に浮かされた瞳が、下からグレートを見た。
憐れみが、その水色の小さな海に浮かんでいると思ったのは、グレートの錯覚だったのだろうか。
体温の低い体が、グレートの下で、今は熱い。
汗を浮かべて、グレートは、アルベルトの中にいきなり入り込んだ。
瞳が、大きく開く。喉を反らして、アルベルトは叫んだ。
拒む狭さが、よけいに押し入る強さを煽るのだと、知っているのだろうかと、グレートは思った。
強引に躯を進めながら、膝裏に手を添えて、体をふたつ折りにした。
また、アルベルトが声を上げる。
胸を重ねることも、抱きしめることもせず、躯だけを深く繋げて、ねじ曲げられ、潰れたアルベルトの体を見下ろす。
奇妙なその形は、滑稽でさえあったけれど、突き上げて揺するたびに、機械の掌を噛んで声を殺そうとするアルベルトの横顔には、ひどく凄艶な美しさがあった。
引きちぎられたシャツの絡んだ胸に、グレートがつけた痕が、無残に散っている。
飛び散った血のようだと思った時に、そこに、アルベルトの、白い体液が散った。
体温が、一瞬、上がる。
同時に上がった声に、耐えきれずにグレートも果てた。
くたりと脱力した体を、床の上にそっと横たえ、躯を外す。
きちんと、服を脱いで無防備になった体を、重ねるべきなのに。
互いの弱さを受け止めながら、交わすべき熱さなのに。
苦痛ではなく、優しさで、互いを繋げるべきなのに。
視界にはまだ、もやがかかっていた。
死んだように動かないアルベルトを見下ろして、途端に胸に、苦い罪悪感がわく。
アルベルトの瞳をかげらせる怯えが、自分の中にあるおそれと重なる。それを否定したくて、その瞳を、もっと大きな恐怖で埋め尽くしたくなる。
決して認めたくはない自分が、アルベルトの瞳の中に浮かぶ。
だからまだ、優しさを表せない。
かわいらしい、美しい小鳥を、いとしいと思いながら、その手の中で息の根を止める。
何度も、何度も。繰り返し、繰り返し。
乱れた髪を頬に散らしたアルベルトを、グレートはそっと床から抱え起こした。
背中と胸を重ねるように抱きかかえ、まだふたりで床に坐ったまま、グレートは、まだ残っている赤ワインを、またボトルから口に含んだ。
髪に指を差し入れ、アルベルトの顔の向きを変える。
肩越しに、自分の方へねじ向かせ、ワインを含んだままの唇を、そっと重ねた。
赤いアルコールが、ゆるく唇の間を、行き交う。唇の端からこぼれた一筋が、あごから喉に流れ、アルベルトの胸を濡らした。
その赤い筋を、グレートは、ようやくいとしさと優しさだけを込めて、そっと舌先でなぞる。
自分が踏みにじったばかりの肉体が、目の前で、ぼやけた視線をさまよわせていた。
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