Killing Softly - 「あらし」番外編

 グレートとジェットが一緒に死んだ──正確には、ジェットがグレートを撃ち、アルベルトがジェットを撃った──時、周囲でぶ厚い空気の層が、ガラガラと崩れ落ちた音を聞いた気がした。
 それから、骨も筋肉も一緒にごっそりと引きちぎられたような、心臓辺りの痛みを持て余して、まるでグレートとジェットが、自分を置いて心中してしまったと、そんな無茶なことを思いつくこともあった。
 まるで、ふたりの間をふらふらするだけのアルベルトを懲らしめるために、ふたりがこっそりと仕組んだ悪戯のような、あまりに突然の、思いも掛けない出来事だった。
 どちらかひとりを失う──逝ってしまうという意味ではなく──ことは何度も想像したけれど、ふたりが同時に自分の前から消えてしまうとは、夢にすら思ったことはなかった。
 どちらかひとりを選べなかったから、ふたりとも自分から取り上げられたのだと、胸の痛みの上にさらに自分を苦しめるためにアルベルトは考える。
 ジェットがグレートを撃ち、そのジェットをアルベルトが撃った。ジェットの額に銃口を向けた時に頭の中をめぐっていたのは、グレートを殺された恨みを晴らしたい気持ちと、このまま生きていればグレートの部下たちになぶり殺しにされる──すでに死んだ方がましな目に遭わされていた──から、それならこの場で自分の手であっさり引導を渡すのが一番だと、一瞬のうちに様々な思いに襲われたことを、今も鮮やかに憶えている。
 復讐にしか見えないだろうその殺人は、深く考えれば、アルベルトなりの、ジェットに対する愛情の現れだったけれど、アルベルトに殺されたジェットが、撃たれると悟った瞬間何を考えていたのかは、永遠にわからない。
 グレートを殺して、アルベルトを完全に手に入れるつもりだったのか。あるいは、もうアルベルトにまともには触れられない駆にされた恨みを、ああやって晴らしたつもりだったのか。それとも、グレートを殺すことで、間接的に、すべての原因のアルベルトに思い知らせてやりたい気持ちもあったのか。
 自分のためにと、するりと自惚れる気持ちにはなれず、あのままジェットを生かしたとして、自分は一緒に逃げたろうかと、アルベルトは自分の中を覗き込む。
 いいや、と薄く笑って首を振る。かばって匿うくらいのことはしたかもしれない。けれど、ジェットと一緒に逃げる自分を、アルベルトは想像できなかった。
 ジェットと逃げる自分を想像できるのは、帰る場所がある時だけだ。アルベルトの帰る場所を、ジェットはあの日あそこで奪い、ジェット自身もこの世から消された。アルベルトが消した。アルベルトは帰る場所を失い、逃げる先も失った。
 思わず、首をめぐらす。自分のいる部屋、けれどここは、アルベルトの家ではない。ただここに住んでいるというだけの場所だ。
 グレートのいるところが、アルベルトの家だった。雨を避ける屋根があり、あたたかなベッドがあり、ふたりで取る食事と、心地良い会話があった。
 グレートはアルベルトに言葉を教え、靴紐とネクタイの結び方を教えてくれた。絶対に温度の変わらないシャワーの中にいるような、今日の次には同じ明日が続く、そんなグレートとの時間だった。
 ジェットは、赤い竜巻のようにアルベルトの足元をすくい、上も下もわからない宙に放り投げた。突然間近に迫った空の青さは、強烈にアルベルトの色の薄い目を突き刺し、ジェット自身が、その青空そのものになった。
 どちらも選べなかったアルベルトのエゴが、ふたりを殺した。ふたりはアルベルトのせいで死に、アルベルトは今、ふたりに会いたくてたまらない。もう、どこにもいないふたりに、アルベルトは話し掛けずにはいられない。振り返り、人の気配を探し、あるいは、人でなくても構わないから、あの馴染んだ空気の揺れや匂いがどこかに見つからないかと、壁に向かって視線をさまよわせずにはいられない。
