On Purpose - 「あらし」番外編

 妙に忙しい週だった。
 どこかの路地で、どこかのチンピラ同士のこぜり合いで全員が逮捕されたとか、女を2、3人抱えたヒモ男が、女のひとりが未成年だったことがばれて逮捕されたとか、薬物中毒の売春婦が、最近ちょっと名の通り始めたストリートギャングのメンバーの兄弟の誰かを刺し、けれど逮捕される前にメンバーからの報復に遭って、病院で意識不明のところに手錠を掛けられたとか、そのひとつびとつに微妙に関わりがあったばかりに、グレートのこの1週間は、誰かの尻拭いや口封じや弁護士の手配でてんてこ舞いだった。
 あくまで自分──も組織も──は完全に無関係だという位置を保ちつつこっそりと手を回すのは、骨が折れる。警察が事情を尋ねに来たところで、いくら探ってもこちらの腹は黒かろうとあくまで空だ。それでも、痛くもない腹の中をいじくられるのはごめんだ。
 ねちねちとしつこい刑事と話をするのも面倒くさくて、グレートは気の弱さが親切に見える、あまり真っ当ではない商売人という表の顔をせいぜい駆使して、まったく若い連中のおふざけには困ったもんだと、疲れた表情だけを外に向ける。
 1週間は、まだ完全に安心できる日数ではないけれど、即座に事件に繋がりがあると見なされる範囲はとっくに警察から声が掛かっているはずだし、今の今まで電話も呼び出しも訪問もないなら、ひとまずほっとするには充分だった。
 下っ端のチンピラが、取引と関係のないところで何かして捕まったところで、上には痛くも痒くもないようにしてあっても、その下っ端がどこで何を言い出すか、きっちりと把握しておく必要はある。逮捕された事件についてべらべら喋るなら勝手にすればいい。けれどこちらに火の粉が降りかかる事態になったら、速やかに動かなければならない。
 余計なことは一言も言わないように、日頃からきちんと躾けておかなければならないけれど、実のところ、下っ端の教育と言うのは、これがいちばん難しい。
 仕事でへまをするのを前提に、仕事のことは何ひとつ、誰相手であっても口外しないように、喋らなければ殺されるなら、その場でそのまま殺されろと言い含めてある。どちらにせよ、何かが漏れたとわかれば、次はこちらが消しに掛かる番だ。漏らした瞬間に、もう人生は終わったも同然だと、常日頃言い聞かせてある。
 少なくとも、商売敵の手に落ちたのでないから、拷問の心配はない。警察の振る舞いは、その点は充分に紳士的だ。法律に守られた人権とやらで、後は弁護士がうまくやってくれる。
 警察沙汰でよかったと、半分は胸を撫で下ろして、けれどこの重なった下らない騒ぎのおかげで、来週行うはずだった大きな取引の予定を変更する羽目になったのが何より忌々しい。
 売春婦を痛めつけたチンピラどもは、取引先と関わりがある方面なので、向こうもさぞ慌てたことだろう。
 冷や汗をかきながら、互いにそっと連絡を取る。この連絡ひとつにも、細心の注意を払わなければならなかった。
 取引が無事にすみ、祝杯を上げるはずの週末は、表の商売でただ忙しく去り、また新たな取引の日と場を決めるのに鬱陶しいやり取りがこそこそと続く。
 グレートが、ため息をついて、つるりと頭を撫でた。
 いつもより顔色が灰色がかって見えて、夕べは帰りの車の中──店が閉まった後で、もう明け方近かった──で、うつらうつらと、らしくもなく居眠りをしていた。服装に乱れはなくても、コートが重そうに見える薄い肩が気の毒で、ジェロニモは、そこを揺すってグレートを起こすのを、たっぷり1分ほど、後部座席に頭だけ突っ込んだままためらっていた。
 自分をじっと見つめるジェロニモの気配に気づいたのか、はっと目を覚ましたグレートは、無防備な寝顔を見られた照れ隠しか、薄い肩をすくめて、威厳のかけらもない仕草で、今したと同じように頭をつるりと撫で、それからジェロニモの大きな体をかき分けるように、車の中から出て行った。
