ここからふたりではじめよう - 番外編その3

劣情



 キッチンで、夕食を作るアルベルトを、後ろから見ていた。
 色の濃いシャツに、すっぽりと包まれた肩と背中。エプロンの紐が、体の線を、ゆるやかに浮き彫りにしている。
 姉の、フランソワーズのそれとは違う、線。広い背中も肩も、フランソワーズが与える印象とは、まるで違う。
 それなのに、その後ろ姿を儚いと感じるのは、うつむいたうなじのせいなのだろうか。どこか華奢に見える、肩から首筋、そして、頬へつながる線。きっちりとした、直線なのに、なぜか周囲に溶け込んでしまいそうに、輪郭が、あやうい。
 視線を、肩から背中へ、それから、もっと下の方へ流す。
 薄い腹の辺りは、もちろん正面からしか見えないけれど、けれどその線は、よく知っている。
 背中から落ち、腰へ渡る線。そこから、腿へ走り、膝裏へ落ちて、踵へ向かう。ズボンのせいで、きれいな足首が見えないのを、残念に思う。
 ふと、この間、勉強のつもりで読んだ、ポルノ小説の一節が、頭に浮かんだ。
 ------劣情を催させる。
 バスケット部の仲間が、回し読みしていたのを、こっそり借りたものの、一冊だった。
 面白いとはちっとも思わなかったけれど、好奇心だけは、満たしてくれた。その夜、ろくでもない夢を見る羽目にもなった。
 劣情。
 ポルノ小説、辞書引きながら読むのも、オレだけだよな、きっと。
 どくん、と、心臓が跳ねる。
 熱くなった頬を、慌てて軽く叩くと、その気配に、アルベルトが振り返った。
 「どうした?」
 肩と背中の線が、ねじれる。それが、なぜだか、ジェットを強烈にそそった。
 できるだけ露骨な語彙で、扇情的に書かれた描写が、アルベルトの体の線に、不意に重なる。
 「なんでも、ないよ、せんせェ。」
 むりやり笑って見せると、そうか、とアルベルトがまた体の位置を元に戻す。
 また、どくんと、心臓が跳ねた。
 聞こえないように、重く息を吐く。ごくりと、喉が鳴った。
 今度はもう、我慢せずに、ゆっくりと椅子から立ち上がり、アルベルトの傍へ寄る。
 アルベルトの、骨張った細い足首の感触が、掌に甦る。思わず、拳を握りしめた。
 シンクで、汚れた皿をすすいでいるアルベルトの、両脇に腕を伸ばし、すと、うなじに接吻する。
 驚いたアルベルトが首筋を伸ばし、肩を硬張らせる。
 「じっとしてて、せんせェ。」
 腕を伸ばし、流れている水を止めた。
 微かに、髪から清潔な匂いがする。まだ、確かめたことのない、彼が使っている石鹸の匂いに違いなかった。
 「せんせェ・・・・」
 驚くほど、甘い声が出た。
 体中の血が、どくどくと首筋を流れてゆく。
 アルベルトは、手を止め、一体何をするのかと、顔だけねじ曲げて、体を固くしている。
 うなじと耳の後ろに、唇を這わせた。それから、優しさだけを込めて、両腕を、アルベルトの腰に回した。
 一瞬、抵抗を腕に感じて、けれどアルベルトは、そのままジェットの腕の中で静かになった。
 シャツの襟を噛んで、下へ引き下げる。少しだけ露わになった肌に、また接吻する。
 背骨の、始まる辺り。アルベルトが、びくりと肩を震わせた。
 腕を下へずらし、エプロンの下へ、差し入れる。長い腕をできるだけ伸ばして、腿の内側へ触れようとした。
 「せんせェ・・・・」
 首筋の皮膚が、赤く染まっている。シャツ越しに触れる胸の辺りも、気のせいか、熱い。
 心臓が、速かった。
 我慢できずに、強く腰を押しつけると、今度こそはっきりと、アルベルトの背中が硬張った。
 肩を乱暴につかんで、正面を向かせると、ジェットは何も言わずに唇を重ねた。
 体を引こうとするアルベルトを、もっと強く、腕の中に抱きしめる。体中が、熱かった。
 ようやく唇が離れると、伏し目に、頬を染めているアルベルトが見えた。ジェットのシャツの胸元をつかみ、その指先が、白く震えている。
 同じくらい紅潮した頬のまま、アルベルトを見つめながら、自分の瞳が、泣きそうなほど熱に潤んでいるのを、ジェットは知っていた。
 アルベルトの左手を、シャツから外し、ゆっくりと下へ導く。
 目的の場所にたどり着いて、アルベルトの肩がびくりと揺れた。
 耳元に、ほとんど呼吸になった声で、囁く。
 「オレ・・・ほら、もう・・・・せんせェ、してくれる?」
 口で、と最後に付け足すように言うと、アルベルトが、頬を引きつらせて、首を縮めた。
 返事も訊かずに、ジェットは体の位置を入れ換え、アルベルトの肩を押した。
 戸惑いと困惑が、アルベルトの肩の辺りに見えたけれど、ジェットはもう構わず、彼が床に膝をつくまで、その肩を押し続けた。
 それから、ゆっくりと、ズボンの前を開けた。
 アルベルトが、顔を背けようとしたのを許さず、頬に指を添えて、顔を引き寄せる。
 観念したように、アルベルトが、ゆっくりと目を閉じたのが、下目に見えた。
 両手が、触れる。生身の掌と、機械の指先。
 それから、生暖かく濡れた、唾液の感触。
 舌が、どうしていいのかわからずに、触れながら戸惑っている。ジェットはほんの少しだけ、躯を動かした。
 銀色の髪と、白い手、そして鉛色の機械の手。固く閉じた瞳は、睫毛が震えていた。
 歯が、当たる。痛みよりも、むず痒さがあって、ジェットは思わず息を吐いた。
 ゆっくりと、アルベルトが動く。稚拙な動きで---もっとも、ジェットにはそんなことはわからない---、ジェットを包み込んで、傷つけないように恐る恐る、舌を使う。
 髪の中に指を差し入れ、梳くように動かした。こめかみにうっすらと浮く汗を、そっと指先で拭う。
 少しずつ、余裕を失くしてゆく。
 喉を反らして、ジェットは喘いだ。もう自制も効かずに、もっと奥へ突き立てようと、躯が動く。そのたびアルベルトが、動きを止めた。
 背筋の奥の辺りで、小さな爆発がいくつも起こった。
 「せん、せェ・・・・も、オレ・・・」
 弾ける直前に、アルベルトの肩を突き飛ばした。
 肩で息をしながら、薄く染まった頬のままで口元を拭うアルベルトを、盗み見る。
 慌ててズボンを引き上げ、ジェットはそのまま走るように、バスルームへ駆け込んだ。


