「あらし」 - 番外編
Red Wine
首に回された、厚い革の首輪からは、細くはない鎖が、垂れ下がっていた。
グレートが、それを優雅な仕草で持ち上げ、少しばかり強く引っ張った。
それにつれて体が傾き、目隠しをされているアルベルトは、戸惑いながら、よろけるヒールの足元で、引かれた方へ一歩揺れる。
ふわりと触れた唇に気を許して、伸ばそうと持ち上げた手を、ぴしゃりと叩かれた。
その両手も、手首を重ねて、きつく縛ってある。
思わず、叩かれた手を胸に引きつけると、また首輪から、強く引き寄せられた。
「今日は、我慢比べだ、My
Dear。」
胸を重ね、耳元で、グレートが吐息だけで囁いた。
それだけでもう、ぞくりと背筋を震わせて、アルベルトは、喉を伸ばして喘いだ。
肩と両腕は包まれているけれど、胸の前と背中は剥き出しになっている、黒い革の衣装。すそは、膝と腿のちょうど中間ほどで、けれど両脇は、大きなスリットのせいで、ほとんど2枚の革を、前後に合わせただけのように見える。
足元は、また黒い、高いピンヒール。アルベルトの身長と重さを支えるには、あまりにも華奢過ぎる外観だった。
下には何も着けていない腿の内側を、グレートの細い指先が、そっと撫で上げた。
それなりに厚みのある肩も胸も、柔らかく肉のついた女の着るはずの、この衣装にはあまりそぐわず、それでもぴったりと張りついた黒の革の陰影と、アルベルトの青いほど白い膚の色合いは、観賞---それとも、鑑賞と言うべきだろうか---に値する眺めだった。
グレートは、アルベルトから数歩離れ、けれど首輪の鎖は手にしたまま、塞がれた視線を、どこへ向けようかと思案している風な、自分の情人を見やった。
グロテスクにも見える、右肩と右手首に見える、鉛色の機械の部分。
色素の薄い、それ同様、まとった気配もうっすらと儚げなアルベルトに、さらに危うい色を添えている。まるで、壊れた、あるいは壊れかけた人形のような。
これのせいだと、グレートは、聞こえない声でひとりごちた。
壊れかけた人形。完璧に、傷ひとつないなら、恐らく手を触れることさえためらわせるだろう、その硬い輪郭。けれど、その壊れてしまった部分のせいで、崩れた完璧さは、ある種の人間の、嗜虐心をそそる。ひどく。
グレートには当てはまらない嗜好だったけれど、それを誘う人間には、与えてやらなければならない義務がある。
小さく溜め息をこぼして、グレートは、取り出した煙草を、唇にはさんだ。
床に這え、と言われて、アルベルトは、倒れないように気をつけながら、膝を折った。
床に、縛られた手を伸ばし、膝を揃え、まるで、テーブルのように、姿勢を正す。
静かに近寄った足音が、いきなり頭の後ろを踏んだ。
頭を下げろと、口では言わず、床に押さえつけられた頬骨が痛む。腕の間に額を落とし、アルベルトは、床から跳ね返る、自分の息の熱さに、思わず頬を染めた。
煙草の匂いが、傍に漂う。それから、もう、すっかり覚えてしまったコロンの香り。
それが、少なくとも、これが見知らぬ他人ではなく、膚に馴染んでしまった男なのだと、アルベルトの、今は見えない目に知らせてくれる。
何をされるのかと、思っただけで、ふと、躯の奥が震えた。
ヒールの爪先が痛む。押し潰された爪先は、細く形作られた革の中に閉じ込められて、呼吸を求めるように、喘いでいる。
高く腰を持ち上げた形で反った背中が、軽く痛んだ。
爪先から、膝に向かって、革靴の感触が、足を割り開いてゆく。膝を、蹴るようにして、大きく開かされた。
躯の裏側を、不意に覗かれたような、そんな気がした。背骨が、ざわざわとざわめいた。
聞こえるほど大きく、息をもらす。
「我慢比べだと、言ったろう。」
静かに、冷たい威圧を込めて、声が降ってくる。
アルベルトは、きつく唇を噛んだ。
革靴の先が、体のあちこちをなぞり始める。
剥き出しになっている皮膚を滑り、体の輪郭をたどる。
くすぐるようにそこにとどまると、アルベルトの体が跳ねた。