 いくつか明かりがつけっ放しの家の中へ入りながら、こんな時間だと言うのに無遠慮に鳴り出した携帯電話にのろのろと応えるグレートの丸まった背中が、完全にドアの中へ消えてから5分、ジェロニモは、自分の睡眠時間よりも、グレートのそれの方を気にしながら、また車の運転席へ、大きな体を滑り込ませた。
 またグレートが、頭を撫で、額を撫で、首筋に掌を当てたまま、肩の凝りをほぐすように首を左右に振る。手はその位置のまま、首も傾けたまま、
 「・・・紅茶が欲しいな。」
 窓へ向いたまま、そこでぼそりとつぶやいた声が、きちんとジェロニモの耳に届く。
 「上に、あったかな。」
 この忙しさに紛れて、グレートがいつもここで使う紅茶の葉は切らせたままだった。すっかり忘れていたことに内心舌打ちしながら、明日は必ず買いに行くことを、ジェロニモは頭の隅にしっかりとメモした。
 「普通の、ある。」
 上の店にあるのは、酔い覚ましを欲しがる客用の、普通に安いティーバッグだ。グレートの口に合うはずもない──だからここには、グレート用の茶葉が普段はちゃんと置いてある──けれど、この辺りのカフェで茶葉を出すところも思いつけず、ジェロニモは自分で淹れるつもりで、そのまま事務所を出た。
 そろそろ夕方に近い時間だけれど、普通に働いている人間たちも多い時間帯だと言うのに、すでに店の中にはちらほら客の姿が見える。
 客の入りのせいか、あるいはこの時間にわざわざ働きたがる女たちの、どこかやる気なさげな態度のせいなのか、店の中は夜よりもどんよりとして、どこか色褪せて見えた。
 ジェロニモは大きな体を縮めるようにして壁際を歩き、ステージですでに全裸になっている女から視線をそらして、足早にカウンターの中へ入った。
 手持ち無沙汰な風なバーテンダーが、ジェロニモを珍しそうに見て背後の棚に並んだ酒瓶を指差すのに、首を振って見せる。
 カウンターの下へもぐり込むようにして電気ケトルを取り出し、自分でさっさと水を注いだ。
 余計な口を聞かないジェロニモに、もうバーテンダーは声を掛けようとはせず、カウンターの端に寄り掛かって、客席へ降りて来て客の間を歩きながら控え室へ去る女の後ろ姿を、少しばかり口の端を上げて眺めに戻った。
 湯が沸くまでに、カップを出してティーバッグを放り込む。そうしながら店の中へは背中を向けたまま、薄暗くて良くは見えないにせよ、黒っぽいスーツをきっちりと着た自分が、店の中では明らかに異質──ジェロニモの、肌の色や容貌のせいではなく──に見えるのは知っているから、客とは視線すら合わせないように振る舞う癖がついている。
 ステージで裸で踊る女たちには最初から興味はなく、それを眺めに──それだけではないけれど──やって来る客にはさらに興味も湧かず、店の中でここだけはやや明るいカウンターの中で、やがて湯気を立て始めたケトルの注ぎ口を、ジェロニモはじっと見下ろしていた。
 ケトルがうるさく音を立て始める前に電源を切り、沸騰した湯をカップに注ぐ。グレートならここで、優雅な手つきで砂時計を逆さにするのだけれど、そんな洒落たものはここにはなく、ジェロニモは適当な時間を見計らって、ティーバッグをスプーンの先に取り出した。
 バーテンダーに、うなずく挨拶を肩越しにすると、向こうも薄く微笑みを浮かべてふざけた調子で手を振って来る。もう一度それに向かってかすかにうなずいてから、ジェロニモはカウンターを出た。
 来た時同様、壁際を伝うようにして、ステージに当たる照明を避け、事務所へ向かう階段を、手にした紅茶をこぼさないように、慎重な足取りで降りてゆく。
 紅茶に入れるミルクは事務所の、主にはグレート用の小さな冷蔵庫の中にまだあるはずだ。前へ進むたび、顔を打つ湯気は、それなりにいい香りがした。
