「あらし」 - 番外編
Red Nails
見つけたのは、店の中でだった。
拾い上げてから、それがマニキュアのびんだと気づく。毒々しいほど真っ赤な、黒いキャップの、小さなびん。
今日、カウンターの近くで、うっかりバッグの中身をひっくり返してしまった女客のものに違いない。細々とした、ひとつひとつを、女は腰をかがめて拾い上げ、アルベルトも、床にしゃがみ込んで、彼女の拾い物を手伝った。
小さく丸いそのびんは、おそらく遠くまで転がってしまい、女の目につかなかったのだろう。
女の爪がどんな色だったか思い出そうとして、どうしても思い出せず、なんとなく、家まで持って帰ってしまった。
かたんと音を立てて、テーブルの上に置く。
暇つぶしと、ふと思ったのだろうか。
アルベルトは、いたずら心を起こして、そのびんのキャップを開けた。
鼻をつく匂い。壁を塗るペンキに、近い匂い。こんなものを指先に塗りつけるのかと、しみじみ女の不思議さを思う。
それから、びんの色と自分の指先をつくづく眺めた後、アルベルトは、左手の指を、そろえてぴんと伸ばしてみた。
爪は、いつも癇症に切り込んである。伸びた爪が、黒く汚れているほどぞっとすることはない。疲れがたまると、甲に浮く血管も、今は皮膚に下に、うっすらと青く見えるだけだった。
節のあまり目立たない、どちらかと言えば長い指。爪は大きく、柔らかな楕円形だった。
キャップについている、マニキュア液を塗るための小さなブラシを、その真っ赤な液にひたした。
ひとはけ、血の色さえ透けて見えない、白い爪に、その赤を落とす。思ったよりも薄い赤い筋が、爪の真ん中に、一本、ブラシの跡を残す。
絵を描くような、そんな作業に興をそそられて、アルベルトは左手の爪を、ひとつひとつ、丁寧に塗っていった。
なかなか、いつも女の手に見るような色にはならず、思いついて、何度か塗りを重ねてみる。
指の方にはみ出さないように、細心の注意を払いながら、自然に、手の先を目の前に近づけ、いつの間にか真剣に、色を塗り続けていた。
いちばん小さな、小指の爪に苦労しながら、ようやくブラシをびんに戻し、出来栄えを見るために、手を少し遠去けた。
そんな赤に爪を染めると、女の手でないことが、よけいに際立つ。
そのおかしさに、アルベルトは思わず破顔した。
やはり爪をきちんと伸ばして、もっと小さな、可憐な、薄い掌でないと、似合わないのだと自分で思う。
それでも、まるで他人の手のような、見知らぬ眺めが、なんとなく楽しかった。
子どもが、たとえば波打ちぎわに作った、砂の山を親に自慢するように、アルベルトはふと、この赤い爪のことをグレートに話したくなった。
くすくす笑いを止められずに、アルベルトは早速、グレートの携帯電話に電話をかける。
律義に、数えたように、3度目で声がする。
「グレート、今どこだ?」
------車の中だ。移動中でね。
グレートの車の中には、外の音はほとんど届かない。人の気配はなく、グレートの声だけが、きれいに聞こえた。
「あんたの趣味じゃないだろうけど、爪を、真っ赤に塗ったんだ。」
------どんな赤だ、My Dear?
「チェリーレッドかな、これは。」
びんの底を見て、けれど色の名前はなく、あるのは番号だけだった。
------おまえさんには、もう少し、おさえた色の方が似合う。
「仕方ないさ、別にわざわざ買ったんじゃない。店の忘れ物だ。」
------で、おもしろがって、塗ってみたのか?
「そう、初めてにしては上出来で、あんたに報告したくなった。」
------見てみたいな、その上等の出来栄えを。
「はは、あんたきっと、笑うよ、グレート。」
爪を眺めて、それから唐突に、この色をどうやって爪から剥ぎ取るのかと、思う。
「これ、どうやって、爪から取るんだ?」
------除光液とか、言ったかな、確かそんなものだ。
「除光液? これ、石鹸じゃ落ちないのか。」
ペンキと同じ匂いだと思ったことを、ようやく思い出す。そんなものが、石鹸で落ちるはずもなかった。
------My Dear、たまにおれは、おまえさんが女と付き合うのを止めるべきじゃなかったと、思うよ。
「物知らずなのは、別に、女と付き合ったことがないせいじゃない。」
アルベルトは、見えもしないのに、グレートに向かって、少しだけ唇を突き出した。
取れないとわかれば、爪の赤が、ますます緋い。
------今度、ゆっくり似合う色を一緒に探そう。ついでに足の爪にも塗ればいい。
「遠慮しとくよ、こんな面倒くさいもの、一度だけでたくさんだ。」
------じゃあ、せめて、今回の出来を見せてくれ。
「あんたがここに来れば、いくらでも見せるさ。」
そんなふうには思わずに、それでも誘いの口調になる。
ふと、グレートの舌と指先の感触が、膚の上に甦った。
爪の赤い左手を、そっとシャツに下に滑らせる。
グレートの掌を思い出しながら、アルベルトは目を閉じた。
------アルベルト?