皮膚の下が、波打つように、小さく震えている。まるで、そこから無数の触手が伸び、触れてくるすべてを、絡め取ろうとしているかのようだった。
革に包まれ、隠れているはずの腰の辺りが、すべて晒されているような、そんな気がする。
出来るなら、伸ばしてそこに触れたい手は、しっかりと縛められている。
アルベルトは、声を殺して、息を止めた。
床に這わせ、腰を高く上げさせただけで、もう、首筋が赤く染まっている。
羞恥のためではなく、躯の、止めようのない火照りのせいだとわかっている。
指でじかに触れれば、こちらの自制が危うそうで、グレートは、革靴の爪先を、代わりに伸ばした。
触れるたびに、吐く息の音が聞こえる。もう、床は、吐息のせいですっかり湿っていることだろう。
濡れているのは、床だけではなかったけれど。
次第に汗の浮いてくる膚に、時折、革の爪先が、引っ掛かるように動いた。
朱く染まる膚。もがくように動く、ヒールの爪先と、縛られた手が、どこよりも表情豊かに、アルベルトの内側に起こりつつあることを示している。
欲情、と唇でだけ呟いて、グレートは、触れるのをやめた。
わざと足音を立てて、背を向ける。
あちら側にある、ひとり掛けの椅子に向かって歩きながら、アルベルトが、頭を上げて、足音を追っている気配を感じていた。
どさりと腰を下ろして、床に這いつくばる、自分の情人の、惨めな様を眺める。
欲しいのは、膚に直接触れる、指先と掌。それから、自分の熱をなだめてくれる生身の手と、疼く躯の内側を、侵してくれる誰かの形。
自分はどこまで我慢できるだろうかと、グレートは思った。
もう、身に着けているすべてを剥ぎ取って、いつものように、穏やかに優しく、熱くなった躯をなだめてやりたくて仕方がなかった。
それでも、それだけでは物足りないと、もの言わぬ唇が語る言葉を、もう何度も聞いた。
痛めつけられたいとは言わない。踏みつけにしてくれと乞うわけもない。それでも、そんなやり方しか知らない躯は、そんなやり方を求めて、無言でグレートに絡みついてくる。
そんな自覚など、かけらもないまま。
他の誰にも、もう触れられたくないと言った。他の誰にも、触れさせる気などなかった。
けれど、穏やかさに慣れていない躯は、グレートの静かさに、そうとは知らずに獰猛な牙をむく。
それに呆れ、それを嫌悪し、浅ましく惨めだと思いながら、そんなアルベルトに溺れる。煽られて、そそられて、自分の知らない自分が、ふと顔を覗かせる。
踏みつけられたいアルベルトが先なのか、踏みつけにしたい自分が先なのか、どちらがどちらとも、もう見極めもつかない。
ネクタイをゆるめ、グレートは、用意しておいたグラスに、赤いワインを注いだ。
体中に突き刺さる視線を、感じていた。
じかに触れる指よりも、もっと熱く、皮膚に突き刺さる。無数の手に、同時に触れられているような錯覚を覚えて、アルベルトは、怯える子どものように首を振る。
このまま体を起こし、グレートを捕まえて、その足にすがりつけば、欲しいものを与えてくれるだろうかと、思う。
No、と頭の中で声がした。
グレートはきっと、這いずり回って、浅ましくねだるアルベルトを、冷たく見下ろすだけで、その指一本すら動かさない。
いつもと同じ、優雅な仕草で肩に手をかけ、あの、耳に甘く流れ込む声で、きっと、My
Dearと言って、薄く笑うに違いない。
与えてはもらえない。まだ。
開いたままの脚の間で、沸騰し続ける熱が、もう、限界まで膨張していた。生身の掌が触れるまでもなく、爆発してしまうかもしれないと、怯えに似た予感が走る。
もう、革の下ですっかり勃ち上がっているアルベルトが、グレートから見えるのかどうかは、わからなかった。
それでも、そんな変化に気づかれないわけもなく、アルベルトは、いっそう肩を縮めて、羞恥にまた膚を染めた。
首輪をはめられた時には、もう熱は上がり始めていて、それをなだめる術など、アルベルトは知らなかった。
床に這い、脚を開かされて、けれどそれ以上のことは、何も起こらない。
