Morning After - 「あらし」番外編

 夜と言うよりは、もう朝に近い時間だった。
 アルベルトを送って来たのがとっくに深夜を過ぎた時間だったから、酒を注げと言われれば酒を注いで、シャワーを浴びろと言われればシャワーを浴びて、その後は真っ暗な部屋の中で抱き合って、相変わらず貪るだけのようなアルベルトのやり方に応えた後で、背骨を抜かれたように、手足を投げ出してベッドに伏せてしまったアルベルトに、枕をあてがい毛布の中にたくし込んだ頃には、もうそんな時間になってしまっていた。
 顔色が悪いのは、闇の中でもわかる。ジェロニモは心配そうに上からアルベルトを覗き込んで、見つめるために目を細める。アルベルトは、ぼんやりと焦点の合わない視線を、それでもジェロニモに当てて、自分がどこにいるかわからない風な、ちょっと途方に暮れたような表情を浮かべた。
 疲れている。店で踊っている女がふたり、薬物所持で警察に引っ張られ、店の中も捜索を受ける羽目になった。幸いに店の中では薬は発見されなかったけれど、アルベルトは張大人を通して弁護士の用意をし、ジェロニモももちろん一緒に立ち合わせて、警察の人間たちが、傍若無人に店の中をあちこち荒らし回るのを、黙って見ていなければならなかった。
 業腹なのは捜索それ自体だけではなく、散々引っ掻き回した挙句に、何も見つけられずに忌々しげに引き上げてゆく彼らが、まるでアルベルトたちが女に薬を与えた張本人だとでも言うように憎悪交じりにねめつけて来ても、ひと言も言い返せないことだ。
 「黙って堂々としてるのが一番だ。やましいことがないなら、黙っているに限る。」
 張大人よりは年下の、アルベルトたちのような人間の世話ばかり見ている弁護士は、銀縁の眼鏡を押し上げながら、女たちが捕まったのが店とは関係のない場所だったのは幸いだったと、アルベルトに耳打ちする。アルベルトは聞こえないように、後ろに立っているジェロニモに振り返って舌打ちする仕草だけ見せて、嵐が通った後のような惨状の店の中を、とにかく客たちの目に触れるところだけは早急に片付けろと、吐き捨てるように言った。
 逮捕された女たちは、保釈金を払ってくれないかと、まずバーテンダーに連絡をして来て、バーテンダーはジェロニモに話を持って行き、女たちのひとりがまだ20歳(はたち)ですでに子どももいるのを知っているジェロニモは、その場で断ることができず、結局無理と承知でアルベルトに話をした。
 これはアルベルトの逆鱗に触れて、怒りの大半は、留置所にいる、この面倒の原因の女たちではなく、目の前のジェロニモに向けられることになった。
 アルベルトの怒りを買うのは慣れている。自分のせいではないことも知っている。ジェロニモは黙ってアルベルトに怒鳴り散らされ、幸いに右手で殴られることはなく、
 「弁護士でもつけてやろうかと張大人が言ってたが、全部放っておいた方が良さそうだな。」
 女たちとは今後一切関係がないと、その場で決まってしまった。
 その間、執拗に電話を入れていた女たちに、ジェロニモが金は出せないしこれ以上電話をして来ても無駄だと言ったけれど、女のひとりは諦めずに泣きながらあれこれ言い募っていた。アルベルトがそう決めたと言った途端、涙はどこへやったのか、ああそう、とひどく冷たい声を出して電話は乱暴に切れた。
 相変わらず、アルベルトの判断──上に立つ人間としての──は正しかったと、声の去った受話器を握ったまま、ジェロニモは小さくため息をつく。だから自分は下っ端のままだし、そしてこのままでいるのが一番だと、また改めて思う。
 自分たちに金を払う男たちがいること、媚びが金になること、それを熟知している女たちであることを、ジェロニモはあまり気にしない。媚びを売られていると気づくことすらないジェロニモに、女たちは仕事のためにそれなりに愛想は良くしても、だからジェロニモから何か引き出そうと言う、無駄な努力は滅多としない。けれど、媚びを受け入れたり弱味につけ込んだりしないジェロニモだからこそ、素の部分を安心して見せられるのか、子どもの写真を見せたがったり、子どもに口答えされたと泣いているところに付き合わされたり、裸で踊る彼女らではなく、普通の名前もある、子どもを連れて買い物に行く、ごく普通の母親である彼女らの貌(かお)も、ジェロニモはしばしば目にしていた。