 店が閉まるまで働く連中が揃ったら、今日はもう帰ったらどうかと、紅茶を渡しながら言ってみようかと考える。余計な口出しだろうけれど、グレートのあの疲れ様は、見ているこっちの方が気が滅入りそうだとジェロニモは思う。
 事務所の扉へ向かって折れた廊下へ、方向を変えたところで、事務所へ入るアルベルトの姿が見えた。
 裏口からこちらへやって来たのか、ひらりと舞った上着の裾で、小走りに駆けて来たとわかる。ドアが乱暴に閉まった。
 ジェロニモは少し足運びをゆるめ、代わりに歩幅を大きくして、ドアへ近づいて行った。
 椅子が動く音、乱れた足音、主にはアルベルトの方があれこれ言う声、気配は消えないまま、音だけが途切れたので、ジェロニモは10数えてからドアを静かに叩いた。
 途端に気配も途切れる。
 「ボス。」
 ドアは開けずに中へ声を掛けると、押さえた声で、アルベルトが、グレートに向かって何か言ったように聞こえた。
 アルベルトのその声にかぶさるように、 
 「ちょっとそこでそのまま待っててくれ。」
 グレートが言う。
 ドアに背を向け、ジェロニモは、ドアの取っ手部分を自分の体で塞ぐ形に、そこに立った。
 すぐにまた、漏れ伝わって来る気配。服の生地が重なって、こすれ合う小さな音、どこへ進む気か迷う足音、机の上のものを動かす音は聞こえなかった。きっとソファの方へ移ったのだと、ジェロニモは小さく息をこぼして思う。
 下世話な想像はそこでやめて、けれどふたりの気配はいっそう濃くなり、ソファがきしむ音も一緒に聞こえて来る。
 どうやら、ちょっとではすみそうにない。グレートのために淹れた紅茶に、ジェロニモは口をつけた。
 普段はコーヒーもあまり飲まない。胃を焼くカフェインは、部屋から聞こえて来る声と気配に、酔ってしまわないためだった。
 息遣い。アルベルトのと、グレートのそれと、両方を聞き分けられるのを不思議に思いながら、けれどふたりが革張りのソファの上で抱き合っている様子を思い浮かべたりしないように、何もかもを右から左へ受け流す。
 車の中で、何度か出会った場面だ。振り向いて見る不作法はもちろんしない。それでも、バックミラーに映るふたりの姿が、目に入らないわけもない。今は少なくとも、ドアと壁に覆われて、それを目にする心配はない。
 慎みがなさ過ぎないかと、感想を抱くのはアルベルトに対してだけだ。ふたりの間のことはふたりにしかわからない。だから、何を感じたところで絶対に口にはしない。自分の思うことが、それほど見当外れでもないだろうと思いながら、おくびにも出さないのは、ただひたすらに、グレートに対する恩義と敬意ゆえだ。
 そのグレートが、この不謹慎な振る舞いを受け入れているのだから、まったく関係のない自分が何を思うこともない。グレートの疲れ具合だけを心配して、ジェロニモはまた、グレートのために淹れた紅茶を飲んだ。
 外よりも大抵温度の低い地下では、紅茶の冷めるのも早い。終わったら、アルベルトにも紅茶を淹れた方がいいだろうかと、今では押さえることも忘れてしまっているらしいアルベルトの声をドア越しに聞いて、ジェロニモは手持ち無沙汰に考える。常にグレートに甘やかされているように見える彼は、それともこんな安物の紅茶など口にはしないだろうか。
 紅茶はもう半分ほど空になりつつあったけれど、腕時計を覗いて、時間を確かめるようなことはしなかった。
 部屋の中で、グレートの携帯が鳴り始めた。確か机の上に置いたままだったから、まさか中断して応えには行かないだろうと耳を澄ませていたら、思った通り鳴り続けるその音に負けずに、ふたりの気配も途切れない。
 しつこく鳴り続けてようやく諦めたと思ったら、今度はジェロニモの携帯が鳴り始めた。グレートが応えないので、こちらへ掛けて来たというわけだ。
