交 歓



 指が、唇を割り開いた。
 唇の合わせ目に沿って、指先が滑り、癇性に切り込んだ丸い爪が、するりとその合わせ目を割って、歯列に届く。
 指先に押され、素直に口を開くと、あごを持ち上げられ、そこだけつややかに白っぽい唇が、にいっと微笑む。
 促され、あごを突き出して首を伸ばすと、乾いた唇の皮膚を、それがこすった。
 思わず薄目になりながら、おずおずと口を開ける。あごをつかんだ手は容赦なく、逃げることも許されないまま、開いた唇の中で、追い詰められる。
 舌に乗る、まだ、どうしても馴染みきれない感触に、うっすらと吐き気がこみ上げるけれど、それにさえ、慣れしまったような気もする。
 不快ではないことに、何より驚いている。
 愛しければ、愛しさは、深まって、拡大してゆくものなのだと、初めて知った。
 だから、こんなことさえ、求められ、促されれば、いやとは言えない。
 比較すれば、自分よりははるかに小さな体を、押し潰してしまわないように---もちろん、そんな気遣いは不要なのだけれど---、気をつけて、腿に、無骨な手を乗せ、体つきには似合わない繊細さで、舌を動かす。
 気に入ってくれればいいがと、いつも不安がつきまといながら、彼のために、跪き、服従を誓う姿勢で、求められるままに、けれどためらいは消せずに、唇と、舌を使う。
 うまくなったねと、時折、からかうように、彼が言った。
 黒い膚と同じほど、色の深い瞳は、見上げれば、吸い込まれそうなほどつやつやと輝いていて、その中に映る小さな自分が、本当の自分なのだと、錯覚しそうになる。
 大きな体。戦車を、素手で引き倒す怪力。けれど、彼の黒い瞳の中では、まるで、彼の、桃色の掌の上に乗ってしまいそうなほど、小さくなった自分がいる。
 小さな自分は、抱き寄せられ、彼の好きな形に折り曲げられ、彼の好きなやり方で、入り込まれ、けれどそれは、愛しさの表現なのだとこちらに伝えることを、彼は決して億劫がらない。
 世の中に在ることは、在ることとしてそのまま受け入れるのが常だとは言え、彼のやり方は、少しばかり予想を越えていた。
 長い手足、細くて薄く見えるくせに、触れれば、驚くほどの厚みを伝えてくる、けれどとことんまでしなやかな体。
 引き倒されて、ささやく唇に、神経は溶けてゆく。真空になった内側に、彼の声が響く。
 ほら。
 子どもが、いたずらをそそのかすように。
 開いた唇に、するりと入り込む。違うやり方で知っている形が、目の前で、もっとあからさまな姿で、熱を伝えてくる。
 自分のせいで、彼がそんなことになると思うのは、羞恥を誘うけれど、同時に、愛しさへも加速してゆく。
 愛し合おうよと、ひどく陳腐で退屈極まりない言い方をしながら、指先も唇も、まったく尋常ではない。大地を流れる水のように、彼の思うままにたわめられ、飲み干され、あふれさせられて、この世界の、他の誰も知らない自分が、そこに在る。
 唇の端を、彼の指が、ゆっくりと撫でた。
 舌を動かすと、目の前で、黒いみぞおちが揺れる。自分の躯も、同じように揺れているのだと思いながら、相手の満足のために、必死で、濡らした唇を使う。
 頬の刺青をなぞり、剃り上げてしまっている頭部を、愛しげに、その掌が撫でる。
 掌に促されるままに、首を振り、顔を動かして、彼のためだけに、今もまだ、正しいやり方かどうかわからないまま、差し出した舌の上で、彼の熱を育てる。
 爪を、きれいに丸く切った指先が、肩に乗って、まるで人工皮膚を引き裂くように、強く食い込んだ。
 人に魅かれるということは、分け合いたいと思うことだ。その人とだけ、他の誰も知らない自分を、分け合うことだ。自分自身さえ知らない奥深くの、湿った熱い粘膜を、裏返して縫い合わせるように、重ねてこすりつけながら、獣すら目をそらす姿で、手足を絡め合って、濃密な空気の中で、一緒に、溺れてゆく。
 桃色の爪が、背中の上で震えていた。
 こちらの不器用とは裏腹に、彼は、何もかもを器用にこなして、その爪のなめらかさが現すように、こんなことには慣れっこなのだ。
 柔らかな皮膚を、決して傷つけないその爪の、彼の身についた気遣いが、時折、胸を刺す。
 嫉妬だと気づいて、首を振って、求められることを、何一つ満足にこなせない自分には、責める権利などありはしないのだと、自分に言い聞かせる。
 彼の指先が、濡れた唇を撫でる。
 やはりうまく行かないのか、あごをつかんでいた手を外して、動きを止めさせると、頭上で、彼がかすれた声で言った。
 「ボクが、動いてあげようか。」
 喉を突かれる苦しさを思い出して、思わず目元が硬張ったのか、彼がくすりと唇の端を上げる。
 「ウソだよ。」
 彼の言葉に、一喜一憂する、自分とは思えない自分がいる。
 こんなことは、他の誰ともしたことはなかった。こんなことができる自分だとも、思ったことすらなかった。
 彼の手に導かれて、開かされ、教えられながら、明け渡す。
 自我を溶け合わせて、自分を失いながら、終われば、新しい自分が生まれる。どこかに、彼の気配を残した、新しい自分の形が、冷えて、立ち現れる。
 それを、いやだとは決して思わない。
 肩を突き飛ばされ、開いた両脚を絡めて、ぬるりと、繋がり合う。
 さっきまで、唇で形を計っていた熱が、背骨の奥で、ふくれ上がる。
 自分の上で、肩を揺らす彼は、水の中を泳ぐ彼と、よく似ている。
 彼を包み込み、まるで、そんな自分を海のようだと感じながら、ふたりでたどり着ける深海の底へ、闇の中へ、溶け込んでゆく。
 白っぽい唇が、うっすらと開き、歯列の奥で、桃色の舌がうごめいていた。
 その舌が、かすれた音で、ひどく愛しげに、名前を呼んだ。
 ジェロニモ。
 愛しさを、それ以上は隠せずに、思わず腕を伸ばして、自分の上に引き寄せて、いっそう深く躯を絡め合わせながら、唇を重ねた。
 汗に濡れた黒い膚と、震える赤銅色の皮膚を、こすり合わせて、ふたりは、雄弁な沈黙を交わして、互いの内へ、果てもなく溺れてゆく。
 濡れた唇の間からもれるのは、海の中の酸素の泡のような、丸くて透明な、音のないささやきだけだった。


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