Patient
壁に寄りかかって、いつものように胸の前で腕を組んで、自分自身を焦らすためのように、待つ。
シャワーの音が聞こえていて、一緒に浴びるという手もあったけれど、何となくそれを断って、ドアの傍で待っている。
格別意味もなく、水音に引かれて、バスルームを覗いた時に見た、ジェロニモの濡れた大きな背中を思い出して、早く出て来ないかと、自分勝手に焦れる。
焦れて、まるで、そうさせられているように、ただ、辛抱強く待つ。
水の音は途切れることもなく、熱い湯に叩かれて、いつもよりももっと血の色---ただの循環液だ、とひとり笑う---の濃い、ジェロニモの浅黒い肌の手触りを、想像する。
右手と左手と、感触が違うことが、どうしてかひどく意味深長なことに思えて、思わず組んでいた腕を解き、右手を見下ろした。
焦らされて、我慢ができないと、声がする。
だから、何とかしてくれ。何とかさせてくれ。
頭の中で、声にはならない会話をして、止むことのない水音に耳を澄ませて、ハインリヒは、そこに立つジェロニモの濡れた体に、素直に欲情した。
そろりと、タートルネックの薄いセーターのすそから、左手を滑り込ませ、自分でみぞおちに触れる。右手は、そろそろと下へ下ろした。
下着越しに、鉛色の掌を重ねて、まだ激しくはせずに、こすり上げる。
腹や胸や、自分の体に自分で触れても、あまり面白味はない。それでも、目を閉じて、放っておかれるよりはましだろうと、欲しがる自分にささやきかける。
唇を噛んで、わざと声を耐えて、吐息をこぼす。短い声が、それに混ざってもれ、その声にまた、煽られてゆく。
欲しがる自分の姿の浅ましさは、けれど欲情---誰の?---を誘うのだと知って---誰が?---いて、こすり上げる手を、少しずつ速めながら、いつの間にか、声を耐えることを忘れている。
自分自身を汚すほどには、熱中しない。
待っている間、放置されている間、焦らされている間の、ほんのてなぐさみだ。
左手の下で、皮膚の温度が上がってゆく。おそらく、うっすらと一刷け、血の色を濃くしている。それでもどこまでも白いハインリヒの肌だった。
欲しいのは、こんな手ではなくて。
手を動かしながら、宙に視線をさまよわせて、思う。
明かりのない部屋は暗く、バスルームのドアのすき間からこぼれる、一すじの明かりだけが、まるで闇を切り裂いたように見える。
セーターを、胸近くまでまくり上げて、今はもどかしさに耐えられず、ズボンの前も開いている。
動く右手は、それでも直には触れず、相変わらず下着越しに、けれどもう、はっきりとわかる形を、そこに浮き上がらせていた。
バスルームのドアが、ようやく開いた。
ハインリヒは、うつろな視線をそこへ注いで、乱れた姿を隠しもせず、ただ、両手はだらりと体の横に下ろして、薄闇の中に姿を現したジェロニモを、そこから誘った。
数瞬、まるで何かを確かめるように、ハインリヒにじっと目を当てて、ジェロニモがそこからはまだ動かずに、低くつぶやいた。
「・・・がまん、できなかったのか。」
咎めているようにも、叱っているようにも、揶揄しているようにも、苦笑いしているようにも、困惑しているようにも、そして、そのどれとも聞き分けられない声音だった。
顔を斜めに傾けて、まだ動かないジェロニモを見つめて、ハインリヒは首を振りながら、
「できなかったんだ。」
声がかすれて、まるで泣いているように湿る。
まだ濡れたままの、最小限の裸を隠しただけの姿で、ジェロニモが近づいて来て、ハインリヒを抱き取った。
その場で伸び上がって、あごを突き上げて、唇を重ねた。ジェロニモの腕の中で、もっと熱に浮かされてゆくように、濁った意識を漂わせてゆく。
行き交う舌と唾液は、熱を移し合うまでもなく、もう熱い。
ジェロニモのそれは、さっきまで浴びていた熱い湯のせいだったろうし、ハインリヒには、触れていた自分の掌のせいだったのだろう。
一緒にベッドへもぐり込んで、いたわり合いながら腕を伸ばす、そんなやり方ではなくて、今はまるで、死にかけた誰かを、何かを救うためのように、呼吸を行き渡らせて、ハインリヒは、ジェロニモと同じほど熱い体を、強くすりつけた。
約束ごとや決まりごとではなくて、いきなりそうなってしまった、ただの成り行きの、事故のようなものなのだと、自分の中にあふれる激情を止められずに、ジェロニモを、それに巻き込むように、ハインリヒは、闇雲に彼の唇を奪った。
唇だけでは足りなくなって、必死に押しつける腰も、それだけでは足りなくて、壁際に立ったままで、ハインリヒはジェロニモに背を向けた。
自分でズボンを下ろし、剥き出しになった腰を押しつけると、ジェロニモもハインリヒの意図を悟ったらしく、大きな両手を腰に添えて来たけれど、しばらくの間、ためらうように、躯を引いた。
ぬるりと、開いた脚の間に触れて、腰にも触れて、ハインリヒは待ち切れずに肩を震わせる。
早く、と、壁に触れた唇が、声はなく、形だけをつくった。
最初は、ほんの少しだけ、浅く、ゆっくりと。
呼吸が、甘くかすれる頃を見計らって、少しずつ、深く。まだ、ゆっくりと。
それから、大きな両手が、やっと腰を引き寄せた。
内側の熱さに誘われるように、押し潰してくる大きな体に、背と腰が、壁に沿って伸びて、ハインリヒは叫んだ。
今は押すよりも、突き上げる動きに、片足が床から浮いた。
それでも、壊す激しさは絶対になく、驚くほど深く、ハインリヒの呼吸に聞き入っているのだと、知っている。
苦痛の声と、悦びの声と、素早く聞き分けて、繋がる強さをゆるめる。
繋げた内側で、血の流れと、その熱さを感じながら、自分のための果てではなく、ジェロニモが求めているのは、ハインリヒの、満たされてゆくその最奥だった。
そうやって、満たされれば満たされるほど、ハインリヒは貪欲になってゆく。
足りない、と、自分の内側の声に従って、ハインリヒはジェロニモの右手を取った。
前に導いて、やっと、自分の手ではないぬくもりに、ハインリヒは安堵の息をもらす。
けれどジェロニモの手は、すぐにそこへは落ち着かずに、ハインリヒの右手を、そのまま離さなかった。
直に触れているのは、ハインリヒの右手だった。その上から、ジェロニモの右手が重なり、それから、動き出す。ハインリヒがそう望んだように、けれど、そう望んだ形ではなく。
いやだと、首を振ったけれど、許してはもらえず、自分を助けるジェロニモの右手に、逆らうこともできず、ハインリヒは、いっそう高く叫んだ。
「・・・聞こえる。」
叱るように低く言う声が、耳をくすぐって、かすかに動いた腹筋が、背中で揺れた。
声を殺して、また自分自身を焦らすように、熱を内側にこもらせて、ハインリヒが自分の手---とジェロニモの手---を汚すよりも、ジェロニモが躯を引いた方が先だった。
汚れた、濡れた体で、まだ背中と胸を合わせて抱き合ったまま、少し無理な姿勢で唇を重ねる。
残っている熱を行き交わせるうち、また甦るものがある。
睡魔の訪れの、ひどく遅いことを予感しながら、ハインリヒは、誘うためにジェロニモの腕の中に、また倒れ込んで行った。
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