Hollow



 まるで中毒だ、とハインリヒは思った。
 絡みつくように、見ている。視線の中で、服を剥ぎ、裸にして、組み敷いた躯を、押し開いて蹂躙している。
 そんなことばかり、考えている。
 まるで、飢えてさかりのついたケダモノのように、性的な行為ではなく、求めているのは破壊なのだとは、気づかないふりをして、そんなことばかり考えている。
 手を伸ばせば、逆らいはしない。むしろ、喜んで躯を開いて、すり寄ってくる。
 いつの頃からだろう。求められながら、実は軽蔑され、憐れまれているのだと、感じ始めたのは。
 オレをおもちゃにして、アンタ、楽しいかい? ゲスやろう。
 そんな声が、彼を抱くたび、脳裏に響くようになったのは、一体いつからだろう。
 求めているのは彼なのに、彼は、自分を侵す誰彼を、心の底から憎悪している。それなのに、躯の疼きを止められなくて、繰り反し、繰り返し、自分を侵してくれる誰彼を、彼は常に求めている。
 楽しいわけではない。けれど、悦びはある。神経を直接刺激する、単純で深い悦び。中毒性の高い、その快感。
 体液と粘膜を奥深く絡めて、躯を繋げる。熱が生まれ、そして、解放される。
 錯覚と幻覚の真ん中辺りをさまよう、短い旅。それでも、殺伐とした、永遠の人生の中では、そんなろくでもない経験も、潤いになる。