 すぐに胸ポケットから取り出し、言葉少なに応える。
 「ボス、今取り込み中。電話、無理。」
 応える声も小さくして、部屋の中のふたりに気を使ったつもりだった。
 電話の相手は、このままジェロニモと話を続けたそうだったけれど、ジェロニモにその気がなく、何か続けようとしたのを聞こえない振りで切り、ついでに、携帯の音も聞こえないように切り替えた。
 さすがに、その電話の声で多少は我に返ったのか、間もなく部屋の中が静かになった。
 今もし誰かがここへ、直接グレートに会いにやって来たらどうしようかと、まだふたりが立ち上がった様子のないドアの向こうへ、それが自分の仕事の一部でもあるから不承不承耳を澄まし、ジェロニモはそこで紅茶をほとんど空にした。
 それから、わざと中へ聞こえるように咳払いをして、まだソファの上か床近くで名残りを惜しんでいたらしいふたりが、ようやくそこにいるジェロニモに促されたように、まずはひとり分──グレートに違いない──の気配が身繕いに取り掛かった気配が伝わって来る。
 最初の誰かよりも素早く、次の気配は大きな音を隠しもせず、どうやら一足先に身支度を整え終わったらしかった。
 ドアに近づいて来る足音は、そしてそこで止まって振り返り、もうひと時、ジェロニモは耳と目を塞ぐ羽目になる。
 「ほんとうに明日、来てくれるんだな。」
 「ああ、ほんとうだ。」
 ささやき交わす声が聞こえる。抱き合う腕は互いの首や腰に絡めたままと、ふたりの身近にいるジェロニモには手に取るようにわかる。
 「じゃあ待ってる。」
 やっと腕がほどけ、ドアのノブへ伸びる。それより一瞬早く、ジェロニモは開いたドアの陰になる位置へ体をずらした。
 乱れた髪を、革手袋の右手で撫でつけながら、アルベルトがドアの向こうへ現れる。ちらりと横目に視線が合った。
 上気した頬、いつもは乾いて無表情な水色の瞳が、はっきりわかるほど潤んで見える。普段なら無愛想に結ばれているだけの唇も、今はかすかに開いて、何か言いたげに数回動く。
 するりと視線を外して、ジェロニモは正面の壁を眺めている振りをした。
 来た時よりも落ち着いた足取りで、アルベルトは無言で立ち去ってゆく。ジェロニモに対する気恥ずかしさだろう何かが、横顔にちらりと見えたけれど、後ろ姿はいつものようにもう冷静だった。
 悪かった、いいやと、言い交わすような間柄でもないふたりだった。
 アルベルトが裏口へ上がる階段へ姿を消してから、ジェロニモはやっとドアをノックした。
 「ああ、いい、入ってくれ。」
 慌てたような声が応える。
 すっかり冷えたカップを片手に、紅茶を淹れ直しに上に行かなければと、思いながら中へ入った。
 グレートはソファの前に立ったまま、顔を赤くしてジェロニモの方を見ない。しきりに頭を撫でながら、何か探す風に、床の上をあちこち見回している。
 「・・・ネクタイが、見つからないんだが・・・。」
 すでにくたびれた風のワイシャツに、今はさらにしわが増えていた。裾がきっちりとベルトで押さえられているのが、そのくたびれ具合ととてもちぐはぐで、忙しない割には情熱的だったらしいふたりのやり取りをまた想像しかけて、ジェロニモは慌ててそれを頭から追い払った。
 「ネクタイ?」
 空のカップを目の前のコーヒーテーブルに置いて、グレートのために一緒に部屋の中を見渡し始める。床の上を探すのは何だか失礼な気がしたけれど、そこを避けるわけには行かなかった。
 床の上には見当たらない。机の椅子の方にもない。ドア付近に落ちているということもなく、ふたりで少しの間部屋の中をうろうろした。
 グレートの目線の動きで、ふたりがどこにいてどこへ動いて、最後にどこへ落ち着いてどうなったか、ジェロニモにはよくわかる。グレートはもちろん、そんなことに注意を払うような気分ではないらしい。