何かが起こるのは、いつもアルベルトの頭の中でだけで、グレートは、ひとり勝手に身悶えするアルベルトを、いつもと変わらない静かな視線で眺めているだけだ。
その静かさが、よけいに躯を熱くさせる。
淫らな予感と想像で、ひとり喘いでいる恥ずかしさと、そんな姿態が、グレートをそそるのに違いないという確信が、アルベルトを煽り続ける。
また、反ったままの背中を揺らして、吐息をもらした時、グレートが、立ち上がって動いた気配がした。
ゆっくりと、空気が流れる。
また自分に近づいてくる、グレートの体温に、アルベルトはようやく触れてもらえるのかと、安堵の吐息をこぼしそうになった。
途端に、背中に突然降りこぼれてきた冷たい液体に、アルベルトは悲鳴を上げ、背中を弓なりに曲げた。
雨の雫にすれば、せいぜい4、5滴程度の量だったのに、触れてほしくてざわめいていた皮膚は、その刺激に、いきなり切り開かれたように、剥き出しになる。
胸を喘がせて、大きく息を吐く。
今度は、首筋に、冷たい液体が注がれた。
ああ、ともう、止める間もなく声をもらして、首をねじ曲げ、アルベルトは、気配のする方へ見えない視線を振り向けた。
それを狙ったように、頬の辺りに水滴がはじけ、唇の端に伝い流れた。
舌で舐めて、初めてそれがワインらしいとわかる。
革と皮膚の間を、ワインの川が流れてゆく。ひやりと膚を伝うその感触に、アルベルトはまた、全身をくねらせた。
ワインの赤に負けないほど、紅く火照った皮膚に、血の色に似たそれが、するりと流れてゆく。
水滴がこぼれるたび、体中を揺らして、アルベルトは、切ない喘ぎをもらした。
銀の髪が赤く濡れ、頬に張りつく。色の薄い、肉付きも薄い唇に、赤いワインが滴り、まるで、血を飲んだ後のように見えた。
流れたワインを、ちろりとのぞいた舌が、するりと舐めた。
ふと、その舌が、別のところに触れているのを想像して、グレートは、軽い眩暈に眉を寄せる。
限界が近いのはお互い様かと、不意に苦笑をもらした。
それでも、実際に屈伏するのが自分だとしても、屈伏したのはおまえの方だと、思い知らせてやるのが、始めた者の義務だった。
アルベルトの足元に膝をつくと、グレートは、腰を覆う部分を、一気にまくり上げた。
剥き出しになった膚に、不意に触れた空気が冷たいのか、ふっと腿の辺りが、硬張ったのが見える。
掌を添えて、皓い輪郭に触れると、ひくりと背中が揺れた。
誘うように、躯の線がゆらめく。
今は半分だけ見える、薄い皮膚の下で波打つ背骨を、グレートは視線でなぞった。
それから、細いワインの滴りを、たった今剥き出しにした膚の、ちょうど真ん中辺りに、たらたらとこぼした。
また、アルベルトが、声を上げる。
頭を持ち上げ、背を波打たせ、その冷たい刺激から逃れようと、自然に体が床をずり上がる。
グレートは、腰に手を添えてそれを防ぐと、床に、たんと音を立ててグラスを置き、そして、舌を伸ばして、ワインの流れた跡をなぞった。
舌を使ってやりながら、前に手を伸ばすと、包み込んだ途端に、手の中で跳ねた。
革の拘束衣のその部分は、もうとっくに濡れて汚れていたけれど、グレートは、わざと濡れてしまった手を軽く振りながら、
「もう少し、我慢できなかったのか。」
と、まるで叱りつけるように言う。
アルベルトが、そうとはっきりわかるほど、肩を縮めて、あごを、両肩の間に埋めてしまった。
グレートは、床に伸びた鎖を取り上げ、また強く引いた。
無理矢理体を引き上げられ、床の上に膝立ちになると、グレートの手が、耳の後ろで髪をつかみ、上向かせた唇に、触れるだけの接吻が降ってきた。
アルベルトは、唇を開いて、素早く舌を伸ばそうとしたけれど、それより早く、グレートは体を伸ばして立ち上がってしまう。
また、肩透かしを食わされて、アルベルトは露骨な失望に、口元を歪めた。
頬に添った手に、不意にぐいとあごを持ち上げられ、何事かと思う前に、唇に触れてくるものがあった。