 手を縛れば、怯えが生まれる。いつもの余裕が減ったところで、目隠しをすれば、あの、憐憫をたたえた瞳の色を見なくてもすむ。
 「アンタ、こんな趣味があったのか。」
 静かすぎる声。軽口を叩こうとして、けれど、声に微かな怯えが混じるのを、隠せない。
 「ない。たまには違うやり方の方が、おまえが飽きなくていいだろう。」
 ふん、と強がるように、鼻で笑った。
 ジェットをベッドに残して、ハインリヒは、少し離れたところに置いてある椅子に、静かに腰掛けた。
 ゆっくりと、ことさらゆっくりと、煙草に火を付けて、深く吸った。
 「何してんだよ、アンタ。」
 ジェットの声が、焦りにとがる。
 ごく普通の声で、ハインリヒは答えた。
 「別に。おまえを見てるだけだ。」
 全裸に、ハインリヒの白い長袖のシャツだけ羽織っただけの、ジェットを。ベッドに縛りつけられて、目を覆われている、ジェットを。
 「見てるって・・・」
 「おまえを見てるだけだ。」
 声を低めて、ハインリヒは、もう一度繰り返した。
 ジェットの肩の線が硬張ったのが、はっきりと見えた。
 自分では見えない視線に晒されて、自然に体がすくむ。無意識に、無防備な体を隠すために、手足が縮んだ。
 膚に、粟が立つ。寒いのではない。恐怖のためだ。何が起こるのかわからなくて、ジェットは怯えている。
 それを眺めながら、ハインリヒは、いつもの皮肉笑いに、唇を少しだけ歪めた。
 何もしない。ただ、眺めているだけだ。
 それなのにジェットは、今は見ることの出来ない外の世界からではなく、自分の内側から発生する恐怖のために、怯えの中にいる。
 頭の中で想像することは、次第に質量を増し、ジェットの脳髄を、喰い散らかしにかかる。敵は、他でもない自分自身だ。
 ハインリヒの、冷たい視線の中で、ジェットの躯が、変化を見せた。
 ゆっくりと、まるで昂ぶるように、形を変えてゆく、それ。くすりと、ハインリヒは小さく笑いをもらした。
 膚が赤い。汗の浮かんだ額が光り、そして、呼吸が、少し速い。
 「お手軽なヤツだな。」
 揶揄するように言うと、びくりと腰の辺りが跳ねた。
 「アンタ、オレのこと、一晩中、放ったらかしにするつもりか?」
 「だったらどうした? 楽でいいだろう。」
 不意に、ジェットが、ベッドの上で暴れ始めた。
 「ちくしょう、外せよ。」
 もがいて、縛りつけられた腕を、ベッドから外そうとする。
 ベッドの方が壊れるかと思うほどの音を立ててから、ジェットは嗚咽を噛み殺して、動きを止めた。
 「外せよ・・・外してくれよ、頼むから。」
 シャツが乱れ、肩が剥き出しになっている。元々サイズの合わないシャツは、頼りなくジェットの上体に、まとわりついているだけだった。
 隠したり、覆ったりする目的ではなく、全裸よりも、もっと淫らに膚を晒すための、布切れ。
 ハインリヒは、見えないことを秘かに感謝しながら、下唇を舐めた。
 「何が気に入らない? オレが何かするとでも思うのか? オレが信用できないのか?」
 矢継ぎ早に問うと、ジェットは、声のする方へ体を起こし、声を荒げた。
 「わかってるくせに、そんなのじゃないって、わかってるくせに!」
 尋常な姿では、ない。
 半裸でベッドに縛りつけられ、目隠しをされ、そして、躯は明らかに、すでに昂ぶっている。全身が、欲情だけを示していた。
 ハインリヒは、ジェットの首筋に、指を滑らせた。
 それだけでもう、肩が目に見えるほど揺れる。
 喉を喘がせて、ジェットは、その指先を逃がすまいと、必死に体で追う。
 「まったく、安上がりなヤツだな。まだ、何もしてないってのに、こんなになりやがって。」
 ジェットの頬に、朱が散る。
 そんな反応を期待していて、ハインリヒは、またからかうように、ジェットの胸元に、掌を当てた。
 「もっと・・・ハインリヒ・・・」
 体をよじって、もどかしげに、足の位置を変えて、ハインリヒの手を、欲しいところに導こうとする。もちろんハインリヒは、そうと知っていて、それをわざと無視した。
 ジェットは、羽織っているハインリヒのシャツを、まるで、ハインリヒの掌のように感じている。さわさわと触れ、けれど、そうして欲しい触れ方は、決してしない。
 自分の熱だけが、一方的に高まってゆく。じわりと、シャツの下に、また汗が浮いた。
 「頼むから・・・アンタがさわってくれなきゃ、イケない。」
 足を大きく開いて、ジェットは、ねだるように、腰を揺らした。
 ジェットの中の熱さを、ハインリヒはふと思い出す。体の中心を、血の代わりの循環液が走って行く音を、はっきりと聞いたと思った。
 ふたつの、別々の熱。ひとつに溶け合わせ、鉛色の海に、注ぎ込んでゆく。波にさらわれながら、まるで盲目の二匹の魚のように、ふたつの躯はしっかりと絡み合い、海の底に沈んでゆく。
 いつもなら。
 重く暗い海の底へ辿り着くのに、今日は少しだけ、違う手順を踏んでみたかった。
 「アンタじゃなきゃ、だめなんだ。」
 一体何人に、同じことを言った? 今まで、出逢うまで、一体何人のろくでなしどもに、何をさせた? 
 すでに、こんなことには慣れ切っている躯は、ハインリヒを満足させればさせるほど、飢えをさらに強める。
 もっと欲しい。もっと、踏みにじってやりたい。
 そして、浅ましいほど単純に、知ることのできないジェットの過去に、嫉妬する。
 ジェットの中に入り込み、踏み荒らし、消えない痕を残して去った連中に、ハインリヒは、殺意に近い嫉妬を感じることさえある。
 自分の大事なものを、すでに傷つけ、汚していた誰かに対する怒り、そして、それを受け入れていたジェットに対する、怒り。
 どちらも、ハインリヒの中では、どちらがどちらに対しての怒りなのか、しかと見極めはつきにくい。
 ハインリヒは、冷たく笑った。
 不意に、ジェットの両足を大きく開いて抱え上げ、いきなり押し入った。
 ジェットが、ひずんだ悲鳴を、ハインリヒの肩の上にもらす。
 躯を、無理にふたつに折り曲げ、重みをかけて、押し開く。
 ジェットの上体を、抱え上げた足ごと抱き、強く、重い体を押しつける。
 ジェットの潰れた胸から、平たい呼吸が時折もれた。
 こんなやり方でも、ジェットの躯は反応する。拒むのではなく、もっと奥へ誘い込もうとするように、ジェットの熱が、まといつく。
 狭く、熱く、ジェットが、ハインリヒを捕らえた。
 「外して、くれよ。アンタが見えない、アンタに、さわれない。」
 ジェットが、かすれた声で言った。
 「アンタにさわれなきゃ、イケない。」
 ハインリヒに向かって、腰をゆすり上げながら、ジェットはまた、言った。
 動きを止め、一瞬迷ってから、ハインリヒは、ようやくジェットの腕をベッドから外し、それから、目隠しを取ってやった。
 濡れた瞳が、現れる。
 微かな罪悪感と自己嫌悪を含んだ視線と、憐憫に満ちた視線が、静かに絡み合った。
 ジェットは瞳を閉じ、いきなり体を起こすと、ハインリヒの首にしがみついて来た。
 膝の上に坐る形になると、そのまま、躯を揺すり始める。
 ジェットの腰に両腕を回し、ハインリヒは、その胸に、顔を埋めた。視線を交わさずに、すむように。
 ジェットが声を上げ、いっそう強く、ハインリヒに躯を押しつけてくる。
 まるで、わざとのような嬌態に、それでもハインリヒの躯は、ジェットの中でさらに昂ぶりを増した。
 怒りは、自分に対してのものなのだと、ふと自覚する。
 ジェットを侵した以前の誰でもなく、ジェットではもちろんなく、ハインリヒの怒りの対象は、自分自身なのだと、不意に気づく。
 踏みにじりたい自分の衝動を、ジェットの欲情を利用して、なだめている自分の卑しさに対する怒りなのだと、ようやく気づく。
 そんな卑しさに対する自覚が、ジェットに対する怒りなのだと、今やっと、ハインリヒは、自分の奥底をのぞき込んでいた。
 ジェットの憐憫は、そんなハインリヒの葛藤を、躯で感じるせいなのだろうか。繋げた躯が語る言葉を、傷つきやすい内側に受け止めて、ジェットは、哀しげな瞳で、ハインリヒを見つめる。
 踏みにじられながら、ジェットは、自分を踏みにじる誰かを、可哀想にと憐れんでいる。
 かわいそうに。
 誰かが、同じことを以前言った。誰だったろう。
 泣き出したいと思ったのは、何故だったのだろう。
 ジェットの、汗の浮いた胸に額をすりつけ、躯が反応するままに、熱を吐き出しながら、ハインリヒは、ふと、ジェットを壊してしまいたいと、思った。


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