 人が死ぬとはこういうことだ。もう思い出しか残っていない。彼らは歳を取らないし、アルベルトと一緒に、どこかへ向かうこともない。記憶の中に縫いつけられて、アルベルトだけがそこから先へ進んでゆく。彼らから、どんどん遠ざかってゆく。1日ごとに、彼らが遠くなる。そうしてアルベルトは、彼らが迎えた同じ死に、少しずつ近づいている。彼らのそれを止める術がなかったように、アルベルトの死を止める術もまたない。誰もがいつか死ぬ。いつ、どんな風に、それは誰にもわからない。生まれる時も死ぬ時も、滅多と選択は与えられない。
 いつかはグレートの歳を追い越し──それまで生き延びれば──て、ジェットの父親とすら名乗れないような年齢になって、そうしていつか、アルベルトはすべてを知ることができるのだろうか。すべてを悟り、穏やかに諦め、時間を数えて死ぬ時を、まるで食事の時間を待つように待てる、そんな心境になれるのだろうか。
 今ではもう、殺したのはふたりだけではなく、なぶり殺しにするようなことはしない代わりに、殺すと決めたら相手はすでに床に転がっている。慣れではない、ただ、何も感じないだけだ。命を奪ったという感覚もない。殺した相手に家族や愛する誰かがいて、その人たちが嘆き悲しむだろうと、想像することもない。
 足元に転がった死体が、あの日のグレートやジェットと結びつくことはなく、そこへたたずむ自分と、死体の身内が重なることもない。アルベルトにとって、グレートとジェット以外の存在は、もう歩き回る平たい影でしかない。影にはぬくもりはなく、腕の回る厚みもない。影たちが動いても、空気は揺れない。アルベルトの世界は凍りついたように、あれ以来ほとんど動きがない。
 動きもなく表情もない世界の中で、時間だけが無情に動いてゆく。アルベルトを、グレートやジェットからますます遠ざけ、ひとりきり老いさせる。死ねる時をいつとも教えてくれず、アルベルトはその時を心待ちにしながら、足元に死体を増やしてゆく。
 自分が殺した連中が、自分を地獄に引きずり込んでくれないかと、彼らの恨みと執念に期待しながら、生者たちはアルベルトを殺したいほどには憎まないか、触れるなど考えもつかないほど恐れているか、そのどちらかだ。
 あるいは、あっさりと死なせてなどやるものかと、どこかで意志が働いているのかもしれない。生きて苦しめと、誰かが言っているのかもしれない。
 あるいは。あるいは。
 おまえさんが来るにはちっと早過ぎる、のんびりして来るこった。
 つるりと頭を撫でて、とぼけたように微笑むグレートが、脳裏に浮かんだ。
 なぜかその隣りには、少しすねたように軽く唇を突き出し掛けているジェットがいて、そういうことらしいぜとでも言いたげに、あの形の良い肩をすくめている。
 ふたりの姿に向かって、自分の前に手を差し出した。どちらにと、考えていたわけでもなく、ただちょうどふたりの肩が重なった辺りに手を伸ばして、どちらの名前を先に呼ぼうかと迷った一瞬、アルベルトの手に、浅黒い、大きな手が触れた。
 「・・・飲み過ぎ。」
 アルベルトのその手にはグラスがあり、グラスには、底に数ミリほど、ウイスキーが残っていた。座っているソファの傍らの小さなテーブルには、飲みかけで半分になっている、同じ色のウイスキーのボトル。
 ジェロニモは黙ってグラスを取り上げ、もう一方の手でボトルも取り上げた。
 酔っている感覚はなかったけれど、恐らくジェロニモの言う通り、飲み過ぎなのだろう。 
 気が滅入るから飲みたくなるのか、悪い酔い方をするから気が滅入るのか、どちらか相変わらずわからないまま、アルベルトは素直に手を空にして、ひとり掛けのソファの中で体を丸めた。
