Icy Cold - 「あらし」番外編

 土曜日はかき入れ時だけれど、さすがに日曜日は店も定休日だ。
 近頃は、習慣の違う移民や観光客も山と増えて、日曜も営業すべきだと無休にしている同業者もいる。
 グレートはそれを見習うことはせず、
 「ま、教会なんぞに行く気はなくても、1日くらい怠けてたっていいさ。おれは勤勉なんてのは性に合わなくてね。」
 勤勉だからこその、労働を禁じるその1日なのだけれど、グレートのボスである張大人は中国人だし、この連中は、休む方を不謹慎だと考える。親か大恩人のの死でもない限りは、どんな日も汗水たらして働くべきと、そういう信条らしい。
 東洋人には東洋人の考え方があるさ。おれは腐ってもイギリス人でね。
 そうやって休みでもなければ、いとおしい、元はドイツ人らしい青年と逢瀬もかなわない。
 今では大学にいるアルベルトは、グレートよりもはるかに背が伸びて、胸も厚い。元々ひょろりと長かった手足は、今ではしっかりと筋肉がついて、あれでもうちょっと友好的な微笑み方でもすれば、行く先々でさぞやもてるだろうと思われるのに、グレートの情人であるという自覚のせいかどうか、他の人間には微笑みかけることさえ滅多となく、白銀以外に形容しようのない外見のせいで、いっそう冷たく見えるらしい。
 近寄れば、かかる息で凍死しそうだと、下っ端のチンピラがぼやいているのを、グレート自身が聞いたことがある。
 殺気はさすがになくても、グレート側の、荒んだ世界に保護される羽目になったせいか、荒事や流血沙汰、果ては人の生き死にを日常として目撃する羽目になって、それで歪んでしまったと言うわけでもなさそうに、ただグレート側でないなら心を許すべきでないと、習わずに学んでしまったらしかった。
 アルベルトが何者かを知っている部下たちが、ベッドの中でもきっと氷みたいなんじゃないかと、陰口を叩いているのを知っていて、グレートはただ知らん振りをしている。そう思うならそう思ってればいいさ。あの子はあれで──。
 考え始めてから、いまだ初めの頃と変わらず、ついアルベルトをあの子と思ってしまうのに、グレートはひとりで苦笑した。
 イタリア製のシルクのネクタイも、仕立て代で、貧しい家族の年収分くらいになるスーツも、顔の映りそうにぴかぴかの革靴も、今ではグレートよりも迫力ある姿でぴったりと着こなして、表に立てば、誰もアルベルトの方を、グレートの立場にある人間だと思うだろう。
 ベッドまで、抱え上げて運べたのは最初の2年ほどで、今では酔ったグレートを、軽々と抱き上げて運ぶのはアルベルトの方だ。
 酒がおおっぴらに飲める歳にはわずかに足りず、けれどグレートの差し出すワインの味は、とうに覚えてしまっている。
 養い親のつもりだったのはほんとうだ。どこかで、それがずれてしまった。うちのボスは趣味が悪いのが玉に瑕だぜ。そんな声に対してする言い訳を考える気もなく、そろそろ運転手や護衛の、ごく身近に自分と接する面子──それだけ、アルベルトと一緒のところを目にする機会も多い──を、もう少し口の固い、おしゃべりは趣味ではない顔振れに変えようかと、グレートは少しばかり真剣に考え始めていた。
 日曜だと言うのに、朝早くから図書館へ行って、何か締め切りの近いらしい論文の下調べをして来たと、アルベルトが帰って来たのは昼食の時間を過ぎていて、グレートはちょうど、車を洗いに行って戻って来たところだった。
 「あんた、休みだってのにネクタイなんかして。」
 アルベルトが前髪の奥で眉を寄せる。
 「・・・どこで見られてるかわからんし、おれみたいな面倒な立場になるといろいろうるさいのさ。」
 「だったら運転手を呼んで行かせればよかったんだ。」
 「・・・だって、日曜じゃないか。」
 ギャングのボスの護衛に、休日などあるわけもないのだけれど、せっかく店も休み、自分も休み、そんな日に、家族持ちだろうとひとり身だろうと、車を洗いに行けと誰かを呼び出す気にはならなかった。
 グレートがちょっと気弱に言ったのに、アルベルトがくすりと笑いをこぼす。グレートは、息を吸う間、その表情に見惚れた。
 氷みたいだ人形みたいだと、そう言う連中は、決してこのアルベルトの笑みを見る機会はないのだと、何かうっすらと、優越感と呼べそうな気持ちが湧く。
