うわさになりたい - 番外編
「溶ける」
珍しく、冷蔵庫が空だとごちたジェロニモに、ハインリヒは一緒に買い物に行こうと上着を手に取る。
ジェロニモがちょっと意外そうな顔をして、けれど微笑を浮かべて、車の鍵を取り上げた。
いちばん近いスーパーマーケットまでは、車で5分もかからない。夕食時のせいか週末のせいか、駐車場も店の中も人でいっぱいで、大きなカートを引っ張って来ようとしたハインリヒを制して、小さなかごを取り上げたジェロニモが、人込みの中から軽く腕を振る。
人込みをすり抜けて、やっと肩を並べて、野菜や果物の棚を、右と左に視線を移しながらゆっくりと歩いた。
オレンジをいくつか、緑の濃い野菜を手に取って、けれどレッドペッパーにハインリヒが首を振ったので、ジェロニモはおとなしくそれを元に戻した。代わりに大き目の人参を何本か。
ふたりは滅多と口を開かず、うなずいたり首を振ったりだけで、必要なものをかごの中に放り込んでゆく。
ジェロニモが素通りした乳製品の棚から、ハインリヒがクリームチーズを一箱取る。そっと、音もさせずにそれをかごの中に滑り込ませたハインリヒを、ジェロニモがちょっとだけ上目遣いに見やると、
「・・・あんたのチーズケーキ、最近ご無沙汰だからな。」
肩をすくめ、ちょっと唇をとがらせる。
「だったらレモンがいる。」
意地悪のつもりはなかったけれど、表情を変えずにそう言った途端に、ハインリヒがくるりと背を向けて、子どものように、さっきまでいた野菜や果物の辺りへ駆け出してゆく。一瞬視線の先にとらえた横顔が、少し怒っていたように見えて、ジェロニモは声を立てずに、ひとりくつくつ笑った。
またぱたぱたと、ハインリヒが走って戻って来て、ジェロニモが抱えているかごの中に、レモンをふたつ、ころんと放り込んだ。
レモンがだめになってしまう前に、もう1度チーズケーキを焼こうと、少し早い息を整えているハインリヒを見て、ジェロニモは頭の隅にメモをする。
それで、あらかた買い物はすんでしまって、後は冷凍食品の山ほど詰まった冷蔵庫が並んでいるだけだった。ふたりとも、その並びに興味も用もなかったけれど、そこを通り抜けてしまえば、レジへすぐたどり着けるので、一緒に肩を回して、気のせいなのかどうなのか、そこだけ妙に寒い気のする巨大な冷蔵庫の間を、さっさと通り抜け始めた。
あと数歩で、レジへ並べるというところで、ジェロニモが急に声を上げる。
「あ。」
足を止めて、冷蔵庫のガラスのドアへ顔を向けて、それから、通路の端にかごを置くと、冷蔵庫のドアのひとつをゆっくりと開けた。
手前に引くドアの中に顔を差し入れたジェロニモの肩越しに、ハインリヒが、一緒に中を覗こうとする。ジェロニモの巨大な背中と、冷蔵庫の中から漏れる白い冷気に遮られて、そこに何が入っているのかすらよくわからない。
ハインリヒは、足元に置かれたかごを取り上げて、丸まったジェロニモの背に声を掛けた。
「なんだ、一体。」
ようやく丸まっていた背中が伸びて、冷蔵庫から脱出してきたジェロニモの手には、大きなアイスクリームの、丸い箱がひとつ。
「チョコレートと、ミントと、キャラメルと、ストロベリーもある。」
目の前に差し出されていたのは、ごく普通のヴァニラだった。
「あんたが食べるのか?」
「少しは手伝ってくれるだろう。」
「・・・だったらヴァニラだな。」
「同感だ。」
「・・・あんたは、ヴァニラアイスクリームに、チョコレートシロップをかけるタイプか。」
ジェロニモの手からアイスクリームを受け取って、手元のかごの中に入れながら、ハインリヒが訊いた。
冷蔵庫のドアを、静かに丁寧に閉めて---ジェロニモのこういう態度を、ハインリヒはとても好ましく思っている---、ジェロニモは、ドアと向き合ったまま、数秒真剣な表情を浮かべる。
「・・・いや、そのままで食べる。」
「俺もだ。アップルパイに乗せて食べるのも、個人的にどうかと思ってる。」
「うまいアップルパイなら、多分そのままの方がいいだろうな。」
「あんた、アップルパイは焼かないのか?」
「・・・今度、作り方を調べてみる。」
「チョコレートシロップも、ほんものなら悪くない。」
ふたりとも、わずかにすれ違う会話を交わしながら、目の前のレジに並んだ。
