「あらし」-番外編
On Edge
本棚の間を歩き回って、アルベルトは、並んでいる本の確認をしていた。
在庫管理の作業のひとつで、本の並びを変えるか、それとも新しいタイトルを入れるか、決めるために、本の題名をチェックしながら、メモを取ってゆく。
30分ほど前に、店にやって来たジェットは、持ち込んだコーヒーを片手に、店の中に、うろうろと視線をさまよわせている。
「紅茶、冷めちまうぜ。」
もう、何度目か、同じことを言う。
アルベルトのために持ってきた、大きな紙コップの紅茶は、手さえつけられずに、カウンター上に置きっ放しになっていた。
アルベルトは、もう、ジェットの声に振り返りもせず、ああ、と生返事を返した。
次の棚に移ると、足音が追い駆けてきて、ぴったりと、背中に張りつくように、細身の長身が、後ろに立った。
ジェットが、肩越しに、アルベルトの手元をのぞき込みに来た。
アルベルトは、少しうるさそうに、ゆるく肩を揺すり、かまってほしそうなジェットには、それでも振り向かない。
「アンタ、それ、いつ終わるんだ?」
唇を突き出しているのが、見なくてもわかるような声音で、ジェットが訊く。
アルベルトは、にこりともせずに、並んだ本の背表紙から、目を離さない。
腕を伸ばし、視線の動きを、背表紙を撫でる指先が追った。
「なあ?」
焦れたように、ジェットが肩を、背中に軽くぶつけてきた。
「本棚を全部回るまで、終わらない。」
素っ気もなく、返してやる。
「今日中に、終わらせなきゃ、ならないのか?」
ジェットが、子どもっぽい口調で、食い下がってきた。
ああ、とまた、口元で返事をする。
あごを上げ、伸ばした腕の先にある本の方へ、爪先立ちするように、視線を送ると、伸びた腕に並んで、ジェットの腕も伸びてくる。
本に触れた手に、ジェットの手が、重なった。
耳元に寄せた唇から、息がかかった。
「・・・ほっとけよ。明日やりゃいいだろ。」
横顔だけで、少し、ジェットに振り向いた。
「店、閉めちまえよ。」
斜めに、目元だけで見上げると、潤んだジェットの、淡い緑の瞳が見えた。
ジェットの欲しいものはわかっているけれど、今だけは、うかうか誘いに乗るわけにはいかない。
仕事を先にすませないとと、アルベルトは、相手にせずに、また視線を目の前に戻した。
重なったジェットの手を、外すために、小さな仕草で肩を振る。ジェットは、気づかないように、そこから手を動かさない。
「仕事だ。」
静かに、低く言った。
低く、かすかに、ジェットがささやいた。ささやきながら、つかんだ手を、下に引いた。
「・・・アンタのこと、ここで押し倒しちまっても、いいんだぜ。」
手が、ジェットの下腹に、導かれた。触れたそこに、熱があった。
こすり上げる仕草をさせて、それから、ジェットの唇が、耳朶を噛む。
「とっととすませて、それから仕事すりゃ、いいだろ?」
まるで、発情期の雄猫か、マスターベーションを覚えたばかりのティーンエイジャーのようだと、アルベルトは、心の中で舌打ちする。
つきまとわれて、仕事にならないと、自分に言い訳することにした。
今度こそ、うるさそうに手を払って、ジェットの方を見ずに、手にしていた小さなノートとペンを、目の前の棚に置く。
「なら、先に、とっととすませよう。」
ジェットの口調を真似て、少し皮肉に、アルベルトは言った。
事務所のドアをきっちりと閉めて、手早くすませるなら、こちらは服を脱ぐ必要もないなと、ジェットの腰を抱き寄せようとすると、ジェットが、アルベルトのネクタイの結び目に、指先をかけた。
「外せよ。」
右肩の、義手と生身の境目に、手を触れるのが好きなジェットが、またそれを見たいのかと思って、アルベルトは言われた通り、素直にネクタイを外した。
かすかに青の入った、ほとんど黒の、その手触りのよいネクタイを、ジェットがアルベルトから取り上げて、それから、数瞬、手の上で凝視した後、すくうように、アルベルトを見た。
緑の瞳に、光が走ったと思った瞬間、肩をつかんで引き寄せられ、背中で、両手をまとめて、ジェットがつかんだ。
手首を、ネクタイで束ねて縛り、ジェットは、部屋のすみにある、革張りのソファに、アルベルトを突き飛ばした。
体を起こして、背中をねじってジェットを見上げると、唇の、片方の端だけを上げて、ジェットが笑う。舌なめずりをするような、その笑みに、アルベルトは、ほんの少しだけ、膚を粟立てる。
「バカにしやがって。」
ソファに坐る形で、背に押しつけられ、髪を、強く後ろに引かれた。反った喉に、ジェットが歯を立てる。痛みに、思わず声がもれた。
喉の線をなぞった舌が、あごを上がり、頬を舐めて、まぶたの、薄い震える皮膚をなぶった。
丸い眼球の線を、湿った舌先でなぞられて、それだけで、背骨がかたかたと音を立てる。
アルベルトは、唇を噛んだ。
鼻先を、一緒にこすり合わせて、それから、唇が重なる。濡れた音を立てて舌を絡めて、今はもう、求めるように、ジェットに舌先を差し出していた。
誘ったのはジェットだったし、欲しがったのもジェットだったけれど、服越しに胸をすり合わせて、今はアルベルトの方が、煽られている。
背後で縛られた腕が、もし自由なら、抱きしめて、抱き寄せて、もっと強く、体を重ねられるのにと、思う。
ここが、店の事務所であることにもかまわず、服の下に手を滑り込ませて、膚を重ねられるのにと、思う。