不意に静かになったのを不審に思ったのか、グレートが声をかけた。
「そのまま、しゃべっててくれ。」
潜めた声に、我知らず湿りが混ざる。
聞かせるつもりで、声を上げた。
恥知らずに、爪を赤く染めて、まるで淫売のように、自分を慰めようとしている。
ズボンの前を開け、脚を開いた。
「来るのか、グレート?」
我知らず、声に、焦りが滲んだ。
------おまえさん次第だな。行きたいと、思わせてくれれば、今夜の予定を変えたっていいさ。
くくっと、アルベルトの気配を察したのか、グレートが喉の奥で笑う。
------素晴らしいショーでも、かけてくれるのか、My Dear?
意地悪い口調が、さやさやと、首筋の辺りを這う。
遠回りをしろと、運転手に言うのが聞こえた。
どうやら、付き合う気らしいとわかって、アルベルトは、唇を噛みながら、そっと自分に触れる。
喉を反らし、うなじをソファの背に預ける。体を伸ばして、手をゆっくりと動かし始めた。
グレートの掌、体温、暖かな舌、そんなものを、ひとつびとつ思い出す。
閉じた目の奥に、グレートの姿を思い浮かべながら、手の動きを変えた。
まるで、グレートが目の前にいるように、見せつけるように、ソファから腰を浮かせて、また声を立てた。
勃ち上がっても、左手では、やはりうまく行かない。
もどかしさに焦れながら、それでもアルベルトは必死に手を動かした。
「グレート・・・来てくれよ、早く。」
ここに来いと言っているのに、かすれた声が、別のことを言っているように聞こえる。
------美味き声、かな。
耳に流れ込んでくる声が、アルベルトの神経を騒めかせる。まるで、その指先でなぶられているように、感じた。
腿の内側に、グレートの呼吸を感じた気がして、途端に躯が硬張った。
声を、電話の向こうに送りながら、その自分の声に煽られる。
手を移動させ、痛いほどとがった胸の突起を、指の間にはさんだ。
「グレート、来てくれ・・・・・・あんたが欲しい。」
------ショーの途中で席を立つのは、恥知らずのやることだ。最後まで見るのが、観客のつとめでね。
「がまん、できない・・・グレート。」
------する必要はない、My Dear。
アルベルトは、また声をもらした。
手を、もっと奥まで潜り込ませ、粘膜の入り口を、自分で探った。
指先を、ぬるりと埋める。
両足を、引きつるほど大きく開き、明かりのついたリビングのソファの上で、自分を慰めることに没頭する。
もっと深くに、入り込んでくれるはずの男は、電話の向こうで涼やかに、笑っている。
まるで、こんな浅ましい自分を、嘲笑するかのように。
みだらに声を上げながら、アルベルトは、繰り返しグレートの名を呼んだ。
自分の中の熱を、指先に感じて、アルベルトはまた、自分に触れる、グレートの舌を思い出していた。
差し入れた指を動かして、まるで中にこもった熱をかき出そうとするかのように、アルベルトは忙しなく息を吐く。
耐えきれずに、舌先を噛んだ瞬間、火照った膚の上に、熱を散らしていた。
また閉じてゆく躯の奥に、まだ指先を残したまま、アルベルトは、まるで犬のように、舌を垂らして喘いだ。その舌先を、グレートが優しく噛んでくれることを、愚かにも夢見ながら。
赤い爪の指先を、アルベルトは目の前にかざした。熱に濡れ、まるで、他人の手のように見える、それ。
------後始末は、裏方の役目だ。何もせずに、そのまま待っててくれるんだろう、My Dear。
「なんだ、後始末なんか、してくれるのか。」
はすっぱに、わざとすねたように、アルベルトは言った。
グレートがまた、おかしそうに笑う。
------素晴らしいショーを、もっと素晴らしいものにできるのは、演出家の特権でね。
グレートの静かな声に、また、躯の奥が、熱く疼く。
足らない、とアルベルトは思った。
恥知らずの淫売。自分のことを嘲りながら、アルベルトは苦笑をもらす。
「早く、来てくれ。また、おかしくなりそうだ。」
また、熱を帯び始めたのを確かめて、アルベルトは切なそうに言った。
赤い爪を、自分が散らしたぬめりに滑らせる。
グレートの足音が、どこかで聞こえたような気がした。
しつこく、コッペイさまに捧ぐ。
ベビードールを書く勇気とネタは、さすがにありませんでしたが、次の機会を狙ってみます(狙わんでいい)。
我々(誰?)の妄想を、増幅拡張しまくってくれるコッペイさま、お礼の言葉もありません。これからも、どんどんタガ外して下さい。今度はぜひ、単体でなく、複数で(とかって、さり気なくリクエスト。だめ?)。
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