 ジェロニモは、少し離れた壁際へ──アルベルトが届かないように──グラスとボトルを置き、ソファの方へ戻って来て、アルベルトに立ち上がるようにと、両手を差し出して来る。
 ベッドへ連れて行くからもう寝ろと、そう言っているのだと、アルベルトはこれも素直に、その腕に自分の腕を絡ませ、ゆらりと立ち上がった。
 長身のアルベルトが、難なく収まる大きな胸にしなだれ掛かって、当然の成り行きのように、首を伸ばして口づけを誘った。アルベルトの、この手の振る舞いには決して逆らわないジェロニモは、静かにあごを引いて、アルベルトの唇に応えてやる。
 ジェロニモの背中に両腕を回したのは、アルベルトの方が先だった。そうして腕の輪を縮め、逃れられないように──そんな必要はない──力を込めて、酒くさい息のまま、深まる接吻を続ける。ジェロニモはアルベルトを抱き返して、求められることに応え続けている。
 空っぽの自分の中に、まるでジェロニモを取り込もうとするように、アルベルトはひたすら口づけに没頭しながら、自分を護るこの男のことを考えている。
 端から見れば情熱的な接吻の合間に、時折薄目を開けて相手を窺いながら、この男が自分の傍にいるのは、自分のためではなくグレートのためなのだと、常に冷静に理解していることを、改めて考える。
 ジェロニモにとっては、これはただの仕事だ。自分の身を盾にしてアルベルトを護ること。アルベルトに逆らわないこと。アルベルトがこっそりと死に急いでいるのを、さり気なく引き止めること。何もかも、グレートのためだ。
 この男は、他の連中のようにただの影というわけではなく、きちんとぬくもりと奥行きを持ってアルベルトに接しているのに、その存在自体はまさしく影だ。
 この世で今抱きしめて、確かにあたたかいのも自分を抱き返してくれるのも、ジェロニモだけだった。
 自分と死者たち──グレートとジェット、そしてその他の有象無象──の間に、静かに佇むジェロニモは、確かに影そのものだと思いながら、アルベルトは背伸びをしてその肩にあごを乗せる。
 酒が駄目なら、他で酔うしかない。
 ジェロニモの首筋に両手を当て、指先をワイシャツの襟の中に滑り込ませた。
 おまえは、俺より先に死ぬな。何度も、戯れ言のようにつぶやいたことがある。今は胸の中でだけささやいて、ジェロニモの腕に抱かれて死ぬ、血まみれの自分の姿を、アルベルトは思い浮かべてから不可解な笑みを浮かべた。
 訝しがるジェロニモには答えをやらずに、唇を外して、アルベルトは、
 「来い、上で待ってる。」
 そう言い残してジェロニモの腕をすり抜ける。
 生き延びてしまったことに意味があるなら、それはただ、苦痛を指し示すだけだ。苦痛から逃れるために、酒に酔って、それが醒める前に、ひとの躯に酔う。アルベルトの酔いを監視するのも、またジェロニモの役目だった。
 グレートに繋がり、グレートを通して自分に繋がり、自分を通してジェットに繋がるジェロニモだけが、この世でただひとつきり実体を持つ影であり、アルベルトを慰められる唯一だった。
 明かりをつけないまま、手探りで階段を上がり、街灯がふりまく明かりが窓から差し込んでいるのが、踊り場の窓に見える。ガラスが濡れているのを見て、雨が降っているのだと気づいた。
 階下で、ジェロニモがアルベルトの酒を片付けている音を聞きながら、沈んだ闇の中に、死者の気配を探る。いるはずもないグレートとジェットの、呼吸の音を探していた。
 それをかき消すように、雨が窓を叩く。死者と影の気配が、雨音に紛れて、ジェロニモがやって来るまで、アルベルトはそこに立ち尽くしたままだった。

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