 正確には、グレートにとってはそれは優越感などではなかったけれど、何かちょっと肩をすくめて一緒に微笑みたいような、そんな気持ちではあった。
 「まあ、日曜はあんたのプライベートだ。」
 その通りさと、言おうとしたところで、アルベルトが2歩大きな歩幅で近づいて来る。そうすると、ふたりの間は腕の長さ半分の距離になった。
 アルベルトの、いつの間に革手袋を外したのか、鉛色の素手が、グレートのネクタイを下から撫で上げて、それから、幅の細まる辺りをぐいとつかんで、そのままグレートを少し乱暴に引き寄せる。
 「俺も、あんたのプライベートだろう?」
 軽く仰け反ったせいで上向いた先で、またアルベルトが笑っている。血の気のない薄い唇が、横に深く裂けているように、一瞬見えた。
 ああ、そうだ。そうだとも。
 日曜とアルベルトは同義だ。誰にも何にも邪魔されず、ふたりきりで過ごす。そのために、月曜から土曜まで、なるべく脇目も振らずに必死で働くのだ。
 まるで首輪のようにネクタイを引かれたまま、腕や足をもつれ合わせながら、2階へ上がる階段の途中で倒れかけ、ここでもいいかと思ったけれど、あまりにも傾斜と段差が邪魔だと、ふたり一緒に考え直した。
 今はきちんと──きちんと?──寝室へ行き、ドアを閉めて、ベッドの中に飛び込みたい気分だった。
 ほとんどベッドの上に放り出されるように、アルベルトにのし掛かられたのはグレートの方で、自分をまたいで首筋や胸に触れて来るアルベルトに、数分だけ好きにさせた後で、くるりと位置を入れ替える。
 見下ろすアルベルトの頬には血の色が上がって、今は唇も、何か人工の色でも差したように緋い。
 義手の見た目も手触りも、さすがにほんもの通りとは行かなくても、アルベルトは氷の塊まりでも人形でもない。グレートが触れる通りに応えて、様々皮膚に差す陰の色とその晧さ自体を素速く変える。押さえつければ、いっそう赤く、グレートの掌の形に跡が残り、グレートが触れた証拠が、膚の上に浮き上がる。
 体温が混ざって、上がる。じたばたと服を脱いで、皮膚を剥き出しにしたところでそれ以上は諦めて、触れることに集中しながら、脱げた革靴がごろんと床に落ちて転がって不粋な音を立てても、ふたりの手指の動きは一向に妨げられない。
 グレートのネクタイは喉元の小さなボタンを外せる程度にゆるめられて、だらしなく首回りに絡みついて垂れ下がっている。その、グレートでも手こずるボタンを外したのは、アルベルトの右手の指先だ。
 体温のないその右手は、グレートの膚に触れてぬくもりを写し取る。もっと熱い場所へ触れて、ひやりと水を差すどころか、その、いつまで経ってもどこかぎこちない動きに、グレートはいっそう煽られる。
 晧い躯のあちこちを赤くまだらに染めて、アルベルトは真っ直ぐにグレートを見つめて来る。
 グレートが殺して来た連中は、誰も自分をこんな風には見つめて来なかった。諦めと絶望の混じった、深い穴底の瞳、表情も感情も消えてしまったそこに、吸い込まれそうになったことはなかったけれど、今見ているアルベルトの、底があるともないとも知れない、ほとんど銀色のような薄い水色の瞳は、油断すればするりと、体も心も命も全部、グレートを丸ごと飲み込んでしまいそうだ。
 自分だけに向けられた、ありとあらゆる感情。そのすべてをたたえた、色の薄い瞳。視界を狭めて、グレートだけを映して、そのことにまったく後悔も迷いもない、自分よりもはるかに若いくせに、自分のそれよりも救いようのない現実の中で、血の涙を流したことのある、水色の瞳。
 そこへ映ることを、どこか誇らしく思いながら同時に、グレートはその底なしの深さに、恐れをなしもする。
 自分なぞが、こうやって、そこへ小さな姿で在ってもいいものかと、今は別の形でアルベルトの内側へ飲み込まれながら、グレートはふと、見つめ続けることに恐れを感じて、長く瞬きをした。
 アルベルトが、垂れ下がって揺れているグレートのネクタイを右手に巻き付け、そのまま自分の方へ強く引き寄せた。
 アルベルトの、大きく開いた両脚の間に這い寄っていたグレートは、そのままアルベルトの胸に倒れ込む形になると、もっと近く引き寄せられて、ほとんど無理矢理のように唇が重なった。