驚いて唇を開くと、ぬるりと入り込んできて、アルベルトは、歯を立てないために、大きく口を開けた。
「手は、使うな。」
静かに、けれどぴしりと言われ、アルベルトは、おずおずと縛られた両手を、床に向かって垂らす。
もう、促される必要もなく、舌を動かして、そこに熱を生み出そうとする。
自分の、生暖かいだろう舌の上で、体温と形が変化してゆく。
まるで、その形を必死で記憶しようとするかのように、舌先で線をなぞり、唇で大きさを計る。
必死で首を振りながら、そこに生まれた熱に呼応するかのように、また自分の中にも発生し始めた熱を感じて、アルベルトは、もどかしげに肩を揺らした。
革の、スカートの前の部分が、ゆるりと持ち上がる。
グレートの視線からかばうように、アルベルトは、また勃ち上がってしまったそこを、さり気なく動かした両腕の影に、そっと隠した。
何故、こんなに躯が熱いのだろう。
躯の奥のどこからか、とめどもなく、あふれてくるものがある。
その正体を、けれど見極めたいとは思わなかった。何か、恐ろしいものを見つけてしまうに違いないと、確信があった。
さかりのついた牝犬だなと、心のどこかで思う。
Bitch---牝犬---という、下品な単語は、けれどアルベルトにはそぐわず、こんなになってさえ、いとしさを消せない自分を不思議に思いながら、グレートは、アルベルトの、唾液に濡れた口元を見下ろしていた。
額に汗を浮かべて、必死のさまで顔を動かしているのが、ふと憐れになって、グレートはようやく、体を引きはがした。
自分がもっと冷たい男なら、アルベルトがほんとうに求めているものを、与えてやれるのにと、唇を噛みたい思いに、不意に駆られる。
他人を踏みつけることに、罪悪感などこれっぽちも感じずに、際限もなく人を傷つけることができるなら、アルベルトを、殺してやれるのに。
中途半端なヒューマニズムは、サディズムよりもたちが悪い。
適当な嗜虐心は持ち合わせているくせに、相手を悦ばせるまでには至らない。楽しむのは自分だけで、相手の欲しがるものを与えてやるには、つまらない、下らない罪悪感が邪魔をする。
アルベルトを殺せないのは、いとしさゆえと、あまりに彼が憐れだからだと、そんな理由を見つけながら、それでも、ほんとうにいとしいなら、こんな目に遭わせる前に、殺してやればいいのだと、そんな声が聞こえる。
殺し屋のくせに。殺し屋だった、くせに。
胸の中でひとりごちた。
アルベルトを床に突き飛ばし、また彼が、勃起しているのを見つけて、不意に笑い出したくなる。
躯は、いつも心を裏切るけれど、それでも躯が表すのは、ある種の真実だという思いを、否定できない。
踏みつけにされることを拒みながら、それに慣れてしまった躯は、知らずに暴力を求めてしまう。暴力のない繋がりを、心は信じるのに、躯は信じない。
ほんとうに求めているのは、一体何なのだろう。
穏やかな優しさなのか、それとも激しく侵されることなのか。
アルベルトを床にうつ伏せにすると、頭を押さえつけ、グレートは、何の前触れもないまま、その中に押し入った。
そんな乱暴な仕草を、暖かな粘膜は、まるで悦ぶように、迎え入れようとする。
押し潰された胸から、ひずんだ声がもれるのを、グレートは、目を閉じて聞いた。
火照った膚から、かすかにアルコールの匂いが立ち上る。うっすらと残った、ワインの赤い染みが、まるで血の跡のように見える。
容赦もなく動くたびに、アルベルトが、獣のような声を上げた。
首輪の巻かれた、その白い首に、ふと両手を添えたい衝動に駆られる。その首筋に、きしきしと音を立てて食い込む、自分の10本の指が、ふと見えた気がした。
突き上げられて、耐えきれないように、体をねじったアルベルトの、髪をつかんで、覆いかぶさるように体を倒すと、グレートは、濡れたその唇に、精一杯のいとしさを込めて、接吻した。
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