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 床に坐り込んだまま、アルベルトはまだ、唇に触れていた。
 まだ、異物感が拭えない。
 微かな吐き気と、自分がしたことに対する嫌悪感。
 ジェットを愛しいと思うこととは、また別の感情だった。
 いやな気分が、喉の辺りにつかえていて、まるで吐き気が空の胃を痛めつけるように、心臓を重苦しく圧迫していた。
 水を使う音が聞こえて、それから、ジェットが、うつむき加減にバスルームから出て来る。
 それを見て、アルベルトはようやく、シンクの縁に手をかけ、立ち上がった。
 照れと罪悪感が、ジェットの頬に刷かれていた。
 それを見た途端、アルベルトは、自分が傷ついていることに気がつく。
 すうっと、血の気が引いてゆく。体が、情けないほど軽い。
 エプロンの胸元を握りしめて、自分に、まるで家出から戻ってきた猫のような様子で近づいてくるジェットを、にらむように見た。
 そんなことには気づきもせず、ジェットが、シンクの縁を握りしめている、アルベルトの右手に触れようとする。
 その手を、思わず引いた。
 様子がおかしいのにようやく気づいて、ジェットが、目を細めてアルベルトをうかがった。
 「せんせェ・・・?」
 言葉がほしかったのだと、力を込めた腕ではなく、優しく動く唇がほしかったのだと、言えれば良かったのに、それができなかった。
 まだ子どもで、覚えたばかりの遊びに夢中になるように、触れたいと思う気持ちを抑えないだけなのだと、わかっていたから、それを責める気にはなれなかった。
 それでも、場所もわきまえず、こちらの気持ちにおかまいなしのやり方が、アルベルトを傷つけていた。
 好きだという気持ちと、体が求めるのと、一体どちらなのだろう。答えがわかるわけもないのに、考えずにいられない。
 子どもだから、と大人になろうとしても、その子どもに振り回される自分が、たまらなく惨めに思えた。
 固い横顔を見せたまま、アルベルトは、震える声でようやく言った。
 「帰ってくれ。」
 反駁しようと、何か言いかけるのに、その時間さえ与えず、
 「帰ってくれ。」
 また、今度はもっと強い声で、繰り返した。
 撲られるかと、ふと思った。ジェットが、握りしめた拳を震わせて、ぎっと歯を食いしばる音が聞こえた。
 それを正面に見る勇気はなく、胸元を、自分のための防御のように握りしめたまま、横顔のまま、アルベルトは、言葉を投げつける。
 「君の、抱き人形じゃないんだ・・・。」
 一瞬、鉄のように硬くなった空気が、頬を打ったような気がした。
 けれど、いきなり撲られたような表情をしたのは、ジェットの方で、何か言おうとした唇が、白っぽく乾いて見えた。
 結局何も言わず、振り向くことさえせず、ジェットは、言われた通りに姿を消した。
 ドアの閉まる音と、ばたばたと走り去る足音を聞きながら、アルベルトは額を押さえる。
 急にがらんとした部屋の中で、不意に、空気が寒い。
 傷つける気も、傷つく気もなかった。それでも、ジェットが自分を傷つけたのだと、ジェットにそんな気がなかった---あるはずもなかった---としても、自分は傷ついてしまったのだと、そう感じるのを止められない。 
 うつむくと、涙が、床に落ちる。煙草でも吸えればよかったのにと、ふと思った。


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