 触れる粘膜が広がる。開いた唇の方では、舌と唾液が絡まって、濡れた音が卑猥に響き、もう一方の末端は、アルベルトの中で正確な体温にくるみ込まれて、うねりに引き絞られながら、仮死を宣告される瞬間を心待ちにしている。
 引き吊れる筋肉、押し込まれる時よりも、引き出そうとする時の方が、追いすがるようにいっそう深く絡みついて来る。うねるたび体温が上がるのが、直にわかる。合わせた胸がこすれ合い、吹き出した汗で、次第にぬるぬると滑り出す。
 今ではアルベルトは、両腕の輪の中にグレートの首を抱き寄せて、まるでグレートを直接絞め殺そうとしそうに、時々仰け反る胸元から、押し殺した声が震えて伝わった。
 躯の動きを変えると、耐え切れずにその腕もゆるみ、グレートは逃げ出すようにそこから頭を抜いて、体を起こして、躯を寄せてもっと深く繋がる。アルベルトの爪先が丸まって、その拍子に、グレートの背中のどこかを引っかいた。
 空になったアルベルトの両腕は、何か抱くものを探して枕の近くをさまよった後で、ヘッドボードへ指先を突き立てる位置に落ち着いた。
 そうしてから、グレートはやっと少し自由を取り戻して、アルベルトの熱の内側へ思う存分浸り込み、青白い腿の内側へ手を添えて、アルベルトの体を、もっと小さく折り畳もうとする。
 割り開かれて、シーツの上に押しつけられた膝が、グレートが動くたび揺れた。そのうち、グレートの手がなくても膝の位置は変わらなくなり、ただグレートがそうして動きやすいようにと、アルベルトの躯は、平たくシーツの上に整えられたままになった。
 息を吐くたび、腹筋が上下する。肋骨の形があらわになり、息と一緒に動く皮膚の弾力が、ベッドの上に差す光を、何なく集めては弾き返していた。
 グレートは、そのアルベルトの腹に、それから下腹へ自分の掌を滑らせ、肉の薄い自分の手の腹に、はっきりとアルベルトの内臓の動きを感じ取り、そして、そこへ押し入る自分のそれの存在も、かすかに感じたような気がした。
 躯が繋がっていると、粘膜と小さな筋肉の引き吊れを眼下に眺めて、一緒に、手の腹の皮膚には、アルベルトの皮膚と筋肉と内臓の壁越しに、その繋がりを確かめて、動く自分の躯がそこに確かに在るのだと言う思いに、目の前が真っ赤になるほど、全身の血がどこか一点に向かって逆流するのを感じた。
 もっともっと欲しくなる。躯を繋げるたび、懐かしいぬくもりと感触だと思うくせに、いつだって何か、別のものはそこへ湧いて出る。
 いつの間にか、酔うほど酒を飲まなくなっていた。人を撃つあの焦げ臭さと、どろりと後から空気に重々しく混じって来る赤い鉄の匂いを、恋しいとは思わなくなっている。
 最初から、人殺しが趣味なわけではない。あれは、ただの生きる手段だった。
 それでも、どこかでそれに酔わなければ、生き延びることを言い訳にしながら、殺し続けることはできなかった。
 アルベルトを抱いて、グレートはそれを今はっきりと思い知っている。
 人は、何かに酔わなければ生きては行けないのだ。たとえ人でなしの殺し屋崩れだろうと、人として以外に、生きる術はこの世には早々転がってはいないのだ。
 人でなしだからこそ、よりいっそう人に遠いからこそ、もっと深い酔いが必要だった。
 愛してるよ、アルベルト。
 唇だけを動かした。それを見て、ふと正気に返ったように、アルベルトが微笑んだ。赤い頬が、まるで少年のように見えた。
 鉛色の右手が、また首に絡んで来る。ひんやりとしたそれに、汗が引いたのは触れた部分だけだった。
 躯の熱は上がる一方だ。脳のどこかが煮えたように、また開いたアルベルトの唇に、自分のそれを、舌を差し出しながら重ねて行って、噛まれた舌先の痛みを予想して想像しながら、そうしてまた、グレートの躯は深く深く疼いてゆく。
 生産的なことは一切禁止の安息日に、なんと相応しいことだろうかと、アルベルトの銀色の髪を撫でて思う。何も生み出さないはずのふたりのこんな関係だからこそ、静かな日曜日がとてもふさわしい。
 夕食の心配を始める時間には、まだ少し遠いはずだから、月曜のことを心から閉め出して、グレートはまたアルベルトの上で、いっそう深く揺れ始めた。

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