 だから、こんな風に母親の立場で泣きつかれれば、さっさと無下に扱うこともできない。自分の懐ろから出してもいいと思う気持ちもあったけれど、がちゃんと切られた電話で、そうしない方がいいと改めて悟った。
 他人に利用されるのを不愉快にも思わないけれど、自分の評判を落とすのは、アルベルトの顔に泥を塗ることになる。女や子どもには甘いと、すでに思われていても、これ以上その評判を自分が肯定する必要はない。
 その女たちの面倒の後始末で、アルベルトには余計な雑用が増え、警察はまだしつこく店の周辺を嗅ぎ回っていたから、客たちも女たちもやけにピリピリして、店の売り上げが落ちたなど大した被害ではなく、このことを店の人間すべてに通達して、だから気をつけろといちいち注意しなければならないと言うのが、アルベルトにはいちばん業腹だったらしい。
 女たちが比較的身奇麗──見た目が良い、と言うだけのことではなく──だと言うのが、店のひそかな評判だったから、逮捕された女たちが単なる例外だったと示すために、またしばらく同じ注意と警告を繰り返して、女たちの動向を見張っていなければならない。
 この件で動揺して、店に出なくなった女も当然いたから、逮捕された女たちの分も含めて穴埋めに新しい女を見つけて来なければならず、さてこの女はどの程度身奇麗かと、いちいち調べるのもまたひどく面倒な話だった。
 ジェロニモは、アルベルトの髪を撫でた。ねぎらいのつもりで、じきに終わるから大丈夫だと、そう言うつもりで、ジェロニモは指先でアルベルトの髪を梳き、反応がないのはもう眠ってしまったのだろうかと、軽く覆いかぶさるように、アルベルトの寝息を確かめようとする。
 そうして、横を向いていたアルベルトが、じろりとジェロニモの方へ視線を動かし、うるさそうに肩を揺すった。
 「帰れ。」
 短く、ほとんど吐き捨てるように言う。眠気の交じった声ではなかった。ジェロニモは、数瞬、言葉の鋭さに突き刺されて動けなくなり、アルベルトの髪から浮かせた手の位置をそのままにして、それから、何か言おうとした唇が一度きり動いたけれど、言葉は見つからないまま、ジェロニモは素直に体を回し、アルベルトに背を向けて床に足を落とした。
 よくある気まぐれだ。ひと晩中、ジェロニモを離さなかったり、あるいは今夜のように、さっさと帰れと、ほとんど追い払うようにしてみたり、いちいち本気に取っていては神経が持たない。帰れと言うならそうすればいい。アルベルトがそうしたいと言うなら、ジェロニモには逆らう理由は何もないのだ。
 服を探すために、あちら側の床へ向かい、闇の中、アルベルトのそれと絡まって落ちている自分の服を手探りで見つけて、ひとつびとつ手早く身に着ける。身支度よりも、アルベルトの脱ぎ捨てた──あるいは、ジェロニモが脱がせた──服を拾い上げてしわを伸ばし、クローゼットの扉に丁寧に吊り下げておく方が時間が掛かった。
 おやすみ、と小さく声を掛けて、ジェロニモはそっと部屋を出た。アルベルトがもう眠ってしまっているかどうか、確かめずにドアを閉める。

 
 動く時に、足音を立てない男だ。アルベルトは、ジェロニモが家の中を歩く気配に耳を澄ませて、玄関から出て行く音を聞いてから、飛び出すようにベッドから起き上がった。
 上掛けを体に巻きつけ、足早に部屋を出て、ほとんど滑るように階段を降りて、踊り場の窓へそっと体を寄せる。明かりはつけない。外から見えないようにだ。自分の車に乗り込むジェロニモが見える。大きな体が車のドアの陰に隠れ、そのドアの閉まる音は、アルベルトには聞こえない。エンジンが掛かり、そうして、ジェロニモが動く時と同じくらい静かに、車も動き出す。
 アルベルトは、窓からその一部始終を眺めていた。
 車が、ジェロニモのアパートメントの方へ走り去り、窓からは見えなくなっても、アルベルトはそこでずっと同じ方を見つめ続けていた。
 自分が音を立てなければ、永遠に静かなままの家の中が、今はいっそう静寂の中へ沈み込んで、さっきまでジェロニモとふたりで立てていた音と気配を、まるで懐かしがるように、アルベルトは自分の肩を抱いて、そこへじっと佇んでいる。
 自分のアパートメントに着いてから、またシャワーを浴びるのだろうか。アルベルトの匂いを消してから、ひとりで眠るのだろうか。そうするに決まっていると思いながら、同時に、そうでなければいいとも思う。ジェロニモが、別にアルベルトとの気配を惜しんでそうするわけではないだろうけれど、それでも、自分の匂いをまといつかせたまま、ジェロニモが自分のベッドでひとりで眠るのだと、そう思いたかった。