こうやって、ごく普通の場所に、ふたりでいることは珍しかったから、レジの列に加わって自分たちの番を待ちながら、ハインリヒは何となく落ち着かずに辺りを見回し、それからついそうなってしまったというふりで、そばに立つジェロニモの手に触れた。
どうしたと、こちらを見下ろすジェロニモと、見咎められるかもしれないほど長々と見つめ合って、そうしてくれたらいいと思っていた通りに、ジェロニモの手が、さり気なくハインリヒの肩の辺りをつつく。まるで、そこにあった小さなゴミを払っただけだと言いたげなその仕草に、ハインリヒは軽く肩をすくめ、それ以上は何もしないように、両手を上着のポケットに差し入れて、足元に目線を落とした。
店を出て、車に戻ると、もう遠慮もなくジェロニモの膝に手を置いて、肩に頭を寄せる。
もう、外は暗くなり始めていて、アパートメントの駐車場で車を降りても、ふたりは何となく指先を触れ合わせたまま、部屋に近づくにつれ、少しずつその指がしっかりと絡まり始めていた。
荷物は持っていないハインリヒが、持っている合鍵でドアを開け、中へ入ってドアを閉めてすぐ、その場で、絡まっていた指をほどいた代わりに、ジェロニモに向かって伸び上がる。首に両腕を回して、強引に唇を重ねた。
たしなめる仕草はなく、ジェロニモも、そっと手にしていた買い物の荷物を床に置くと、しっかりとハインリヒの腰を抱き寄せる。
忙しなく舌を動かして来るのを、なだめるよりもむしろ、煽るようにそれに応えながら、どうやら直行するのはキッチンではなさそうだと、ジェロニモはハインリヒを抱き上げるタイミングを計っていた。
唇と腕はほどかないまま、ふたりで不恰好に、片方ずつ腕を伸ばして靴を脱ぐ。今はそこだけ明かりのある玄関に、ばらばらに脱いだ靴を放って、ジェロニモはようやくハインリヒを抱え上げてしまおうと、腰を抱いていた腕をもっと下へずらそうと動く。
「と、溶ける。」
少しだけ外れた唇で、ハインリヒが妙に慌てた声で言った。
「アイスクリームが、溶ける。」
ジェロニモの、肩からずれた上着を握りしめて、ハインリヒの頬が赤い。切羽詰っているようにも、困っているようにも、どちらとも取れる表情が、色の淡い瞳に浮かんでいた。
ふたりで一緒に、床に置かれたままの買い物の荷物を眺めて、どうしようかと思案したのも一緒だった。
今すぐ冷蔵庫へ、あるいは冷凍庫へ直行しなければならないのは、あのヴァニラのアイスクリームだけだ。
絡まった腕を解いて、ほんの1分、買ってきた野菜や果物を冷蔵庫へ収め、アイスクリームの場所を冷凍庫の中につくり、そうしてまた、元に戻ればいい。けれどふたりとも、そうしたいとは思わなかった。
ジェロニモは、またハインリヒを抱き直して、頬を触れ合わせた。
「あんたのアイスクリームが、溶ける。」
まるで、それが精一杯の矜持だとでも言うように、またハインリヒが繰り返す。ジェロニモから、ほんの少しだけ胸を浮かせて、けれど、上着の肩をつかんだ手は離さないまま。
「・・・別に、いい。」
今度は、こちらから唇を合わせながら、そう言い返した。
「溶けたら、困るだろう。」
アイスクリーム、とまたハインリヒが言った。
自分から誘いをかけてしまった照れ隠しだと気づいているから、ジェロニモは、ハインリヒを抱いた腕の力をゆるめないで、先に溶けそうなのはむしろこっちだと、血の色の上がったハインリヒの首に、軽く噛みつく。
「・・・溶けたらミルクシェイクにするからいい。」
言いながら、軽く持ち上げたハインリヒを自分の足の甲に乗せ、ジェロニモは、そのまま部屋の奥へ向かって歩き出す。
ハインリヒの重みと一緒に、爪先を滑らせて、まだ素直に観念できないハインリヒが、少しじたばた暴れるのを、慣れた仕草で両腕に納めて、このまま転ばずにベッドまで行けるだろうかと、胸の内でこっそり賭けをする。
もう少しでドアというところで、ジェロニモにしがみついていたハインリヒが、ひどく湿った息を吐いた。
最初に溶けてしまいそうだったのは、ついさっきまで確実にハインリヒだったけれど、今はもうわからないと思いながら、ジェロニモは、ハインリヒが足を乗せている爪先を、少しだけ急がせる。
ぬるく溶けたアイスクリームが、甘ったるく喉に絡みつくのが、ひどく待ち遠しく思えた。
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