 ドアから机へ動き、そこをふた回りしてから、黒い革張りのソファの、背と坐る部分の間に、挟まって埋まったネクタイを見つけ、よれてしわだらけのそれを引き出してから、
 「これ、違う。」
 掌に乗せると、ソファの色とそっくりのそれが、けれどよく見ればグレートが今日着けていたネクタイではないことがわかる。ジェロニモは無表情でそれをグレートに差し出す。
 覗き込んで眺めて、グレートが苦笑いを混ぜて唇を尖らせた。
 「間違えて持ってっちまったか。」
 アルベルトが首に巻いて去ったのは、グレートのネクタイだ。ここにあるのは、アルベルトが外して置いて行ったネクタイだ。
 色は似ているけれど、手触りも光沢も違う。触れればわかるはずだ。掌に乗せて、ジェロニモは、アルベルトがわざとグレートのネクタイを持ち去ったのを悟る。
 そうすれば、明日会う約束が確かになるからだ。取り違えたネクタイを届けて、自分のを受け取るために、グレートは絶対に明日アルベルトに会いに行くだろう。
 グレートにもわかっているはずだった。
 苦笑が深みを増して、見ているジェロニモの胸が痛むほど、いとおしげな笑みに変わる。そのネクタイを手に取りたそうなグレートの目の前で、ジェロニモはゆっくりとそれを丁寧にたたんでまとめ、机の真ん中へ置いた。
 忙しくて会えなかった恋人のそばに、自分の身に着けていたものを置いてゆく。恋人が見に着けていたものを、身代わりに取ってゆく。ひどく可愛らしいことだと、ジェロニモは思った。
 部屋の片隅に目立たなく置いてある小さなクローゼットから、同じような色のネクタイを見つけ出し、ついでにきれいなシャツも一緒に出して、ジェロニモはグレートに手渡した。
 さすがに着替えを手伝うのはやり過ぎかと思ったから、紅茶を入れ替えに行くつもりでそのまま部屋を出て行こうとした。
 「ああ、紅茶が冷めちまったな。悪かった。」
 別に、と表情だけで伝えて、ドアから爪先を出したところで、グレートがまたジェロニモに声を掛ける。
 「・・・明日は、夕方で切り上げるから、後はおまえさんに頼むよ。」
 肩越しに横顔だけ見せて、ジェロニモはうなずいた。
 「すまんな。」
 まだ手渡されたシャツとネクタイを手にしたまま、グレートがつぶやくように言う。
 ひとつきりのことではなく、何もかもに対する、グレートの申し訳なさ──ジェロニモに対して示す必要などないのに──が、その声に込められていた。
 そのグレートの声音で、何もかもがどうでもよくなる。ジェロニモはうっすらと微笑み、それからそっとドアを閉めた。
 店へ上がる階段へ向かいながら、アルベルトが残したネクタイを持ち上げて、頬ずりしているグレートの姿を思い浮かべていた。
 嫌悪も気恥ずかしさもなく、心のどこかでかすかに、アルベルトに対する嫉妬のようなものを感じている。
 どれだけ言葉を尽くしても届かない時に、あの男は、ただのひと触れでグレートの心を変えてしまえる。ジェロニモが休めと言ったところで、聞きはしないグレートが、明日やっと少しばかりの休養を取って、あの男に会いにゆく。
 自分がこうしてグレートを守っているように、あの男も、違うやり方でグレートを護っているのだ。
 階段を上がりながら、ジェロニモは無意識に自分のネクタイに触れていた。
 近づくにつれ騒々しくなる音楽から器用に意識をずらし、それでも耳に刺さる女たちや男たちの嬌声を、今日はなぜかいつもになく優しい気分で聞いた。
 その声にアルベルトの息遣いの気配が重なるうち、ジェロニモの唇に、ゆっくりと微笑が浮かぶ。
 最後の段を、勢いもつけずに飛び越えて、手の中で、カップに残った紅茶が小さな音を立てて揺れた。

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