「あらし」 - 番外編
Not Me
「珍しく、うまいケーキを出すんだ。」
昼食を抜かして、グレートに連れて行かれた小さなレストランは、少しばかり薄暗くて、清潔で、押しつけがましいところのない、騒がしいダウンタウンの片隅の、ぽっかりと宙に浮いた、異空間のように思えた。
先に椅子に坐ったアルベルトと、小さなテーブルの角を囲むように坐って、グレートがひどく優しく笑う。
とても機嫌が良いのだと思って、アルベルトも微笑み返した。
テーブルにやって来た、真っ白なシャツがまぶしい若いウェイトレスは、笑顔を絶やさずにふたりの注文を受けて、きびきびとした足取りで、キッチンの方へ去ってゆく。
その背中を見送っていたグレートに、キッチンから顔を出した黒人の大きな男が、破顔して、軽く会釈をする。
グレートも、軽くあごを動かしてそれに応え、アルベルトは、グレートが、もう何度かここへ来ているのだと知った。
昼の混み合う時間を過ぎて、人々が仕事に戻ってしまった後の、肩を落としてしまったような静けさの中にふたりきり、アルベルトとグレートはきれいに整えられたテーブルの上で、一緒にケーキをつつく。
紅茶の香りは申し分なく、使われている食器も、掌にも目にも優しく、どちらかと言えば小振りのケーキは、食後のデザートにちょうど良さそうに思えた。
細長い三角に切り取られた、クリーム色のケーキの、細い方の先を、フォークで崩す。口に入れると、やわらかな甘みの中にレモンの酸味が広がって、
「うまいな。」
アルベルトは、思わず言った。
だろう、とグレートが、自分のチーズケーキをつつきながら言う。
「さっきの黒人の大男が、ランチのシェフだ。」
口の中に、フォークを入れたままで、アルベルトはキッチンの方へ視線を移した。
「夜の方のシェフは---オーナーでもあるんだが---女性だがね。ケーキを焼いてるのは、あの男の方だそうだ。」
黒人の大男が、うつむいて、真剣な眼差しで、細々とケーキに細工をしているところを想像して、アルベルトは薄く笑った。
「珍しいな、こんなレストランで、シェフが黒人ってのも。」
「フランスで修行して来たそうだ。なかなか、できることじゃない。」
滅多と人をけなすような言動もない代わりに、社交辞令でさえ、人を褒めちぎることもしないグレートが、低く小声で言う。
ケーキを、時間をかけて味わいながら、あの男も、グレートが好きな種類の、常に物事に対して、真摯な人間なのだと、アルベルトは思った。
グレートは、他人に対して、過度に優しくもなければ、冷たくもしない人間だった。誰に対しても同じ態度を見せて、けれど、自分と同じ側の人間だと思った相手には、さり気ない思いやりを注ぐ。
移民であるとか、膚の色が白ではないとか、五体満足でないとか、何か、少し外れたことを、真剣に成し遂げようとしているとか。
おそらくこの国で生まれ育った、黒人のフランス料理のシェフというのが、どんなふうにグレート自身と重なるのか、それはアルベルトにはよくわからない。けれど、グレートに救われた自分のことを思って、グレートが、あのシェフに対して向ける視線の優しさが、自分に注がれるそれと同じ類いのものだと、素直に理解する。
アルベルトは、何も言わずに、いきなりグレートのチーズケーキをつついた。
少なくとも、アルベルトにとっては初めての場所で、そんなふうに、グレートに対して馴れ馴れしい振る舞いをすることは、絶対に避けなければならないことだったけれど、グレートの驚いた顔を無視して、アルベルトは、切り取ったチーズケーキを自分の口に運んだ。
大きく目を見開いたグレートを真っ直ぐに見て、ゆっくりと口を動かす。
「俺のもうまい。」
自分の皿を、フォークの先で示して、アルベルトは、わざわざグレートに、崩し取ったケーキのかけらを、その口元に向かって差し出した。
呆気に取られ、目の前のケーキと、アルベルトを何度か見比べて、アルベルトの振る舞いの意味に、ようやく思い当たったグレートが、顔の下半分だけで苦笑すると、
「どれ。」
と、大きく口を開けた。
それから、ちらちらとこちらを見るウェイトレスのことなど、すっかり視界の外に置いて、ふたりは、互いのケーキを互いに食べさせ合って、あるいは、互いのケーキをつつき合った。
アルベルトは、まだ少し残っているケーキの傍にフォークを置くと、テーブルの下で、右手の革手袋をそっと外した。フォークを左手に持ち替えてから、そろそろとその右手を、グレートの膝に伸ばす。
機嫌の良いグレートに、甘えてみたかった。
自分の知らないところで、こんな場所を見つけて、ひとりきりで楽しんでいたグレートに対する、ほんの少しの腹立ちと、あの、黒人のシェフに向ける、グレートの賞賛に対する嫉妬と、知らずに、アルベルトは、わずかだけ、機嫌を損ねていた。
グレートが気に入っているらしいこのレストランと、このケーキの味とを、好きになり始めている自分自身にも、忌々しい気分を味わって、グレートは、もっと俺を甘やかすべきだと、自分勝手な結論にたどり着く。
膝の上で、くすぐるように指を動かすと、その手を押さえるように、グレートの手がテーブルの下へ潜る。
その手を、すかさず握って、また驚くグレートに、アルベルトは平然と笑いかけた。
あんたは、俺のだ。
絡める指先に言わせて、その硬い、にせものの指こそ、そのあかしだと、横目に流した視線に言わせて、グレートの皿を空にしたのは、アルベルトだった。
ナプキンで拭う代わりに口づけられないのを、残念に思いながら、グレートの、やや笑みにゆるんだ唇を凝視する。
テーブルの下で絡まった指をほどかないまま、グレートが、思い切り優しくアルベルトに笑いかけた。
「・・・チップを、多めに置いて行った方が良さそうだな。」
「それとも、もう一切れ、注文するか。」
アルベルトの提案に、目を細めて、グレートが首を振った。
「いや、ケーキよりも・・・」
グレートが言わない先は、ふたりだけにわかることだった。
My
Dearと、グレートが唇だけでつぶやいて、見つめ合って、もう一度、握った手に、アルベルトが力を込めた時、キッチンから、あの黒人のシェフが、また顔を出した。
今は、自分だけを見つめているグレートから、ほんのわずかに視線を動かして、アルベルトは、彼に向かってにっこりと微笑んで見せた。
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