もどかしく、唇の間で、吐息と唾液を交わす。
開いた脚の間に入り込んで、ジェットが、アルベルトの膝を持ち上げた。
逆らいもせずに、まるで腕の代わりのように、ジェットの腰に、両脚を絡めた。
ずるりと、ソファの背から滑り落ちる背中を、ジェットが、抱きしめて、支えた。
唇は、離れてはまた触れ、離れるたびに、前よりもいっそう深く長く、重なる。ぴちゃりと、音が、唇の間からもれる。
我慢できないと思いながら、ジェットはいつ、先へ進むのだろうかと、アルベルトは、思う。
焦れて、自分から腰を揺すって、ジェットに押しつける。
こうなる前に、手に触れた熱は、まだしっかりとそこにある。舌の上に、その熱を飼いたくて、アルベルトは、何度も熱っぽく、ジェットを見つめた。
ジェットが、卑しい笑いを、口元に浮かべた。
頬を染めて、緑の瞳が、こぼれそうに潤んでいる。それでも、力のシーソーゲームは、ジェットの勝ちらしかった。
欲しいと、口に出そうとした時に、ジェットがまた、アルベルトの肩を引いた。
ソファに押し倒され、頭を抱え込まれる。
背の高い男ふたりが、無理に体を重ねたソファは、ぎしぎしと音を立てて、事の次第に不平をこぼしている。
片足を床に落として、アルベルトは、それでもジェットの体の重みを、胸の上に愛しいと思った。
また、唇が重なる。
唾液が音を立て、時折、歯がぶつかる。性急な、不様なキスだった。ほんとに、無知なティーンエイジャーのようだと、心のすみで思う。
執拗に、唇をなぶり、服を脱がせる気配もなく、ジェットはただ、むしゃぶりつくように、キスだけを繰り返す。
アルベルトは、ふたり分の重みに、しびれ始めた腕を、背中とソファの間で、もぞもぞと動かした。
重なった体に、耐え切れない熱がこもっていて、アルベルトは、ねだるように、ジェットに腰を押しつける。
ついには、両足を持ち上げて、ジェットの腰の後ろで、足首を重ねた。
自分のみっともなさは、見えないふりをすることにした。
先を促して、腰を揺する。ジェットだって、どうせ、すぐに耐え切れなくなるに違いないと、そう思う。
舌先を絡め取って、もっと熱くするために、軽く噛んだ。
組み敷かれて、その下で動いたせいで、服が少し乱れていた。散った髪が、額にかかり、うるさく目の辺りに触れる。
その髪をかき上げて、また、ジェットが、まぶたに口づけた。
眉の下の、眼球の丸みに沿ったくぼみに、舌先が這う。薄い皮膚を、引っ張るように、舐め上げる。眼球と眼窩の、わずかな隙間に、濡れた舌を差し込んで、まるで、目をえぐり取ろうとするかのように、執拗に、その部分をなぶる。
それから、左の膝に、ジェットの手がかかった。
腰を合わせて、こすり上げる。
ジーンズの、固い布地と、金具越しに、もどかしく、ジェットの熱が伝わってくる。
柔らかな、硬さが、アルベルトの、滑らかな熱の形を、距離を置いて、こすり上げる。
激しく動きながら、ジェットが、息を吐いていた。
ソファが、悲鳴を上げる。
喉を伸ばし、あごを突き上げて、アルベルトは、声を殺すために、奥歯を噛みしめた。
揺さぶられ、押しつけられ、突き上げられ、こすり合わせる熱が、もどかしさを通り抜けて、布に隔てられながら、重なろうとする。
アルベルトは、重ねた足首で、ジェットの腰を、必死で引き寄せていた。
稚拙に動きながら、たどり着いてしまったのは、アルベルトが先だった。
ソファの端に、押しつけられた頭が、痛んでいた。背中の腕は、もっと痛んでいた。
ジェットが、声を上げて、上で、首を折った。
アルベルトは、思わず顔を背けた。
ジェットが、息をおさめながら、へへへと、笑った。
体を起こしたジェットの腰から、ずるりと、絡んでいた足が落ちる。床に降りた足は、力なく、長々と伸びた。
それをまたいで、ジェットが、ソファから立ち上がった。
乱れた髪をかき上げながら、まだ上気している頬のまま、ジェットは、ソファの上に横たわっているアルベルトを、蔑んだように、見下ろす。
「・・・このまんま、仕事する気か、アンタ。」
まだ、腰の辺りが、だるかった。
アルベルトは、顔を背けたまま、目を閉じて、ゆるく首を振った。
ソファの表面が、汗で湿っているのがわかる。
かすかに自己嫌悪に陥りながら、アルベルトは、ようやく顔を正面に戻し、ジェットを見上げた。
部屋の中にこもった、ふたり分の体温が、空気をぬるく淀ませている。
力の入らない体は、まるで、溶けた氷のようだった。
汚れた服を着替えたかった。
けれど、それよりも何よりも、もどかしく触れ合った後で、今は、皮膚からすべてを剥ぎ取って、ジェットと抱き合いたかった。
ようやく、ゆっくりと体を起こす。ジェットの腕が伸び、背中を支えてくれた。
まだ、満たしきれない欲情が、緑の瞳に揺れているのが見えた。
唇を開いて、首を伸ばす。唇が触れる一瞬前に、息がかかる。
「淫乱。」
誰のせいだと、言ってやるよりも、今は、うごめく舌は、接吻のために使われていた。
背中に回ったジェットの手が、手首を縛ったネクタイを解いた。
自由になった手は、しびれていて、痛みがさらに、欲情を誘った。
ジェットの首に、両腕を回す。
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