 下らない執着、自分だけのものと思いたい愚かしい所有欲、ただそれだけのことだ。自分のものだと信じたものは、あっさりと手の中から去ってしまったから、奪われてしまったから、その穴を埋めるように、アルベルトはジェロニモの存在に固執している。何でも良かった。ジェロニモでなくても、何でも、誰でも良かった。ジェロニモはただ、今では唯一のように、グレートへ──そしてジェットへ──繋がる細い線だったから、ジェロニモを引き寄せれば、グレートのことをたやすく思い出せたから、だからだ。ただそれだけだ。
 グレートが空けて行った胸の穴は、グレート自身でなければ埋められず、ジェットのためにぽっかりと空いた穴も、ジェットでなければ埋められない。ジェロニモとこうなってから、アルベルトはそれに気づいた。ジェロニモはまた、ジェロニモ自身の穴を空けて、アルベルトの許から去ってゆくのだ。多分。
 まだ来ないその日を、アルベルトは数えながら待っている。来なければいいとひそかに思うその日が、いつ来るのかと内心恐怖しながら、こんな自分に付き合わされるジェロニモを気の毒だと、本心で思う。その憐れみは、自分を憐れまないためのものだったけれど、そこからはするりと目をそらしている。
 アルベルトは、やっと窓から離れた。
 足を引きずるように階段を上がり、のろのろと部屋に戻った。ベッドへ上がる途中で、こつんと自分の素足の爪先に当たったのは、一体いつ脱いだものか覚えもない、自分の革靴らしかった。クローゼットの扉にきちんとまとめて吊り下げられた自分の服が、黒々と影になって、それを片付けたジェロニモの手つきを想像しながら、アルベルトはベッドの中へ横たわる。
 ジェロニモがいた方へ体を寄せて、もうぬくもりは消えていたけれど、ジェロニモの体の形にしわの寄ったシーツの上に、自分の体を伸ばした。
 店にいない時は、ほとんどの時間をここで過ごしているジェロニモは、今ではアルベルトと同じ石鹸を使って、だから今では匂いが似ているのだと気づいているだろうか。
 馴染み過ぎてしまっている。どれほどちぐはぐに躯を重ねようと、最後にはしっくりと繋がってしまうふたりだった。だからこそ、失う時の、引き裂かれる痛みが恐ろしい。
 あんな思いは、もう二度とごめんだ。もう、誰ともこんな風にはなりたくないと、ジェロニモを引き倒しながらいつも思うのに、それならやめればいいと言う内心の自分の声に従うことはできず、まるですがりつくようにジェロニモを抱きしめて、終わった後で離れてしまった躯がひとつびとつに別々なのに耐えらなければ、今夜のように犬でも追い払うように、用済みだと背中を向ける。その背中が、どれほど孤独で、どれほどぬくもりに飢えているか、思い知るのが心底恐ろしい。
 別の部屋で寝ろと、そう言えばいいだけの話だったのに、帰れと追い払って、素直に立ち去ったジェロニモを引き止めたくて、けれどそれはできずに、明日の朝──もう、たった数時間後だ──、ジェロニモは自分を迎えに現れるだろうかと、約束の時間まで信じ切れずにアルベルトは待ち続けるだろう。
 もう、こんなことは御免だと、うんざりした声音でジェロニモがそう言うのを、アルベルトは自分の予感が当たった清々しさで聞くだろう。
 そしてアルベルトは、完全にひとりだ。もう、失うことを恐れる必要もなくなる。
 その日はいつ来るだろう。ひとりきり、もう失くす何もない空手で、胸に空いた大穴のせいで体の半分以上を失って、立っているのがやっとであれ、少なくとも恐怖はもうない。
 夢に、誰か現れるだろうかと、アルベルトは思った。グレートかジェットか、夢の現でも構わないから、自分を抱きしめてくれないかと、アルベルトは思った。
 体を丸めて、まだ何も持たない胎児のように、失うことの恐怖を知らなかった頃を懐かしみながら、アルベルトは目を閉じた。眠る瞼の裏に、引き寄せる面影が、自然にあふれてくる涙の中に沈んでゆく。自業自得の孤独を噛みしめて、アルベルトは朝を待っていた。ジェロニモが、何事もなかったように現れる、いつもと同じ朝を待っていた。

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